前回のあらすじ
山間の温泉に辿り着く一行。
いよいよもって旅行番組の様相を見せ始めてきた。
湯の花漂い、分厚い湯気の覆う温泉で、ぼんやりと釣り糸を垂らしている姿っていうのは、かなりシュールだと思う。シュールっていうか、クレイジーっていうか。
「……これ、本当に釣れるのかしら?」
横でたもを片手に見守るトルンペートも、実に疑わしそうな眼だ。
そりゃそうだ。
温泉で魚釣りなんて、聞いたことがない。
でも、マテンステロさんによれば、この温泉に棲む魔獣こと温泉魚とやらが、結構な数、泳ぎ回っているのだという。
そして温泉魚が泳ぎ回っているということは、それが餌にしている生き物や、逆に温泉魚を餌にしている生き物も、多分、いるんだろう。
半信半疑ではあるけれど、なにしろファンタジーな世界のことだ、温泉を住処とする魚類がいても、そういうものかもしれないと私なんかは思う。
例えば、ドクターフィッシュとか呼ばれる魚類は、確か三十七度程度の水温でも生きていけるはずだ。
足湯なんかでこう、角質を食べてくれる奴だ。
私は体験したことがないのだけれど、くすぐったくて面白いとは聞いたことがある。
他にも、温泉に広がる藻だとか、四十度を超える温泉で確認されたオタマジャクシだとかいるらしいし、極端な話で言えば、深海の熱水噴出孔付近では八十度を超える中で棲息しているポンペイワームとかイトエラゴカイとかいるしね。
そう考えると、風呂の神なる超存在が実在しているこの世界のことだ、温泉の中で平然と棲息している生き物がいてもおかしくはないと思う。
現地人のトルンペートからしても疑わしく思えるみたいだけれど、まあ、いないと決めつけるより、いるかもって思った方が面白いし、いざ遭遇した時に慌てないで済む。
それに、私の場合、いるかいないかもわからない生き物を待ち続ける必要はない。
「いるなら必ず釣れるし、いないなら釣れない」
そう、この《火照命の海幸》ならね。
こうして釣り糸を垂らしているこの釣り竿、ゲームアイテムの一つで、水辺で使えば確率でアイテムが釣れるというものだった。
幸運極振りの私がこの釣り竿を使えば、百パーセント何かは釣れるのだ。
そして生物相が限られているだろうこの温泉であれば、いるとするのならばほぼ確実に温泉魚が釣れること間違いなしだ。
あまりの便利アイテムっぷりに私自身呆れるほどだが、隣のトルンペートなどはあきれ顔で、またいつもの便利道具かという顔をしている。便利だからいいや、というスタンスではあるみたいだけど。
今回は、釣り気分を少しでも味わえるかと思って、《生体感知》での魚群探しはせずに、適当な場所で糸を垂らしているので少し時間はかかるだろうが、もとより釣りとはそういうものなんだろう。よくは知らないけど。
ぼんやりと湯気を眺めていると、トルンペートが温泉に向けていた疑わしげな視線を、《火照命の海幸》に向ける。
「詮索するわけじゃないけど」
「なあに?」
「そういうのって、どこで手に入れた訳?」
そういうのっていうのは、つまり、この《海幸》だけでなく、《鳰の沈み布団》とか、《魔除けのポプリ》とか、トルンペート達の言うところの便利道具のことだろう。
改めて尋ねられて、私は少し考えこんでしまった。
フムンと漏らしたきり黙り込んだ私に、トルンペートはどことなく気まずげに鼻を鳴らした。
「別に、詮索する気はないわよ。言いたくないなら、」
「どこで手に入れたんだろうねえ」
「はあ?」
「いや、誤魔化すわけじゃなくてさ、本当に、これ、どこから手に入れたんだろうねえ、私」
自分でもわからないのかと呆れられたけれど、実際、わからないものは仕方がない。
ゲーム内のどこでどんな条件を満たしてどのように入手したのかということなら、余すところなくしっかり覚えている。攻略wikiも丸暗記してるから、効率のいい入手法だって教えてあげられる。
でもこれは、これらは、私がゲーム内で集めたアイテムそのものではないのだろう。
私のいまの体が、心臓麻痺かなんかで死んでしまった私の魂だけを積み込んだ、プルプラお手製のお人形であることを考えれば、まあやっぱりプルプラお手製の付属品みたいな感じなんだろうなあ、と思う。
あの割といい加減な所のありそうな神様のことだ、深く考えずに設定そのままに流し込みで作った感じがしてならない。
なのでどこで手に入れたのかと聞かれたら、わからないながらもこう答えるほかない。
「神様からもらったって言ったら信じる?」
下手な宗教みたいな文句だ。
我ながらあんまりにも胡散臭すぎて、鼻で笑いながら言ってしまったが、トルンペートはちょっと肩をすくめるだけで、どうかしら、と呟いた。
「普通なら鼻で笑うところなんでしょうね」
「だろうね」
「でもあんたなら、ありそうかな、くらいには思うわ」
「そうかなあ?」
「いくらなんでも世間知らずが過ぎるし、なんか変なまじないとか使うし」
「フムン」
「便利道具だけじゃなくて、あんた自身が神様の落とし子だって言われても、まあ、信じられなくはないわ」
「落とし子ねえ」
「深い意味はないわよ?」
「うん? うん」
温泉魚が生息していると言っても、入れ食いになるほどの数はいないようで、釣り竿はまだピクリともしなかった。
これが釣りというもののスタンダードならば、私は多分釣りには向かないだろうな、という気分になってきた。つまり、だんだん飽きてきた。
こうしてトルンペートが隣で話し相手になってくれていなければ、さっさと《生体感知》や《薄氷渡り》などを使って強引に捕獲に移っているはずだ。
そうした方が手っ取り早いし効率がいいのは確かなのだけれど、趣は全くないし、完全に作業になってしまうので、私のスタンスではないなという気はする。
「そういう便利道具って、どれくらい持ってるのよ?」
「いっぱいあるけど、秘密」
「なんでよ」
「便利道具に、便利に頼られたら、面白くないし」
「そんなつもりはないけど」
「《自在蔵》とか、《布団》とか、割と使い倒してるよね」
「あ、やっぱり《自在蔵》も普通じゃないのね」
「まあね」
「どんなのがあるのよ。役に立たないのでもいいから」
「役に立たないものはあんまり持ってないけど……ほら、あれとか」
「なによ」
「酔いを誤魔化す時に抱いてるぬいぐるみとか」
「熊のやつ? なんか特殊なの?」
「特に何もないんだよね」
「はあ?」
「フレーバー・テキスト……説明書きが気に入って、持ってたんだよね」
「どんなの?」
「『ぼくはタディ、七つの子のお守り役。ぼくはタディ、夢の国までお供する。ぼくはタディ、忘れられても傍にいる。ぼくはタディ、君のテディベアになりたい。ぼくはタディ、君だけのテディベア』」
「なんだか、不思議な響きだわ」
「特に効果はないはずなんだけどね。抱いてるとちょっと安心する」
「おっきなくせに」
「心は小さくてね」
「ところで」
「なあに?」
「引いてるわ」
「あっ」
用語解説
・温泉魚
温泉に棲息する魚類。魔獣。
水精に働きかけることで温泉という特異な環境に適応しているのではないか、ということで魔獣と言う風に扱われているが、実際のところ生物学的に適応しているのか、魔術によって適応しているのかは判然としていない。
体長は最大で一メートルほどで、サメの類に似る。
肉は甘く、脂肪が少なく柔らかい。
腐りづらく、山間などでよく食べられる。
しかし鮮度が低下すると独特の臭気を発するため、あまりよそでは知られていない。
肉食で、おなじく温泉に棲息する魚類や両生類を主な餌とするほか、温泉に入ってきた北限猿などを襲うこともあるとされる。
・北限猿
猿の仲間のうちで最も北に棲息する一種。
果物や昆虫を主に食べる他、時に肉食もする。
赤ら顔で、北部で酔っぱらいを指してよく猿のようだとよばうのはこの北限猿が由来である。
人里近くにも出没し、食害などを出すこともあるが、多く人の真似をして、危害を加えないことが多い。
温泉に浸かることで有名。
・ドクターフィッシュ
コイ亜科の魚ガラ・ルファの通称。
人間の手足の表面の古い角質を食べるために集まってくるとされる。
三十七度ほどの水温でも生存でき、温泉にも生息する。
・温泉に広がる藻
高温の温泉などに適応した極限環境微生物。
様々な種類が存在する。
・四十度を超える温泉で確認されたオタマジャクシ
南シナ海はトカラ列島に所属する口之島で発見されたリュウキュウカジカガエルのオタマジャクシは、最高で四十六・一度にも達する温泉に棲息している。
生体のカエルは温泉では発見されていないことから、幼体の時のみの特性ではないかとされる。
・ポンペイワーム
栗毛の牡(二〇一九年現在三歳)。父にItsmyluckyday、母にBriecatを持つ。
ではなく。
深海の熱水噴出孔間近で発見された生物。
八十度程度の熱水付近に棲息するため、火山噴火の犠牲で有名なポンペイの名を与えられたとか。
本編には登場しない。
・イトエラゴカイ
同じく深海の熱水噴出孔付近で発見された生物。
高温でも壊れにくい特殊なタンパク質でできているそうだ。
本編には登場しない。
・神様の落とし子
優れた才能の持ち主や、美貌の持ち主、また幸運の持ち主などを呼ばう言い方。親のわからない孤児や迷子などを指すこともある。
また、非常に魅力的である、運命を感じる相手であるなどという言い回しでもある。
・《薄氷渡り》
ゲーム内《技能》。《暗殺者》系統がおぼえる。
設定では「一時的に体重をなくす」ことができるとされ、水上を歩行可能にするだけでなく、使用中所持重量限界を緩和できる。
また足音が消え、一部の敵Mobから発見されなくなるまたは発見されにくくなる効果がある。
『生きるということは、薄氷を踏んで歩くが如く』
・酔いを誤魔化す時に抱いてるぬいぐるみ
ゲーム内アイテム。正式名称 《ネバーランド・タディ》。
効果は特になく、イベント報酬として手に入るが、売値も高くない。
イベントの雰囲気を味わうためのもので、イベントを終えて手に入れた時は何となくしんみりするが、プレイヤーの開く露店などで束で売られたりしていてちょっともやもやする。
『ぼくはタディ、七つの子のお守り役。
ぼくはタディ、夢の国までお供する。
ぼくはタディ、忘れられても傍にいる。
ぼくはタディ、君のテディベアになりたい。
ぼくはタディ、君だけのテディベア』
前回のあらすじ
中身も盛り上がりも落ちもない釣りだけで一話使いやがった、という回。
釣れるまで半信半疑どころか二信八疑くらいだった温泉魚とやらは、鮫の仲間らしいなかなか凶悪な魚だった。
竿を引く力も強いし、こちらを引きずり回して粘る体力もなかなかのもの、そして釣り上げたあともがちがちと牙を鳴らす様は、実に凶暴ね。
釣りなんてあんまりしないからうまいやり方がわからず、びったんびったん暴れまわる温泉魚相手にあたしたちは大いに狼狽え、てんやわんやと騒いだ挙句、ウルウがひらりと針を一刺ししてとどめを刺して、なんとか黙らせたのだった。
一メートルほどはある大物を都合二匹釣りあげて、無駄に汗をかいてしまったあたしたちは、もうこんなものでいいかと早々に切り上げることにした。
「釣りは楽しめた?」
「しばらくはいいかな」
やっぱりあたしたちにこういうのは向いてないのだ。
あたしなら、短刀や投げ矢で直接水中の獲物を狙った方が早いし、ウルウも水中の魚の位置がわかるし、水上歩行なんて芸当もできるから、もっと手早い手段がある。
リリオなんかは最近、雷の術を操るようになったから、水に剣を差し込んで、ばちりと一撃やってやれば魚が勝手に浮いてくるという始末だ。
冒険屋として多芸であった方がいいのは確かだけど、でも向き不向きってのはあるもの。仕方ないわね。
あたしたちが温泉魚を引っ提げて帰ってきた頃には、リリオたちは温泉から上がって服を着ているところだった。
温泉に入っている間は暖かくていいんでしょうけど、寒さに凍えながら急いで服を着ている姿はなかなかにみっともない。
仕方がないんでしょうけど、もはや湯冷めとかそういうのじゃないわよね、これ。
せっかく温まった分を、すべて発散してしまっていそう。
二人に温泉魚を託して見送ったあたしたちは、そういう不安とは無縁だ。
あたしはにやりと笑った。
何しろ、ウルウには便利な懐炉がある。
触れている間、あたしも全身ぽかぽかする、便利な奴だ。
あまりに便利すぎて、リリオには黙っている。しょっちゅうウルウに引っ付くから、気づいてるかもしれないけど。
さすがに二人で一緒に握りながら服を脱ぐってのは難しいから、ひとりずつこの魔法の懐炉の恩恵にあずかりながら服を脱いで、温泉へと身を投じた。
そうすると、少し熱いくらいのお湯が、じんわりとあたしたちの体を温めてくれて、これが得も言われぬ心地よさなのだった。
ウルウの魔法の懐炉も暖かくて心地よいのだけれど、あれは全身が一時に暖かい膜でおおわれるような具合で、心地よくはあるけれど、情緒がない。
温泉の熱はじんわりと体に染み入ってくるような具合で、はだえから骨の芯までゆっくりと温められて、思わずほうとため息が漏れ出るようなものだった。
風呂好き温泉好きのウルウと行動すると、町の風呂屋はもちろん、野宿の時のどらむかん風呂など、いろんな風呂を味わうことになるのだけれど、天然の温泉に申し訳程度に湯舟を繕ったこの露天風呂は、なかなかに野趣あふれて面白みがあった。
見れば少し離れて、飛竜のキューちゃんとピーちゃんがざぶざぶと湯を揺らしながら温泉へと潜り込んでいるところだった。
いままでは、あたしたちが釣りをするのを邪魔しないように、控えていてくれたようだ。
温泉は、真ん中あたりは結構な深さになるようで、大きな飛竜が鼻先を突き出すようにして全身を浸かれるくらいにはなるようだった。
文字通り羽を伸ばして温泉を満喫する様は、超生物、圧倒的存在としての飛竜というよりは、同じ熱を共有する入浴客の一つでしかなかった。
生意気にも突っかかってくる温泉魚を片手間に追い払い、時にはおやつ代わりに頭から齧って湯を赤く染めているあたりはやっぱり化け物なんだなと思うけど。
そんな、ある種出鱈目に贅沢な光景を眺めながら、あたしたちも温泉を楽しむ。
どらむかん風呂よりは広いけれど、二人一緒に入るとちょっと手狭かなという具合の湯船に肩まで浸かって、あたしたちは肺の中身を絞り出すような吐息を漏らした。
ちょっと熱いくらいの湯は、肌にぴりぴりして、悪くない。
横を見れば、ほっそりしているくせになかなかな代物である二つのやわやわが湯に浮き沈みしていて、眼福であるような気もするし、どうして自分の胸元には存在しないのだろうかという侘しさも感じる。
そしてそのやわやわの持ち主は、結い上げてまとめた黒髪のほつれを気にしながら、ぱしゃぱしゃと肩にかけ湯などしている。
ほんのり火照るうなじは珠のように湯をはじいていて、これで二十六歳は嘘だろうと常々思わされる。
大した化粧品もない旅で、保湿がどうの冬場はかさつきがどうのとか言いながら、これだ。
あたしやリリオはまだ若さがどうのと言い訳できるけど、ウルウの場合はなにかズルしてるんじゃないかというくらいに肌の張りがいい。
本人は、以前はもっとカサカサ肌だったんだけどねなどと言っているけれど、法の神の裁きにでもかけてやりたいところだ。
なにしろ大抵の男より背が高いから、そういう点ではあまりモテないかもしれないけれど、でもそれを補って余りあると思う。
異国情緒あふれるというか、西方人めいた顔立ちは、独特な魅力がある。
肌は病的なくらい白いけど、そのちょっと病的なくらいが、なんだか背徳的というか、不思議に惹きつけられる。そして病的な色合いなのに、水は良く弾くし、もちろん柔らかく滑らかだ。
対照的に深く黒い長髪は、櫛を通しても手ごたえがないくらいに艶やかで、枝毛なんかひとつもありゃしない。
艶やかすぎて髪留めが落ちちゃうことはあるけど、それにしたっていろんな髪形も試せるし、お得感ありよね。
目つきは悪いというか、いつも不貞腐れたような伏し目がちというか、眠たげというか、人と目を合わせたがらないんだけど、それが絶景にみはったり、美食にそっと細められたりすると、なんだか秘められたものを見たような気分にさせられる。
とどめとばかりに泣きぼくろが色気を振りまいてきやがるのよね。
欠点である背の高さだって、何しろ体形がいいから、ああ、そう言えばっていう程度でしかない。
出るとこ出てるけど、ほっそりとしていて、でも骨が浮いてるってわけじゃないのよ。
技込みでとはいえリリオを押さえつけられるくせに、全然筋肉質な所がなくて、たおやかな感じってこういうのを言うのかしらね。
もしかしたらあたしでも押し倒せるんじゃないかって思わせるくらいなのよ。実際やったらするりとかわされるんだけど。
まあ、うん、勿論これが贔屓目っていうやつなのはよくわかってるわ。
身内だから、親しいから、よく見える。
実際、最初に見た時の印象は、とにかく根暗で、目つきが悪くて、ひょろっとうすらノッポな、なんか不気味な奴って具合だったわ。
おまけに詳しくは気取らせないくせに、じんわりと圧のある気配だから、結構怖いものがあったわ。
でも付き合っていくとね、いい女なのよね、こいつ。
酒場とかでご飯食べる時も、自然と給仕に取次しやすい場所に陣取るし、人付き合い苦手っていうか嫌いなくせに、率先してみんなの注文とかするし、ハシとかいう二本の棒で器用に取り分けるし。
そんなことしなくていいのよって思うし、言うんだけど、気持ちよく食べてる姿が好きだからって言われたら、もう、仕方ないじゃない。そりゃお酌してもらうわよ。
おかげさまで、がっつくだけのリリオの食事でさえ、なんとなく品よく調整されるわよ。
なんていうのかしらね、ウルウ曰くの、女子力っていうの?
そういうの感じさせるわよね。
あたしもするから、リリオだけ女子力がない感じなのよ。実際あんまりないんでしょうけど。
なんかこうやって並べ立てていくと、かなりの優良物件みたいに見えてくるから不思議よね。
でも初見でそう言う風に思えるかっていうと、無理よね。無理無理。断固として無理。
あたしが無理だったんだから無理に決まってるわよ。
付き合えばいい女なんだけど、付き合うまでが長いのよ。
人見知りで、人間嫌いで、それを助ける妙なまじないまであるから。
だって、姿消すのよ、こいつ。
見えないんだから、いないのと一緒じゃない。
リリオがおしゃべりしたがるから、最近は姿さらしてることも多いけど、必要ない時はとことん姿消してるのよ、こいつ。
で、姿現してもよ、壁があるのよ。壁。
仕方がない時とか、さっき言った、注文する時とか、必要があればこいつ流暢に喋るのよ。
喋るんだけど、親しみがないっていうか、完全に仕事で喋ってるのよ。
笑顔も浮かべるけど、商人たちが浮かべる営業用の笑顔でしかないし、やろうと思えば小粋な会話もするけど、本心なんか欠片もないし。
あれよ、お酒注文するときに給仕の娘なんかに微笑んだりするじゃない。そりゃあたしだってするし、リリオもするし、大概するんじゃないかしら。不愛想に、酒と飯、なんて注文するの、滅多にいないわよ。
あの笑顔が完全に作り物なのって、もう怖くない?
無意識に、とか、反射的に、っていうんじゃないの。意識して笑顔作ってるのよ、あれ。
そのこと自体怖いし、そんなことしなきゃならなかった以前のウルウの住んでたとこも怖いわよ。
リリオのくだらない冗談に塩対応してるときのやる気ない顔の方がよっぽど感情こもってるのって、どうなのかしらね、ほんと。
だからこうして温泉とか入ってて、完全に力の抜けた顔とか見せられると、あたし、すごい偉業を成し遂げたんだわって気分さえするわね。
気難しい野良猫が手から餌食べてくれた時みたいな。
「……あのさ」
「あによ」
「そんなに見られると穴が開きそうなんだけど」
「いっそ開きなさいよ」
「ええ……そんな無茶苦茶な」
あたしの視線を煩わしそうに手で遮りながら、ウルウは片頰を引くつかせた。
にやつくのを押さえてたりする顔だ。
こういうなんでもない会話が、意外とこいつのツボだったりするのだ。
「あんたさ」
「なあに?」
「リリオが奥さまにべったり甘えてるから、寂しいんじゃない?」
「トルンペートこそ、リリオのお世話できなくて寂しいんじゃないの」
「むっ」
最近あたしとの二人組が多いから、案外寂しがり屋な所のあるウルウは思うところがあるんじゃないかとつついてみたら、図星だったようで、むきになったように言い返してきた。
ちょっと強がりそうになったけど、こういうとき、こちらもむきになるとよろしくない。
あたしは大人な対応をしてやることにした。
「まあ、そうかもしれないわね」
「……意外」
「そう?」
「のような、そうでもないような」
「まあ、寂しいのはほんとよ」
奥様が姿を消してからの四年間、リリオの傍にいたのはあたしだ。
それまでだって、奥様がつきっきりだったわけじゃない。お世話して、面倒見たのは、あたしだ。
リリオと一番時間を長くともにしたのは、あたしだっていう自負さえある。
それが母親と言うだけで、急に現れて横からかっさらっていくというのは、どうにも釈然としない。
そりゃあ、四年ぶりで、しかも死んでいたと思っていた相手との再会だ、しばらくの間は仕方がないとは思う。思うけれど、納得がいくかと言えば、全然そんなことはないのだった。
「あんたも寂しいんでしょ」
「……寂しい、んだと思う」
改めて尋ねてみれば、素直にそう返してくる。
あたしたちは二人とも寂しがり屋なのだ。
「寂しいっていう気持ちは、よくわからなかったんだけど、多分これが寂しいって気持ちだと思う」
「どんな気持ちよ?」
「なんかこう、胸がさわさわして、きゅうっとして、落ち着かないんだ」
「ああ、うん、そんな感じよね」
「父さんが死んだ時みたいな」
「思ったより重たいの来たわね」
「でもお母さんっていうのは、リリオにとってすっごく大事だと思うから。私はお母さんって、いたことがないからよくわからないんだけど、それでも、邪魔しちゃいけないと思うんだ」
「あー」
あたしにも、母親ってものは、よくわからない。
母親も父親もいなかったあたしにはそもそも親ってものがよくわからないけど、でも大事なんだろうなってことはわかるし、邪魔しちゃいけないってこともわかる。
わかるけど、それであたしたちの寂しさがどうなるってわけではないのだ。
むしろ遠目に見てる分、一層寂しくなる気さえする。
「もうさあ」
「うん」
「あの親子は放っておいて、あたしたち二人でくっついちゃおうかしら」
「チーム暗殺者だね」
「最強の二人ね」
「違いない」
あたしたち寂しがり屋二人は、ちょっと手狭な露天風呂の中、肩を寄せ合ってしばらくぼんやりとそのぬくもりを楽しんだ。
そうしてとけあうぬくもりの中で、あたしはふっと思うのだった。
でも、きっとそれじゃ物足りないんだわ、と。
用語解説
・法の神
法の神ユルペシロ(Jurpesilo)のこと。
神々の裁定者。法と裁きの神。揺るがざる大天秤。
正しきとあやまちとを見定めて裁くという。
ただし、その司る法は神々の法であり、人の世の法ではない。
人の罪は人の法で裁かれるべきであり、神は人を裁くことをしないという。
ユルペシロは人の裁判を手助けしてくれるが、あくまでも人の法に則った判決を述べるだけで、その法が正しいかどうかは言及しないとされる。
かといって神々の法に則って裁いてもらうのはお勧めできない。
既知外の神々の法がどうして人々を守ってくれるなど考えられるだろうか。
・ハシ
箸。二本の棒を片手で使ってものを食べるという頓狂な発想の食器。
西大陸の華夏などで広く使われている。
・女子力
決まった中身も根拠もない、発言者の定義するところの「女子っぽさ」の度合いを示すとされる架空の力。
「じょしぢから」と読むとまた別のパゥワになる。
前回のあらすじ
よもやこの章は飯と風呂の話だけで終始するのではないか、と思わせる回。
先に温泉を頂いた私とお母様は、ウルウたちが釣ってきた温泉魚なる見事に大振りな鮫のような魚を受け取り、早速調理するべく竜車まで戻ることにしました。
とはいえ、温泉ですっかり温まったのに、服を着るときにはどんどんと冷えていき、すっかり着込んだころにはまた温泉に入りたくなっていました。
「リリオもまだまだねえ」
「むー。お母様はずっこいです」
「使える技を使ってるだけよ」
「むぐぐ」
一方でお母様は平然としています。
風精に働きかけて空気の壁を作り、氷精を遮って寒さを防いでいるのです。
何の装備もない素っ裸で、呪文の詠唱もなく、息でもするかのようにそんな術を使える方がおかしいのであって、私は冒険屋としてはいたって普通だと思うのですけれど。
「普通どまりでいいなら、それでいいんじゃない?」
「そう言われると、むぐぅ」
冒険屋の道は、長く険しいです。
私もなにしろ辺境貴族の端くれ。魔力の量は多く、精霊にも好かれやすいのですけれど、いかんせん精霊と触れ合い、操る術に通じていません。
ここしばらくの間にお母様にもおばあちゃんにもいくらか手ほどきしていただきましたけれど、どうにも不器用なのか、なかなか身に付きません。
身に着ければ便利などとちょっとした宴会芸か何かのように気楽に言ってくれますけれど、本来魔術というものは一朝一夕でできるものではありません。
そう考えると、戦闘で使えるようなものはあまりないとはいえ、細々と魔術の使えるトルンペートはかなり努力家で、そして素質があったのでしょう。
ウルウも精霊がくっきり見えると言いますし、変わったまじないをたくさん使いますし、真面目に習えば魔術も使えるようになるのではないでしょうか。
この二人がいるなら別に私は使えなくても問題ないんじゃないかという気もしてきましたけれど、なんだかそれはそれで悔しいので、努力あるのみですね。
来た道を辿るように竜車まで戻る道を、温泉魚に雪をまぶして、表面を洗いながら進みます。これは単に後で洗う手間を惜しむだけでなく、温泉から釣り上げられたばかりでほんのり暖かい温泉魚を急速に冷やしてやるための工程でもあるそうでした。
冷やしすぎると身が固くなるそうですけれど、なにしろ温泉でホッカホカの魚です。多少しっかり冷やした方がよさそうです。
「これも、温泉なんかに住んでるけど、一応鮫の仲間なのよ」
「鮫って初めて食べます」
「このくらいの距離だったら気にしないでもいいんだけど、鮫って時間がたつと独特のにおいがしてくるのよね」
「足が早いんですか?」
「腐りはしないのよ。でもその代わり、変なにおいがするのよね」
においはするけれど保存は利くので、海辺よりもむしろ山間などで珍味やご馳走として食べられることが多いのだとか。その独特の香りを興がるということもあるけれど、新鮮な魚に慣れたハヴェノ人であるお母様にはあんまり好みじゃないみたいです。
なので、どんな魚でも一緒ですけれど、水揚げしたらすぐにしめて、氷水などで冷やすのが一番鮮度をよく保てる方法なのだそうです。
直接氷で冷やさず氷水で冷やすのは、直接だと氷焼けと言って身が悪くなることが……この温泉魚はいいんでしょうか。直接雪がっしがっしなすり付けてますけど。
まあお母様は細かいこと気にしなさそうですね、うん。
「私が真っ先に氷の魔法を覚えたのは、猟師との付き合いが多かったってのもあるかもしれないわね」
幼いころから好奇心旺盛だったお母様は、よく知り合いの船に乗せてもらって、様々な魚の捕り方やしめ方、捌き方を教わったそうで、それが巡り巡って、辺境まで新鮮な魚介を届けるという、お父様との出会いにつながったわけですね。
なんだか物語のように運命的ですね。
その後の道中も、飛魚は身が黒くなりやすいし、脂は足が早いし、塩漬けは硬くなるし、水槽で運ぶにはでかすぎるし、しめ方の改良や超低温の氷室の発達がなければなかなか流通させられない雑魚だったとか、氷室で寝かせると味が深まることがわかってから値が高くなり始めたとか、海辺の町に住んでいないとなかなかわからないことを教えてもらいました。
それに、凍らせた大型魚は凶器になるとか、烏賊の墨を蕃茄と煮込んで練り物に和えたものがうまいのだとか、ほかにも様々なとりとめもないことを話したように思います。
それは情報を交換するというよりは、全く中身のない、ただ言葉を交わすことだけを楽しむ、そんなどうしようもなく下らない、そして贅沢な会話だったように思います。
竜車に戻った私たちは、ふわふわと柔らかい新雪をある程度投げてしまい、その下から顔を出した硬い雪をさらに踏みしめて押し固めて、しっかりとした土台を作ります。
そうしてここに空気がよく通るように薪を積み、火を起こします。
今日は、まあ二基あればいいでしょうかね。
雪の上で火が起こせるのだろうかとお思いかもしれませんが、起こせます。
こればっかりは慣れですけれど、慣れさえしていれば大抵の状況で焚火は熾せます。
かまどを作る石は、雪で埋まってしまって探すに探せませんので、五徳に鍋をかけて湯を沸かします。
火が安定したら、早速温泉魚を捌きにかかります。
と言っても私は鮫の類を捌いたことがありませんから、余さず美味しくいただくためにも、ここは慣れたお母様に手本を見せていただきます。
まずお母様は、水袋の水とたわしを使って、改めて温泉魚の表面を洗ってぬめりを落としました。
次に魚を捌くための分厚い包丁を取り出すと、手早くひれを落とし、頭を落とし、内臓を抜き取り、尾を落とし、三枚に卸していきます。
手馴れているので非常に速やかに作業は進んでいくのですけれど、鮫の肌というものはなかなかに丈夫なものらしく、どんどん刃が削れて切れなくなっていくのが窺えます。それでもするするっと手妻のように一尾を捌き通して、奇麗な白っぽい桃色の身をさらす三枚おろしの完成です。
お母様が包丁を研いでいる間に、私も自前の包丁で挑戦してみましたが、これがなかなか難敵です。
鮫肌が非常に丈夫なのは承知の上でしたが、内側も意外でした。骨が恐ろしくやわいのです。
鮫という生き物はあれだけ強そうななりをしておいて、なんとその骨は軟骨ばかりでできていたのです。
三枚に卸そうとして骨に刃を当てると、うっかり骨ごと身を切り落としてしまいそうになるくらいでした。
ちょっと時間をかけながらもなんとか捌き終えましたけれど、断面はがたがたになってしまって、お母様のと比べると明らかに見た目が悪く、きっと身の締りも悪くなっていることでしょう。
「まあ、誰だって最初はそんなものよ」
私のささやかな消沈を気にも留めず、お母様は沸かしたお湯をざばざばと温泉魚の皮にかけていきます。
するとなんということでしょう、あれほど丈夫で頑固だった皮がべりべりと簡単にはがれるようになるではありませんか。
温泉に住む温泉魚も、さすがに沸かし切ったお湯にまでは耐えられなかったようです。
お母様の捌いたきれいな方の身は、サシミにするということで、濡れ布巾をかけてしばらく置いておきます。
いまのうちに切っておいてしまってもいいのですけれど、そうすると乾いてかぴかぴになってしまいます。サシミもまた、出来立てが美味しいのでしょう。
サシミに使わない、私の捌いた方の身と、頭や骨と言った部位を使って、私が火の入った調理を施します。
サシミも美味しいですけれど、寒いですし、やはり温かいものが欲しいですものね。
まず玉葱をざくざく切ります。
塘蒿もあったのでこれも入れちゃいましょう。ざくざく切ります。
人参がしなびてきてたので、これもざくざく切っちゃいます。
大体の材料はざくざく切っちゃえばいいんです。
大体の大きさをそろえて、火の通りが同じくらいになるようにって考えておけばいいんです。
まあ、あんまり考えてやってないんですけど。
野菜を見比べて、生姜を二欠け。
一欠けは叩いて細かく刻みます。
もう一欠けは、うすーく薄切りにして、それをさらに千切りにして、針のように細くして、水にさらします。
しなびかけた韮葱も見つけたので、頭の青い部分はぶつ切りにして香り出しに、白い部分は、外側のしなびたところを取り払い、適当な長さに筒切りにして行きます。
ちょっと考えて、この筒を切り開き、芯を取り除き、繊維にそって千切りにして行きます。
出来上がったら先ほどの生姜と一緒に水にさらします。
この針生姜と白髪韮葱は、ウルウに教えてもらったやりかたでした。
温泉魚の身は程よい大きさに切り分け、兜は割り、中骨の部分も適当な大きさに分けます。
身の部分に軽く下味をつけ、粉を叩き、油を温めた浅鍋でさっと両面を焼いて、すぐに取り上げます。
これは表面を固めてうま味を逃がさない工夫だとかで、ここで火を通してしまう必要はありません。
私一人ならこの時点で食べてしまっても良いような気分にもなりますけれど、ここはちゃんと最後まで頑張っていきたいところ。
同じ浅鍋で微塵切りにした生姜を温めて香りを出し、野菜の類を放り込んだらざっくり炒めます。玉葱は先に炒めると甘みが良く出ますし、人参は火が通りづらいのでここである程度通しておきたいところ。
塘蒿? 塘蒿はなんかこう、うまいぐあいにやればいいんじゃないですかね。
生でも火を通しても美味しいんですからあんまり気にしなくていいんですよ、うん。
炒め終えたら深めの鍋に移して、先ほど焼き目を入れた温泉魚の身を崩さないように並べ、隙間にアラを放り込みます。
そこに水、白葡萄酒をひたひたになるまで注ぎ……ひたひたでいいんでしたっけ。まあいいでしょう。もう注いじゃいましたし。多すぎたら火にかけて飛ばせばいいんですよ。うん。
で、塩と、砂糖を少し、月桂樹の葉を適量放り込んで煮込みます。
月桂樹の葉はいいですよね。大体何に使っても間違いないですから、適当に放り込んでもまずくなることはありません。
トルンペートなんかは、いろんな香辛料を使い分けますし、ウルウもなんだかんだ鼻がいいので、それらしいものを放り込みますけど、まあ、私は、うん、これも私らしさというか?
船旅や、長期の旅のために、お湯で溶くだけで使える固形の出汁なんかもあるらしいですけれど、あれはさすがにお高いのでそうそう気軽に使えません。
いや、私たちの資金からしてみたら使えないことはないんですけど、あんまり割に合わないなあ、と。
瓶詰の濃縮出汁なんかはまだ手が届くお値段ですけれど、移動が多い冒険屋にとって、割れ物の瓶詰はちょっと使い辛いんですよね。
これらがあれば、ちょっとの手間で味わいはぐっと深くなる、らしいのですけれど、そういうのは町のお店とかで外食する時に食べればいいかなあ、と。
トルンペートの鹿節なんかは、割とお値段は張りますけど、壊れ物でもなし、お手軽でもあり、ある種、この固形出汁のお仲間と言っていい気もします。
まあ、私はよくわからないので、わかる方法で調理するとしましょう。
勘で味を見極めたら、蓋をして少し火からはなし、コトコトと煮込みます。
後は美味しくなあれと祈るだけです。
コトコト煮込まれる鍋の前で私が美味しくなれの祈りと踊りを捧げていると、やがてお風呂上がりでほかほかとしたウルウとトルンペートが帰ってきました。
ゆっくり温泉を楽しんできたんでしょうけど、なんかほかほかしすぎてません?
私が凍えながら着替えて、冷め往く体温を感じながら帰ってきたのと全然違いません?
またなにか不思議な便利道具でも使っているんでしょうか。
ぐぬぬ。
ともあれ、二人が帰ってきたのならば、ご飯です。
私が煮込みの最後の調整をしている間に、お母様はサシミに取り掛かります。
美しい桃色をさらした温泉魚の柵は、笹穂のようにするりと細長い包丁でもって、するりするりと鮮やかな手つきでサシミにされていきます。
サシミってただ切ればいいものだと最初は思っていましたけれど、違うんですよね。使う包丁、切り方、また温度や、しめ方、そういったもの全てが、ありありと出てきてしまう繊細な料理なんですね、サシミ。
「お魚は寝かせた方が美味しいんだけどねえ。南部人はあんまり寝かせないで、ちょっと歯応えの強いのが好きよねえ」
お肉も熟成させた方が美味しいですものね。
普段は獲ったらその場で食べちゃいますけど。
お母様はするすると切っていった――サシミは「引く」と言うそうですね――温泉魚を皿に奇麗に盛り付け、そして新たな切り身を、今度は沸かしたお湯にくぐらせます。
茹でるのだろうかと思いきや、さっと取り上げて、冷水につけて冷ましてしまいます。
これは湯引きというそうで、表面だけ加熱され、生臭さや余分な脂を取り去るほか、身が引き締まる効果もあるそうです。
冷水から引き揚げられた柵は、霜が降りたように白く染まっており、これをサシミのように引いていくと、薄桃色の中心部が鮮やかに表れて、見た目にも美しい仕上がりです。
またもう一つ柵を取って、こちらは串を刺して、なんと火で炙り始めました。
串焼きで食べるにしては大きい、と思っていると、これも表面を炙るにとどめて、冷ましてしまいます。
こちらはタタキと言うそうで、西方の炙り焼きのやり方だそうです。
藁で焼くと香りがついてよいとのことでしたが、さすがにそこまでの準備はありませんでした。
こちらも生臭さなどが取れる他、水分が飛ぶので味が濃く強まるそうです。
また、食欲をさそう香ばしさがたまりません。
刺し身は醤油で、湯引きは胡桃味噌と酢などを混ぜた酢味噌で、タタキは大蒜、生姜、さらし玉葱などの薬味と一緒に、柑橘の汁と醤油を合わせたものでいただくと美味しいとのことでした。
私の方はもう少しかかりそうでしたので、先に頂くことにしましたけれど、これがまた、同じような姿をしているのに、その味わいは三者三様に素晴らしい物でした。
まずサシミです。
少し独特の香りが鼻につくかな、とも一瞬思うのですけれど、脂が豊富でとろりと舌にとろけて、甘みが強いんですね。
ちょっと不安になるくらいくにゅりくにゅりと柔らかくて、脂を食べている、という感じなのですけれど、これがまた美味しい脂なんですね。
湯引きはがらりと印象が変わりました。
表面が締まっていて、先ほどの不安になるような柔らかさに、確かな歯ごたえをもたらしてくれるんですね。そして酢味噌がまた、いい。甘みのある胡桃味噌を酢がさっぱりとした具合に仕上げてくれていて、濃厚、だけどあっさりという味の妙なのですね。
そして、湯引きの効果と酢の効果との合わせ技か、先ほどは少し気になった独特の匂いが、全然気になりません。
タタキは力強い印象でした。
まず薬味を使わずに合わせ醤油だけで頂いてみたのですけれど、これがなかなか、味わい深い。湯引きと同じように身が締まっているだけでなく、炙りによる香ばしさが鼻に心地よく、またいくらか脂っこいなと感じ始めた舌に、身自体のうま味が濃縮されて感じられるんですね。
ここに大蒜や生姜、玉葱と言った力強い薬味をけしかけますと、温泉魚の方も、追いやられるなどと言うことは全くなく、力を合わせて舌に挑んでくるんです。
その上で決して重たく感じさせないのが、合わせ醤油の柑橘の爽やかさですね。
サシミを楽しんでいる間に、煮込みの方もいい具合に誤魔化せもとい出来上がりましたので、皿に取り上げて、最後の仕上げです。
水にさらしておいた針生姜と白髪韮葱をよく絞って、これでもかっというくらいたっぷりと煮込みの上に散らします。散らすというか、もう、乗せます。たっぷり。
そして枸櫞を搾って果汁をかけまわし、さらにその上から、浅鍋で熱した橄欖油をかけまわします。
バチバチと跳ねながら、橄欖油の香りが漂い、爆ぜた枸櫞の汁が爽やかな香りをあげ、また韮葱と生姜とが高熱にさらされて、しおれながらその香りを解き放ちます。
香りの三重奏と、跳ね上がる油の音に、視線も集まります。
「華夏街でやってたわよね、こういうの」
「あれ美味しかったんで、やってみようかなと」
「あれは蒸し物だったけどね」
仕上がった白葡萄酒煮込みを、熱々の内に頂くことにしましょう。
火を通した温泉魚の肉は、生の時の柔らかな食感とは異なり、しっとりとした鶏肉のような歯応えで、硬すぎるということはなく、口の中でほろりとほどけていくようでした。
味わいは淡白ですが癖はなく、白葡萄酒の香りが邪魔されずに漂います。
また、針生姜と白髪韮葱と一緒に食べると、じゃくじゃくとした食感と辛みが、この控えめな味わいにすっきりとした芯を一本通してくれるようでした。
煮込み料理には普通はあり得ない、かけまわした油の香ばしさもまた、味わいに複雑さを与えてくれます。
また、出汁とり用として放り込んだアラも、侮れません。骨周りなどぷにぷににとした食感がたまらず、軟骨ももう少し煮込めば美味しくいただけそうなものでした。
「かなり凶暴な魚だったけど、こうしてみると美味しいねえ」
「存外、危険な魔獣の方が美味しいのかしら」
「熊木菟も調理次第で美味しくいただけましたしねえ」
温泉魚は美味しいだけでなく、その鮫皮はおろし金に使ったり、剣の柄巻きに用いたりと、素材としてもなかなかに優秀なようでした。
「温泉も楽しめて、美味しいご飯も食べれるなんて、いい場所だね」
「住みついたらあっという間に温泉魚絶滅させそうよね」
「そう言えばキューちゃんたちはどこへ?」
ご飯時になっても帰ってこない飛竜二頭に小首を傾げると、ウルウとトルンペートは顔を見合わせ、そしてぼそりと呟いたのでした。
「温泉魚、絶滅したかも」
おやつと温泉をたっぷりいただいた飛竜二頭が帰ってきたのは、それから少しした後でした。
用語解説
・玉葱
ネギ属の多年草。球根を食用とする。タマネギ。
・塘蒿
セリ科の淡色野菜。独特の香気がある。セロリ、オランダミツバ。
・人参
セリ科ニンジン属の二年草。もっぱら根を食用とする。ニンジン。
・月桂樹
クスノキ科の常緑高木。葉に芳香があり、古代から香辛料、薬用などとして用いられた。
食欲の増進や、消化を助けるとされる。
・固形の出汁
固形出汁《ブリョーノ・クーコ》(buljono kuko)と呼ばれるものは様々な種類が存在する。
例えば、材料となる牛、羊、豚、鶏などを蜂蜜のような粘度になるまで煮詰め、オーブンで乾燥させたもの。
例えば、乾燥・粉砕した原料を粉類、調味料、香辛料などとともに押し固めたものなどである。
どちらもある程度大掛かりな工業手法が必要であり、また需要がそこまで高くないため、現在はまだ高価であるか、希少である。
多量の油脂で食材などとともに出汁を固めたものは安価であり、手作りも難しくなく、またカロリーが高く寒冷地や難所では人気がある。
・美味しくなれの祈りと踊り
そんな宗教的儀式は存在しない。
・枸櫞
ミカン科ミカン属の常緑低木樹。シトロン。檸檬の類縁種。
でこぼことした楕円形で、果皮は柔らかいが分厚く、果汁も果肉も少ない。
酸っぱい種類とそうでない種類がある。
・橄欖
モクセイ科の常緑高木。オリーブ。
果実は油分を多く含み、古くから油が採られてきた。
また採油だけでなく、身は食用にもなり、塩漬けが良く出回っている。
橄欖の木材は硬く丈夫で、やや高価ながら道具類によく使われる。
前回のあらすじ
マジかよ。マジで飯だけで終わっちまった。しかも八千字近くもひたすら飯の話だよ。
どうなってるんだ。
鮫っていうのは初めて食べたけれど、なかなか悪い物じゃなかったね。
食べたことがない身としては、ちょっとゲテモノ枠というか、食材としてはなかなか見れない生き物だったけれど、調理して食べてしまえば、普通に美味しいものだった。
刺し身はちょっと微妙かなー、美味しいけどちょっと気になるかなーという感じだったけれど、煮込みは普通に白身魚として美味しい部類。
フカヒレとかキャビアとか、変な例としては肝油ドロップとか、鮫由来の食品は割と見かけたことあるけど、鮫の肉って出回らないよなあ。
普通にスーパーとか、回転寿司屋とかで見かけるものだったら、普通に食材として受け入れる感じだよね。
いや、出回ってるとこには出回ってるんだろうけど、私の住んでたとこ、別に沿岸地帯でもなし、そういうの見たことなかったな。
そもそもスーパーでお買い物、なんて随分してないけど。
鮫もとい温泉魚を美味しくいただいて、心配していた温泉魚絶滅も、軽くおやつ程度にいただいてたくらいだったらしいので杞憂に済んだし、私たちは焚火にあたりながらのんびりと茶などを頂いていた。
そう、茶だ。甘茶じゃない。南部産のお茶なのだ。
帝国各地で飲まれている甘茶は、ベリー系やハーブ系など、甘いお茶はなんでも甘茶と呼ぶので、地方によって全然違うというのは前にも言ったと思う。
南部にはいわゆる甘茶というのはない。
他の地域の甘茶がそれ自体甘いのに比べると、お茶に蜂蜜とか砂糖とかを自分で加えて甘さを調節するのが南部流だ。
西方から茶葉も輸入しているし、茶の木自体の栽培もしてるらしいから、実際、私の知るお茶と同じか、品種がちょっと違うくらいのものなのかもしれないというか、うん、普通に紅茶だな、これ。
私なんかは懐かしいような気もして少しホッとするけど、帝国では茶の木のお茶はそこまで人気じゃないらしい。栽培が難しいし、発酵も難しいし、渋みがあんまり好きじゃなかったり。
南部で栽培してるのは、お茶好きの貴族が頑張って挑戦し続けた成果みたいなもので、完全に趣味の産物らしい。
庶民なんかはむしろ、南大陸とかいうところから輸入したり、自前でもちょこちょこ栽培したりしているという、豆茶の方が好みなんだとか。
豆茶も大概苦いけど、伝わってきた時に砂糖と乳をたっぷり入れて飲む甘い飲み物として紹介されたみたいで、ブラックで飲むのは少数派だ。
こう、丼みたいなでかい器にたっぷりとカフェオレ注いで飲むんだよ、南部人のティータイム。
下手な甘茶よりよほど甘いよね、あれ。
メザーガなんかはいつもブラックで飲んでたっけ。胃が荒れそうな顔してるのに。
彼の場合はあんまり甘いものが好きじゃないのと、覚醒作用が目的みたいなところはあると思うけど。
マテンステロさんは甘ったるいカフェオレ大好きみたいだけど、今回の旅には豆茶は持ってきていない。
乳の類はあんまり日持ちしないから旅には持ってこれず、しかし乳がないのに豆茶なんか飲めるかという、そういう理由らしい。
このお茶は、まあ少しくらい渋みはあるけど、砂糖でどうにかなる程度だから、許容範囲らしい。
私にはよくわからない感覚だ。
お茶を済ませて、歯を磨いて、肌に保湿用の油を塗って、あとは寝るだけなんだけど、あくび交じりにもそもそ竜車に向かった私たちに、マテンステロさんが宣言した。
「今夜は組み分け変えましょ!」
眠そうで実際眠い我々三人と違って、マテンステロさんは実に元気だ。
この人が元気じゃないところ見たことないけど。
もっともらしく語るところによれば、竜車での旅は長く退屈で、閉塞感に満ち、倦み飽きてしまう。そんな状態は心身によろしくないことは明白である。だから、刺激が必要なのだと。
私としては変わったご飯食べられるし、温泉にも入れたし、十分刺激たっぷりな一日だったのだけれど、旅慣れたマテンステロさんにはそうではないのかもしれない。
面倒くさいから明日でいいんじゃないですかね、と消極的なムード漂う我々を気にした風もなく、マテンステロさんは楽しげに私たちを見回して、そして密かに身を潜めようとしたトルンペートの首根っこを問答無用で掴んだ。
あれ怖いんだよなあ。
目の前にいるのに挙動が読めないんだもん。
いつの間にか掴まれてるんだよ。
マテンステロさんに言わせれば、単なる手先の技らしいけど。
借りてきた猫よろしく大人しくなったトルンペートを引っ提げて、マテンステロさんは意気揚々と竜車に乗り込んでいった。
去り際に垣間見えたトルンペートの目は必死で助けを求めていたように見えなくもないけど、お腹いっぱいでお茶もいただいてお目目がしぱしぱするくらい眠いから、多分見間違いだろう。私は何も見てない。知らない。わからない。
リリオも悟りを開いたような目で見送っていることだし、我々は何も見なかった。うん。
私たちはどちらともなく頷きあって、もそもそと竜車に乗り込み、《鳰の沈み布団》に潜り込んだ。
いつもは三人で包まっている《布団》は、やはり二人だと、少し広く感じる。
もともと一人用の《布団》なんだから、これでも定員オーバーのはずなんだけど。
一日空いたせいか、ちょっと遠慮しがちに潜り込むリリオを、今日は私が抱きすくめて枕代わりにする。普段はリリオの方から抱き着いてきて、放っておいてもくっついているから、私の方から抱きしめると、どこら辺に手を当てたものか、どう抱えたものか、ちょっと要領がわからなくて、少しまごつく。
リリオの方も、私からそうしてくるとは思わなかったようで、きょとんとしている。
トルンペートと同じ感じでいいとは思うけど、トルンペートとは違って、子供みたいに体温が高いから、なんだか腕の中がほっこり暖かくて、不思議な感じだ。
別に何日も何週間も離れていたってわけじゃないのに、なんだかそのぬくもりが不思議と懐かしく感じられた。
なんだか居心地が悪いというか、座りが悪いというか、もぞもぞと抱きなおしているうちに、リリオも落ち着いてきたらしくて、いつものようにむぎゅうと抱き着いてきて、おかしそうに笑う。
「今日はなんだか、随分と積極的ですね」
「うん。寂しかったから」
「ふなっ!?」
明らかにからかうような口調だったけれど、私は昼間の内にトルンペートとの会話の中で、ある程度自分の中の寂しさというものを認識し終えている。
自分でもちょっと子供っぽいかなとは思うけれど、ずっと一緒に旅をしてきたリリオが取られてしまったような気持ちだったのかもしれない。
いまは、なんだかちょっと安心しているような感じだよ。
うつらうつらとしながらも、ある程度まとめ終えた素直な所を伝えてみると、リリオは意外そうに、でもなんだかくすぐったそうに、小さく笑った。
「いつもはつれないのに、今日は随分素直です」
「うん、まあ、トルンペートとお話してね、ちょっと気づいたっていうか」
「気づいたって寂しいってことですか?」
「それもある」
確かに私は寂しさを感じている。
そのことに気付かされた。
そして、寂しい理由にも。
「私さ」
「はい」
「私、結構君たちのこと、リリオとトルンペートのこと、気に入ってるみたいだ」
「まあ、そうなんでしょうねえ」
「うん、君たちのこと、大事で、大切で、一緒に居たい」
「……はい」
「はなれたくない」
「……はい」
「ねむい」
「もうちょっとがんばってっ」
「おやすむ……」
「あああ……勿体ないような惜しいような……」
腕の中に抱きすくめた体温。
顔を埋めた髪から漂う、お手製リンスの少し甘酸っぱい香りと、ささやかな皮脂の匂い。
そっと回された小さな腕。
どれも、以前ならばきっとおぞましくさえ感じたいきものの感触が、なぜだか今の私にはとても安らいで感じられるのだった。
用語解説
・カフェオレ
豆茶は南大陸で発見されたが、当初は原住民の間で食用とされるほかは、その効用を偶然知ったものが眠気覚ましなどに用いる程度だった。
いつごろからか豆茶の豆を潰し、湯で溶いて飲用とする飲み方が始まったが、この頃はある種の秘薬のような扱いだった。
南大陸の開拓が進んでいく中で豆茶は薬用として目をつけられ始めたが、まだ一部の宗教関係者などが用いる程度だった。
いつごろからか、恐らくは偶然から、豆を炒ると香ばしく香りが立つことが発見され、焙煎されるようになると、豆茶は嗜好品として広まるようになった。
人々の間に広まっていくうちに、より飲みやすくするために砂糖や乳を入れる飲み方が一般的になっていったとされる。
南大陸で一般化されたこの風習は商人たちによって帝国に持ち込まれ、気候の近い南部で何とか栽培に成功し、南部での豆茶の喫茶文化が洗練されていったという。
渋みや苦みを伝統的に苦手とする帝国全体としては、すでに甘茶が喫茶文化の柱となっていたこともあり、趣味人のあいだでのみ流通することとなり、「知ってはいるが飲んだことはない」という人間が増えた。
このため、南部外の人間が砂糖や乳を入れる「正しい」飲み方を知っていると、情報通であるとみなされることがある。
なお、諸説あるが、最初に豆茶に砂糖や乳を入れる飲み方を提案して、大々的に広めた人物は、神の啓示を受けたと証言したとされる。「神はこーひーぶれいくを望まれている!」という発言が当時の新聞に残っているが、完全に発狂していて詳しくはわからなかったとのことである。
前回のあらすじ
恐ろしく短く感じる……飯の話をしていないというだけで……宇宙の 法則が 乱れる!
あたしはリリオ程じゃないにしてもチビだけど、それでもそんじょそこらの連中には負けっこない。
街道を荒らしまわる盗賊どもだって、あたしにかかればひとひねりだ。
生中な連中じゃ手も足も出ない魔獣だって、最後にゃ鍋の具材にでもしてやれる。
酒場で飲んだくれた冒険屋どもなんて相手にもならない。
実際、この旅が始まってから、あたしが手こずった相手なんて数えるほどだ。
三等とはいえ、飛竜紋を許された武装女中というものは、最低限その程度の武威を誇れなくては名乗れない。
そりゃあ、完璧な女中だなんてうぬぼれる気はない。
それでも自負がある。矜持がある。
三等武装女中トルンペートには、意地がある。
なんてまあ、格好つけたいところだけれど、泣く子も黙る武装女中にも勝てないものがある。
「今夜は組み分け変えましょ!」
快活で裏表なく、魅力的と言って差し支えないような笑顔を前に、あたしは速やかに身を潜めてウルウの陰に隠れようとした。
恥も外聞もない。
大事な仲間を人身御供にしてでも逃げ出したかった。
暗殺技能を仕込まれ、隠形を叩きこまれて以来、これ以上ないというくらいの会心の遁走だったと思うのだけれど、そんなあたしの全力全開などなかったかのようにこともなく、奥様の指があたしの首根っこをひっつかんでいた。
力任せに鷲掴みにしているわけでもなく、鋭利な殺意で脅しつけてくるわけでもなく、まるでそこらの子猫を掴み上げるみたいに、無造作で、無遠慮で、無神経で、そして無慈悲だった。
そこには悪意すらもなかった。
ただ掴んで、運ぶ。それだけのことだった。
あたしが奥さまと寝るということはすでに決定事項になっていて、覆すことのできないさだめとなっていて、そしてあたしは荷物のように運ばれるだけだった。
竜車の奥に放り込まれ、分厚い毛布がぽいぽいと放り出されるので、あたしは仕方がなくそれを敷き詰め、整え、寝床とし、ではあとはごゆっくりと抜け出そうとして、やはり許されずとらわれた。
乱暴ではなかったけど、容赦もなかった。
あたしは何か言ったり、何かしたりすることも許されず、あれよあれよという間に毛布お化けこと奥様に絡めとられ、もこもこの毛布に一緒に包まることになってしまった。
奥様は、大人しくしていれば、いっそおっとりしていると言っていいくらいに穏やかに見える方だし、微笑み方もやんわりしていて、仕草の一つ一つも柔らかく、そう、いうなれば優しそうな人だ。
辺境であまり深く関わることのなかった頃、特に寒さのせいで動きたがらない冬場なんかは、それこそ絵にかいたような貴婦人といった具合で、どうしたらこの人からリリオみたいなおてんばが生まれるんだろうと不思議でならなかった。
しかし、実際に私人として付き合うようになり、その行動を間近で見るようになった今、その印象は全く誤りであったことがよくよくわかった。
穏やかなのも当然で、やんわりしているのも当然で、柔らかいのも当然で、優しそうなのも当然だ。
何しろ、この人は、強いのだ。
お腹の満ちた虎が兎なんかに牙をむいたりしないように、奥様がわざわざ荒ぶる必要なんて、大抵の場合存在しないのだ。
どうとでもできるからどうもしないし、何とでもなるから何にもしない。
ある意味においては、この方はどこまでも傍若無人なのだった。
自由で、気儘で、そしてどこまでも勝手な人なのだった。
冒険屋という生き物の、一つの理想の境地ではあると思うし、遠目に見る分には素直に感心もできそうだ。
でもいざあたしがその振る舞いに巻き込まれるとなると、これは嵐の中に身一つで放り込まれたような気分だった。
個人としての性質がそうであるだけでなく、困ったことに、奥様は、奥様という立場があった。
つまり、あたしがお世話するリリオの母親で、あたしが仕える御屋形様の伴侶であるという、そういう立場が。
あたしは奥様に仕えているわけじゃないけど、でも、それでもあたしから見れば奥様は仕えるべき立場の相手なのだ。
天下の内に恐るるべきものを持たない武装女中も、仕える主には頭が上がらないのだ。
あんまり親しい付き合いがあるわけでもなく、力量にも圧倒的に差があって、そして身分的にも頭が上がらない相手、となれば、これはもうあたしががちがちに固まって、まるで安らげなかったのも仕方がない話だとは思う。
まあそんな小動物の気持ちなんて虎どころか竜みたいなものであるところの奥様には理解できないようで、暢気な顔で暢気なことをおっしゃるものだ。
「そんなに緊張することないじゃない。いまはただの冒険屋同士よ」
そりゃあいくらなんでも、無理だ。無理です。勘弁してください。
今すぐにでも逃げ出したい。
逃げ出して、あっちのほんわか柔らかいお布団で寝てる二人のところに潜り込みたい。
でも、いくら恐ろしくて、恐れ多くて、あと極めて面倒くさいとはいえ、さすがにそれはまずいという理性は残っている。
子供のころから徹底的に躾けられた、武装女中としての心構えがこの極めて居心地の悪い心情を作り出しており、そしてその武装女中としての心構えが同時に、「多少無礼であれ精神安定のために逃げ出す」という選択肢を奪っている。
ままならないものね。
痛し痒し。痛し痒しだわ。
奥様にはあたしの気持なんかはこれっぽっちもわからないようではあるけれど、それでもあたしが緊張でガッチガチになっているというのは、まあ目で見ただけでもわかるわよね、ゆるゆると視線を巡らせて何事か考えているようだった。
あたしの緊張をほぐすための小粋な小噺でも思い巡らせているのならば、せめて普通に笑えるものにしてほしい。リリオなんかしょっちゅう滑るし、ウルウの噺なんかは笑いどころがつかめないものが多い。
奥様はしばらく、んー、と可愛らしく唸って、それから、そうねと頷かれた。
「恋バナしましょ」
「はあ?」
無礼極まりない「はあ?」であったけれど、緊張と居心地の悪さが限界に達したあたりでの理解不能な発言に、「はあ?」だけで済んだのだと言う風に考えて欲しい。
もちろんこの「はあ?」は単純な疑問が爆発するように解き放たれてしまったが故の反射的な「はあ?」、つまり「お前何言ってんの?」を意味する「はあ?」だけでなく、よりによって緊張をほぐすための話題としてそんな危険球を投げつけてくるのかという「はあ?」や、あなた今年で三十七歳でしたっけその年でその話題を選んできますかという「はあ?」であり、また、もしかしてそれ自体が私を笑わそうとする試みですかそれならば失敗していますよという「はあ?」であり、それらが入り混じった複雑な心境の中をまっすぐに貫いてくる「正気か?」を意味する「はあ?」でもあった。
つまり全く、完全に、私の全身全霊からの「はあ?」であった。
失礼と失礼を重ねて失礼で打ち合わせて失礼で焼き上げたと言わんばかりの無礼の極みたる「はあ?」にも、奥様はまるで気にした風もなく、楽しげに微笑まれたままだった。
「恋バナよ、恋バナ。若者風の言い方なんでしょ、恋の話の」
「はあ、いや、それは、わかりますけれど」
「やっぱり女子が集まったら、そういうのするものだと思うのよね」
「そういうものなんでしょうか」
「私もやったことないのよ」
「私もです」
私の場合、まあ、恋バナというか、女中の間で下世話な話とか、誰それができてるとか、そういう話はしょっちゅうしたことはあるけれど、多分恋バナというくくりではないと思う。
奥様は奥様で、何しろ若いころから冒険屋で旅してまわり、そして冒険屋というものは比較的男性が多いから、あまり女性との絡みがなかったのかもしれない。
女性冒険屋と話すことも時にはあったのかもしれないけど、臨時パーティなどはともかくとして、誰かと組んで旅したということもあまりないそうだから、恋バナする関係まで発展したこともないだろう。
では辺境で御屋形様と結ばれた後はどうかというと、これが難しい。貴族の奥様ともなれば、やはりお茶会やらなんやらを開いて他の奥様方とご交流されるのが貴族界の一般的な習わしだとは思うのだけれど、なにしろ辺境というのは、土地の広さの割に貴族が少ないのだ。ぶっちゃけ三家しかない。
郷士なんかを含めればもう少し増えるけど、それでも少ない。
その上、一年の半分は雪が積もっていて、行き来が難しい。
なので奥様会も難しいのだ。
辺境貴族は、帝国貴族より実利を取り、使用人との距離も近いけれど、それでもやはり使用人は使用人で、奥様は奥様だ。ある程度はざっくばらんにおしゃべりしたりはできるかもしれないけれど、やはりどこかに遠慮ができてしまう。
もとが南部の奔放な土地柄で育った奔放な冒険屋であるところの奥様としては、長い辺境での暮らしに大分鬱憤がたまっていたというのは、こういうところが理由であるのかもしれない。
かといって故郷であるハヴェノに帰れば帰ったで、ブランクハーラの名は伝説の冒険屋という看板でもある。それだけじゃなく、奥様自身もあちこちで悪名もとい勇名を残す大冒険屋だ。
なかなか親しい女友達もできなかったのかもしれない。
そう考えると、こうした機会に、いままでできなかった話をしてみたいというのは、いじらしいという気もしないでもない。
…………何にも考えてなさそうな笑顔を見る限り、思い付きで言ってそうな感じもするけど。
まあ、それでもある程度枠組みが決まった方が、おしゃべりに付き合う方も気が楽だ。
とはいえ恋バナか。
何しろあたしたち《三輪百合》も、ヴォーストにいる間は依頼漬け、旅している間も特に出会いなどなく、恋とは縁遠いところにあるんじゃないかと、
「うちのリリオはウルウちゃんにぞっこんみたいだけど、トルンペートちゃんはどうなのかしらって思って」
思考を適当な方向に流そうという努力は見事に遮られた。ぶった切られた。粉砕された。
あたしがどう答えたものかと、半分開きかけた口をもごもごとさせていると、奥様は実に楽しげに声を潜めて、いかにも内緒話を楽しもうといった風情だ。
気分は猫にいたぶられる小鼠だけど。
「ああ、ええ、まあ、そうですね。そうでしょうね。リリオはまあ、随分ウルウに懐いていますから」
「それで?」
「それで、とは?」
「トルンペートちゃんはどう思ってるのかしらって」
三人パーティで、二人の間に不明な矢印が発生したとしたら、残りの一人としてはどんな気持ちか。
これは単純な数式じゃなかった。
あたしにとってリリオは世話を見るべきお嬢様で、ウルウは数少ない友達だ。
これが難しいところ。
旅の主体は、リリオだ。リリオが冒険屋やりたいから、っていうのがパーティの起こり。
ウルウの目的は、そんなリリオの旅を面白おかしく観劇すること。
で、あたしはそんな二人のお世話。
リリオが右いきゃ、ウルウも右についてくでしょうね。
ウルウが左に行きたいって思ったら、リリオは左を選ぶことでしょうよ。
でもあたしがまっすぐ行こうったって、それで左右される二人じゃないだろう。
リリオはウルウを見ていて、ウルウはリリオを見ている。
あたしは、そんな二人を見ている。
向かい合う矢印に、あたしっていう余計な点が一つくっついて、《三輪百合》という三角形はできてるのだ。
いまのところは、二人はあたしを気にかけてくれている。
あたしの存在を許容してくれている。
でもリリオが本当にウルウとくっついてしまったら、あたしの居場所はそこにあるんだろうか。
なんて、考えたところで、あたしの答えは決まっている。
「別に、どうも」
「へえ?」
「主人の恋路に口を挟む気はありません。むしろ、あのリリオが誰かとくっつくんなら、将来の心配しなくていいですもの」
「ふうん」
奥様は、リリオによく似た翡翠の瞳で、リリオと全然似ていないまなざしをあたしに向ける。
「本当に?」
短い問いかけに、自分で勝手に圧力を感じて、思わず詰まる。
「ドラコバーネの家は、ティグロが継ぐでしょうね。辺境貴族らしく丈夫だから、あの子にもしものことなんてまずないでしょうね。だから、リリオが家を継ぐことはきっとないわ」
「そう、でしょうね」
だから、リリオは冒険屋になりたがっている。
というよりも、リリオが冒険屋になりたがっているから、妹思いのティグロ様は、何が何でも家督を継がれるだろう。
「爵位を継ぐこともないリリオは、厳密には貴族じゃない。貴族なのは爵位を持つ本人だけだものね。だからリリオは、貴族を親に持つ平民でしかない。政略結婚なんてする気もない辺境貴族だから、リリオがどこかに嫁ぐ必要もないわ」
「そう、なりますね」
そうだ。
リリオは面倒な貴族社会のことなんて考えなくてもいい立場だ。
御屋形様は最初からそういう方面のことは期待していないし、ティグロ様はリリオの自由を阻むものがあればみんな抱え込んでしまわれることだろう。
リリオは自由だ。
どこへでも行けて、なんにでもなれる。
旅を住処として、冒険屋だってやっていける。
そして。
「自由に恋もできるわ。身分の差なんて気にしない恋が」
だからウルウを慕うことができる、なんて話じゃない。
「だから、女中と恋仲になったって、おかしくなんてないわ」
それは本当に、どこまでも残酷なささやきだった。
悪意があれば恨めた。
邪気があれば責められた。
だが、そこにはただ善意があるのだった。
奥様は、いたぶるでもなく、なぶるでもなく、ただひたすらに善意と好奇心から話を振ってきているのだった。
あたしは耳をふさいだ。
あたしは目を閉ざした。
あたしはかぶりを振って、奥様の言葉を、視線を、拒む。
やめてください。
やめて。
「それとも、ウルウちゃんかしら?」
「やめて!」
これは。
この気持ちは。
あたしの気持ちは恋なんかじゃない。
リリオは幼馴染で、姉妹で、主従で、そして友達。
ウルウは旅仲間で、姉妹で、相棒で、そして友達。
それでいい。
それがいい。
あたしはいまの関係が心地よい。
本当に?
そう問いかけたのは、奥様の声だっただろうか、それともあたし自身の声だっただろうか。
いつの間にかあたしは意識を手放していたようで、気づけば毛布に一人包まれて、鉄暖炉の火がぼんやりと竜車の中を照らすのを見つめていた。
寝不足のままに起き出せば、奥様はまるで何事もなかったかのように飛竜の世話をし、リリオたちも相変わらず眠たげな様子でもそもそとまどろみから抜け出そうともがいていた。
冷たい水で顔を洗っても、気分はどこか晴れず、昨日の残りで朝食を済ませながら今日の予定を話している間も、なんだかぼんやりとした心地だった。
それでも体は習慣通りに後片付けを済ませて、誰に促されるわけでもなく竜車に乗り込んでいた。
ぐらりぐらりと揺れながら空の高みへと舞い上がっていく竜車に、ウルウの声なき悲鳴が漏れ出る。
空模様はあまりよろしくなく、竜車は落ち着きなく揺れながら曇り空を飛んでいく。
まるであたしの胸の内みたいだ。
なんて柄にもなく感傷的になってしまったのは一瞬で、あたしの胸の内以上に滅茶苦茶にかき乱されたウルウの面倒を見ているうちに、なんだかどうでもよくなってきてしまった。
何がどうあれ、あたしは誰かをお世話しているときが一番落ち着くものらしい。
揺れに揺れる飛竜空路。
もう間もなく辺境へとたどり着く。
もう間もなくこの旅も終わりに近づく。
いつまであたしたちは旅を続けられるだろうか。
あたしのぼんやりとした不安を置いてけぼりに、竜車は往く。
北の果て、辺境へと。
用語解説
・「はあ?」
頻出語の一つ。
たいていの場合、反射的な問い返しの他に、複数の意が込められている。
・恋バナ
恋の話の略。
自分の恋の話をしている時よりも、他人の恋の話をしている時の方がたいていの場合盛り上がる。
前回のあらすじ
揺れる空の旅。
揺れるこの気持ち。
旅の果てにあるものを、私たちはまだ知らない。
雪の降り積もる音というものを、聞いたことがあるでしょうか。
あんなに軽くてふわふわとした雪でさえ、絶えず積み重なるときには音を立てるものなのでした。
息をひそめて、そっと耳を傾けると、きしきし、きしきしと、小さく軋むような音を立てて、雪は静かに積もっていくのです。
それはあんまりにも静かで、そしてあんまりにも美しい音で、そのほかにはどんな音だって聞こえないほどなのでした。
雪の降らない地域の人たちに対して北国を説明するにあたって、この文言は最高に詩的で素敵で情緒あふれるものなのでもはや常套句となりかけているのですけれど、ガチの雪国に来てしまった旅人には詐欺じゃねえかと罵倒されるまでが流れです。
雪国で雪が降り積もってるのって、最初は見てて綺麗で聞いていて美しいものですけれど、だんだんそれどころじゃなくなりますからね。
私ももう聞き飽きたどころかあんまり意識もしなくなったくらいに有り触れたものなのですが、しかし、それは雪というものの一面にしかすぎません。
北部や辺境には雪を表す言葉が百も二百もあると言われているくらいです。
まあ、言われているだけで実際にはそんなにないんですけど。
初雪とか根雪とか堅雪とか、なんとか雪みたいな言い方はそりゃいくらでもできるんでしょうけれど、はっきり別の言葉として雪を表す言葉はそんなにありません。
あってもまあ、十個くらいじゃないですかね。霰とか、雹とか、霙とか、雲雀殺とか。
田舎に行けば行くほど独特の言い回しなんかが残っていたり変化していたりするので、はっきりとは言えないんですけどね。
なんていう話を長旅のささやかな時間つぶしにと思って語って聞かせてみたのですけれど、ウルウはそれどころではないようでした。
何しろ、竜車は揺れるもので。
降りしきる雪の中を飛んでいく竜車は傍目には優雅かもしれませんが、実態としては無数の氷の粒に馬よりも早く体当たりし続けるというかなり厳しい現実があるんですね。
何しろ下手な風よりも早く飛んでいるので、常に暴風にさらされてる状態です。そこに雪が付きまとうのですから吹雪です。どれだけ静かに降ろうと、飛竜の速度で突っ込んでいったら吹雪と変わりないのです。
飛竜はその程度の雪なんてまるで問題になりませんし、頑丈な竜車もこれくらいでは壊れません。
しかしそこに乗っている人間はそうもいきません。
私は全然へっちゃらなのですけれど、ウルウはもはや死んだほうがましといった顔です。
ウルウよりはましなトルンペートも、あまり元気とは言えません。
もっと高く、雲の上をいけば、雪もなく風も平らで、随分穏やかな飛行になるのだそうですが、問題はその高さになると空気が薄くなってしまって、竜車のまじないではちょっと心もとないのでした。
それに空気が薄い分、飛竜が飛行に多くの力を費やさなければならなくなるので、かえって飛べる距離は短くなることもあるのだそうでした。
もちろんそんな話もウルウにとっては全く頭に入ってこない内容なのでしょうけれど、しかし私の声は聴いていると耳障りが良いとのことで、子守歌代わりに延々と中身のない話をし続けることになっています。
いいんですけど、いいんですけどなんていうかこう、最初っから聞いていないとわかっているのに喋り続けるのって結構しんどいものですね。お喋りが好きなのと一人で喋れるのって全く別の話なんですね。
延々と喋り続けることしばし、ウルウがなんとか寝つき、トルンペートがうつらうつらとしはじめ、そして私が一周回って喋りつづけることが気持ちよくなってきたというかやめどころを見失ったというかそのような無我の境地に陥りかけたころ、飛竜が揺れ始めました。
この揺れ方は、と天井を見上げると、飛竜の操縦を務めているお母さまが、伝声管からそろそろ着地する旨を伝えてきました。
今日は窓を閉めっぱなしだったので時間感覚がいまいちはっきりしませんが、ずいぶん長く飛んでいたように思います。
激しい揺れに否応なしに目覚めさせられたウルウがうつろな目で竜車の角を見つめはじめ、トルンペートが強張った体をほぐしながら降りる準備を始めました。
それにしても本当に、ウルウは小舟は大丈夫なのに何で船とか竜車はダメなんでしょう。いまだによくわかりません。
竜車から降りた我々を迎えたのは、うっそうと茂る森でした。
降り積もる雪の重みに耐えつつも立派な緑を見せつける針葉樹林です。
私がウルウと出会った、あの境の森です。懐かしいものです。あの時よりだいぶ北寄りですけれど。
ウルウとしてはどう思っているのでしょうかと振り向いてみましたが、どうもそれどころではないようで冷たく新鮮な空気を深呼吸しながら、こみ上げてくる乙女塊をこらえているようでした。
見なかったことにして、体をほぐしながら空を仰げば、赤々とした夕日が見えており、すっかり夕刻を回っているようでした。
「んっ、んー……はあ。今日はずいぶん長く飛びましたね」
「境の森と遮りの河を一度に渡っちゃいたいからね。そうすればカンパーロにお昼くらいにはつけるわ」
「……遮りの河って何?」
吸気面や眼鏡を外すお母様のお手伝いをしていると、すらりとした身体をぐんにゃりと曲げて参っているウルウが、それでもなんとか会話に参加してきました。
好奇心に忠実なのは良いことです。そうでなくても会話に参加してきてくれていいのですけれど。
遮りの河というのは、境の森の東側を流れる大きな河のことで、幅が広く底も深く、流れもそこそこ早いので、渡る方法が限られています。
湧き出る元は臥龍山脈の奥深くで、流れる先は海まで続きますので、たった一つしか架かっていない大橋を渡らなければ、普通は辺境に行くことはできません。
飛竜みたいに普通じゃない手段もあるので、絶対とは言えませんけれど。
この遮りの河と境の森の二つが帝国と辺境を隔てる一種の境界線というわけです。
政治的領土的な区分でもありますし、越えると途端に魔獣が強くなる生物学的な区分でもありますし、そしてやっぱり物理的な区分でもあります。
その向こう側のカンパーロとは、辺境の入り口でもあるカンパーロ男爵領のことです。
男爵領ではありますが、辺境内では最も領地が広く、農耕に適した土地が多く、辺境の胃袋といっても過言ではありません。
よそからの商人もみなここを通るので、流通も非常に活発です。辺境としては。
さすがの竜車でも広大な境の森と遮りの河を渡るのには時間がかかるようで、今日はここで野営をし、明日の朝からカンパーロ男爵領に向かう、とそう言うことなのでした。
なお、私の朗々とした説明は、限界を迎えたウルウの乙女塊によって中断させられたことをここに追記しておきます。
用語解説
・カンパーロ
カンパーロ男爵領。
アマーロ家が代々治める広大な領地で、肥沃な平野が広がり、豊かな農地に恵まれた土地。
辺境ではあるがよく拓かれており、内地との交流も活発。
・遮りの河
大陸東部の河。辺境領と帝国内地を分けるように南北に長く広がる河で、橋は一つしか架かっていない。
前回のあらすじ
ついに辺境(の手前)までたどり着いた一行。
そしてついに溢れかえったウルウの乙女塊。
溢れるゲロは虹の色。
吐いたらすっきりした。
いきなりで申し訳ないけれど、本当にそんな気分だった。
実際問題として必ずしも吐いたら楽になるわけではないし、胃液で喉が焼けたので快調というわけでは決してないのだけど、何かのスイッチが切り替わったみたいに少し楽になるのは確かだ。
胃に物が入っている時特有の、あのドバドバっとあふれて、あァ一息ついたというような一種の爽快感はないのだけれど、私は吐きました、という一点で脳が切り替わるというか、言っててなんだけどやっぱり全然切り替わらねーっつーの。ちょっと楽になったかなーと一瞬思うんだけど、希釈されてない胃液があちこち焼いてるせいで苦しいし、もうほんと勘弁してって気持ち。
それでも、冷たい空気を吸い、雪で顔を洗ううちに、冷たさが私の神経を無理矢理立て直して、ぐるぐると気持ちの悪い酔いはいくらか晴れた。
蒸留水を取り出して口をゆすぎ、一息。
これはアイテムとしての《蒸留水》じゃなく、精霊晶屋で頼んだ蒸留水の水精晶を詰めた水筒だ。ヴォーストを出るときに仕上がった分は全部買ってきた。
ハヴェノでも頼んでおいたけど、そちらは数が仕上がる前に辺境に旅立ってしまったので、在庫持て余してるだろうなと申し訳ない。
まあ、立ち寄った時には買うから許してほしい。
私がそうして回復に全神経を費やしているころ、元気この上ないリリオとマテンステロさんは意気揚々と「晩御飯獲ってくる」と言い残して森に入ってしまった。森は彼女たちにとってスーパーマーケットみたいなものなんだろう。
トルンペートはそれを見送って、ざっと雪かきし、かまどを組み、野営の支度を進めてくれていた。
本当にこの子はできる子だ。
そして私はできない子だ。
お荷物でしかないのが申し訳ないのだけれど、誰かを頼ることができるという麻薬じみた快楽は私をどんどんダメ人間にしている気がする。
辛い時、誰かに辛いですと言える気持ちがわかるだろうか。
気楽にわかるーと言える人は帰ってどうぞ。
違うんだよ。そう言う簡単な気持ちじゃないんだよ。
などとこじらせたオタクみたいなことを思いつつ、私は寝そべったキューちゃんの羽に挟まれて喫飛竜にいそしむ。
ひとところにじっとしていられないピーちゃんと違って、大人なキューちゃんは弱った私を振り払ったりしないのだ。
正確に言えば、ゲロ臭いのか嫌がって振り払ってきやがったのを自動回避全開で張り付いたところ根負けしてくれた。いい子だ。
それにしても自動回避の出鱈目な動きではなぜ吐き気が起きないのだろう。三半規管どうなってるんだ。
しばらくして、何とか私が回復してきた頃、二人は獲物を引きずって帰ってきた。
普通の獣は、雪の上とは言え引きずったりすると傷がつくので、怪力のリリオは頑張って持ち上げてきたりするのだけど、今日は気にせず引きずってきている。
そんなに丈夫な獲物なのかと顔を上げてみて、そして私はそっとキューちゃん枕に舞い戻った。
私は何も見ていない。
「ウルウ、ウルウが見てなくても現実はいなくなったりしませんよ」
「現実よさらば」
「はいはい、諦めてくださいね」
リリオも最近、私の扱いが雑になってきた気がする。
まあ私も、私みたいなやつがいたら相当雑に扱うだろうからなんにも言えないんだけど。
諦めて顔を上げると、そこにはダンゴムシがいた(柔らかい表現)。
目をつぶり、深呼吸をし、それから改めてそのデカ物を観察してみよう。
それはダンゴムシというか、ワラジムシというか、要するに背中がたくさんの節で分かれた外殻になって、脚がうじゃらっと並んだ生き物だった。バカでかい複眼が何個かついている方が多分頭。
そして、でかい。とにかくでかい。
小柄なリリオではいくら力があっても確かにちょっと担いでこれなかったサイズだ。
人間が二人くらい荷物と一緒にまたがれるサイズで、実際、これを移動手段とする人もいるそうだ。
馬なんかと比べて視点が低いけれど、このうぞうぞした多脚で、森の中の凸凹も平気で進んでいくそうだ。
やめろ。ひっくり返すな。その脚を見せるな。
「へえ……あ、そうなんだ……」
「露骨に興味ない顔ですね」
「いやだって……虫じゃん?」
「大甲虫ですね」
「名前じゃなくて。え、なに?」
裏返したそのギガ・ダンゴムシの太い足を切り落としていくリリオとマテンステロさん。トルンペートも参戦。
もしかしなくてもだが。
「食べるの、それ?」
「美味しいですよ?」
味じゃなくて。
しかし私の苦悩を置いて、三人はてきぱきと超銀河ダンゴムシをさばいていく。
手慣れているあたり、この巨大な虫も辺境人にとっては森のおやつなのだろう。
三人は一通り足を切り取り終えると、分厚いナイフを腹と背中の殻の間に入れて、べきばきと恐ろしい音を立てて開いていく。かなりの力作業の様で、もはや鑿みたいな分厚さのナイフを、ハンマーで叩いて刃を入れていき、てこの原理で押し開けていく。
コツみたいなものがあるんだろうけれど、もうなんか機械とかの解体作業にしか見えない。
腹側の殻が剥がれて、見えてきた中身は意外にもきれいなものだった。白みがかった透明な身がみっちりと詰まっていて、綺麗につやつやと輝いている。
これは巨大な伊勢海老と念じ続けていると、だんだんそんな風に見えてこないこともない。
お腹の殻がすっかり引きはがされると、今度はまた別のナイフで、背中の殻から肉を剥ぎ取りにかかる。なにか膜のようなものが殻と肉の間にあるようで、そこに刃を入れていくと、べりべりと剥がれていくのだった。
見ていると簡単に見えるけれど、膜が破れないようにするにはちょっとコツが要りそうだった。
うん、大丈夫。そろそろ食材に見えてきた。
ブロック肉から牛とか豚を想像できないのと一緒だよね。
命の大切さとかありがたみとか動物愛護とか、そんなことよりも私たちは心の平穏のためにブロック肉が大事なわけですよ。
どれだけ異世界にもまれようと現代社会で生まれ育ったもやしメンタルのOLあがりにはそれくらいでちょうどいいんだよ。
引っぺがしたお肉はかなりの量で、部位ごとに分けていくんだけど、その塊がまたでかい。
バラしていくと内側にしっかり内蔵とか神経索とか脳みたいなものが確認できるんだけど、いままで解体に付き合ってきた哺乳類とか四つ足の鳥類とか爬虫類とかと比べると、なんかこう、生き物としての構造がかけ離れすぎていて、そこまでグロく感じない。
血も、血っていうか体液かな、それも赤くなくて、透明っぽい黄色で、そこまで生々しくない。
肉をメインとして食べるとして、内臓は食べられるのだろうか。
このあたりになるともう虫だからという気持ち悪さは鳴りを潜めて、単純に子供じみた好奇心で覗き込むようになっていた。
「大甲虫は雑食で、落ち葉とか枝とかもバリバリ食べるんですよね。お肉とか魚とかばっかり食べてたらワタも食べられるらしいんですけど、大概そういう、落ち葉とかで詰まってるので、あんまり美味しくないです」
消化管はそう言うわけで、ポイみたいだ。
その代わり、最初脳みそかなって思った黄色い塊は、食べるらしい。
「なにこれ?」
「肝ですね。味噌ともいいます」
「蟹味噌みたいなものか」
「そうそう、蟹とか、海老とかもありますよね」
さすがにこんなサイズで見たことはないが。
なにしろリリオの両手では足りず、でろんと垂れているくらいだ。
中腸線とかいうやつだ。肝臓みたいな働きをするらしい。なので重金属とかの生体濃縮がちょっと怖いが、まあ、この異世界でそんなこと気にしてたら何も食べられない。
綺麗さっぱり身を剥いだ後の殻は、ちょっとした浴槽みたいなサイズだった。
と言ってみたら、これだから風呂気違いはみたいな顔されたけど、日本人としてこのたとえは致し方ない物でして。
で、現地人としてはどのようにあつかうのか聞いてみたら、防具とかに使うらしい。
木材のように軽いけど木材よりしなやかで丈夫。研げばナイフみたいにも加工できる。
金属と違って鋳潰すことはできないけど、火であぶって曲げたりはできるので、いろいろ使われているようだ。
動きはそこまで俊敏ではないので、罠や、道具に工夫をして猟師によく狩られるらしく、お肉も素材も割と安価らしく、駆け出しの冒険屋だけでなく村人とかにとっても馴染みのある素材だそうだ。
ただ、まあ、よく狩られるというのはそこまで質も良くないわけで、消耗品くらいの扱いかな。
それでこれはどう食べるのかと見ていると、かまどに鉄網をかけて、その上に丸みのある殻を乗せる。小さめの節とは言え、元がでかいから、ちょっとした浅鍋みたいなサイズだ。
これに切り分けた身を並べ、軽く塩と胡椒を振る。
殻の上で加熱されていく身は、その熱と塩でもってじわじわと水分をにじませていくのだけれど、これがまたいい香りがする。こうして殻自体を鍋にすることで、炙られた殻は香りを放ち、内側では出汁をにじみださせるといういい働きをするのだった。
水分がある程度出てくると、身は白く濁り、いくらか縮んでくる。
そしてその水分も熱せられて徐々に煮詰められていき、濃厚なスープになっていく。
そのスープはさらに煮詰められていき、やがて水分がほとんどなくなってきた頃合いを見計らって、乳酪が投入された。
音を立てて溶けていく乳酪の香りが、濃厚なスープの香りと混ざり合って暴力的な香りを立ち昇らせたのだった。
そして仕上げに、枸櫞をさっと絞ってかける。
私はもうこれが虫だということは全く頭になく、視覚に、嗅覚に訴えかけてくる暴力的なまでの誘惑にあっさりと屈したのだった。
用語解説
・大甲虫(granda skarabo)
大型の節足動物。蟲獣。人間が乗れるくらい巨大なワラジムシを想像すると早い。甲は非常に頑丈だが、裏返すと簡単に解体できる。動きが遅く、肉が多いので、狩人にはよい獲物。
前回のあらすじ
美味しいものには勝てなかったよ(ダブルピース)。
海老か蟹かで言ったら、海老寄りよね。
なにがって、昨日たらふく食べた大甲虫の味だ。
ぷりっとして、心地よい歯ごたえ。甘みのある肉。味わい深い出汁。
煮てもいいし、蒸してもいいけど、やっぱり網焼きは野趣もあるし、食べてるって感じがしていい。
一晩明けて、朝食は昨日のあまりの大甲虫の肉と肝の汁物だ。
肉はあんまり大きすぎず、でも思わず笑顔になっちゃうくらいには大振りに。
野菜は、まあなんだっていい。馬鈴薯に、人参、韮葱、牛蒡もいい。まあほんと、なんだっていい。
大甲虫の汁物は、何を入れようとも美味しく仕上がる、味の力技なのだ。
味の基本は、胡桃味噌だ。これと、大甲虫の肝を溶かし込む。それから、臭み消しに白葡萄酒などの癖が少なめのお酒。臭みは消したいけど、肝の味わいを壊したくない。
もう本当に、窮極的には胡桃味噌と肝と酒だけあればいいっていうくらい。
酒飲みなんかは、肝とこそいだ肉に酒を注ぎ、殻の上で火にかけて楽しむなんて言う乙なやり方もするらしい。というかあたしたちもしたけど。
大甲虫の肝は味が濃いだけじゃなくて、さっぱりとした香りも特徴よね。
海老や蟹みたいに、磯の香りは全然しないの。まあ当然だけど。
その代わり、森の香りっていうのかしらね、そういうのがする、ような気がするわ。
ちょっと土臭いかもって感じる時もあるんだけど、そういうのは内臓処理の時にワタの中身をこぼしちゃったりしてるだけよ。大甲虫て、エサ食べるとき土も一緒に食べちゃってるらしいから、匂いが移るの。
肝をそのまま食べるっていうのも、もちろん美味しいわ。
虫に当たることもあるからちょっと覚悟がいるけど、ねっとりとした舌触りに、濃厚な味わいはたまらないものがあるわね。
でもアタシとしては、やっぱり肝汁よね。
火を通してやることで香りが一層引き立つし、何より汁物全体がうまさとしての格を一段も二段も上げるのよ。
ちょっとしなびてきた野菜でも、適当に突っ込んで煮てやるだけで美味しく頂けちゃう。
まさしく、味の力技ってわけね。
朝からこの力強い朝食を平らげ、たくさん余った肉は飛竜の餌にして、さあ、今日も竜車の旅が始まる。
始まると言ったって、あたしたちは竜車に乗るだけなんだけど。
その乗るだけが苦痛極まりないやつも一人いるとはいえ、ほんと、なんにもすることがない。
今日は雪もやんで、風も穏やか。
揺れもあんまりないから、とは言ってみたけれど、まあ、風のある時と比べたらって話よね。
竜車っていうのは、どうやっても揺れる乗り物なんだから。
馬車の揺れと一緒だと思うんだけど、ウルウって、馬車では酔わないのよね。
「酔わないわけじゃないけど」
「あ、そうなの?」
「揺れが一定だから何とかって感じ」
「あー……」
まあ、堅い地面の上を走る馬車は、精々その凸凹で上下するくらいだ。
上下左右斜めにと揺れる方向を選ばない船や竜車は厳しいと、まあそう言うことなんだろう。
青ざめた顔のウルウが魂ごと中身を吐き出してしまわないように、昨日はリリオがひたすら喋り続けた。
あたしとしては気持ち悪くて体調が悪い時にごちゃごちゃ言われたらお願い黙って静かにしてもしくは黙らせて静かにさせるわよってなると思うんだけど、ウルウからすると適度な雑音がしている方が落ち着くらしい。
雑音扱いされたリリオはむくれていたけど、死にそうな声で「声が……声がいい。あと顔も」と取ってつけたように言われてすぐに機嫌を直していたから、ほんとにちょろい。
まあその雑音発生器ことリリオもさすがに昨日喋りっぱなしで喉が嗄れ気味だったので、今日は交代してあたしがお喋りを引き継ぐことにした。
無理はしなくていいって言われたけど、こう見えてあたしはお喋りが嫌いではないのだ。
女中の仕事の三割くらいはお喋りと言っていい。
場合によっては八割くらい。
仕える主人がお喋りに飢えていたらそれこそ一日中喋るのが仕事みたいなものだ。
というのはまあ言い過ぎかもしれないけど。
ともあれ、あたしにとって雑談というのは職業柄必須技能と言ってもいいし、同時に純然たる楽しみと言ってもいい。
あたしはぐったりと横になったウルウの背中をゆっくり叩いたりさすったりしてやりながら、愚にもつかないお喋りをはじめた。
話題なんて言うものは、いくらでもある。
天気のこと。竜車のこと。飛竜のこと。辺境のこと。いままでの旅のこと。料理の献立や、買い物した時の話。
それこそ内容なんてなんでもいいんだから、子供に聞かせるようなおとぎ話の類でも全然かまわないのだ。
実のところあたしは物語を語るのが得意だったりする。
吟遊詩人になれるとまではいかないけど、リリオが今よりもっとちっちゃい頃は、あたしが枕元でお話をしてあげたものだ。
「かえるくんが美しい菫畑に思わずほうとため息をつくと、どこからかくすくすと笑い声がし始めました」
「……………」
「いったい誰だろう。かえるくんが不思議そうにあたりを見回すと、鮮やかに咲き誇る菫の花が風もないのに揺れました。不思議に思ってのぞき込んでみると、なんとそこには美しい妖精たちがくつろいでいるではありませんか」
「……………」
「妖精たちはかえるくんが目を丸くするのをおかしそうに笑って、こう言うのでした。『まんまと罠にはまりおったな、愚かなかえるよ』」
「……………」
「かえるくんはハッとしました。『さては黒蜥蜴のヴェルダリヴェロの差し金だなッ』『今更気づいても、もう遅いわ。いよいよもって死ぬがよい』。恐るべき暗黒妖精の無慈悲な死の罠が、かえるくんに迫る!」
「トルンペートさあ」
「何よ。いまいいとこなのに」
「寝かしつけるの超絶下手だったでしょ」
「毎晩滅茶苦茶盛り上がって一度も素直に寝てくれなかったわ」
「そりゃ寝ないよ、これじゃ」
そうなのだ。
今もリリオは目をキラキラさせてあたしのお話を聞いてくれるし、面白いことは間違いないのだ。
でも残念なことに子供を寝かしつけるためには面白すぎても良くないのだ。
だって寝ないもの。
リリオがもっともっとってせがむし、いつの間にかティグロ様も聞きに来るし、あたしもなんか盛り上がっちゃって語りに熱が入ってきて、気づいたら御屋形様が混ざって「続け給え」って言ってくるのよ。
仕方ないじゃない。
あたしはリリオの寝物語としてよく語って聞かせたかえるくんのお話の最新作「かえるくん対黒蜥蜴~死線に踊れ~」を即興で語ってみせ、興が乗ってきたのでそのまま「練り物の国の王子様と熱砂の死闘」というお話もおまけに聞かせてやるのだった。
いやまったく、リリオも拍手喝采で、あたしも満足のいく語りだった。
惜しむらくはウルウの体調が万全ではないので、しっかり楽しんでもらえなかったことだろうか。
かわいそうに。目が死んでる。
水袋の水で喉を湿らせて一息つき、さて今頃どのあたりかしらね、なんて思ったところで、あたしはふと気づいた。
「ねえリリオ」
「なんですか?」
「いま思ったんだけど、これって不法侵入じゃないかしら」
リリオはきょとんとして、あたしの顔をまじまじと見つめた。
ほら、あたしたち、竜車で境の森も遮りの河も、一息に飛び越して辺境領に入ろうとしてるじゃない。
そうなると大橋に備えられている関所を素通りすることになる。空に関所は置けないもの。
で、そうでなくても、キューちゃんは元野良だし、ピーちゃんはその子供だ。辺境で登録された騎竜じゃない。
未登録の飛竜が、臥龍山脈からじゃなく北部からやってくるなんてのは、大騒ぎになるんじゃないかって思うのよね。
辺境は大きく三つに分かれていて、臥龍山脈の裂け目を塞ぎ、監視するフロントでほとんどの飛竜が狩られるか追い返される。で、それをすり抜けた飛竜はモンテートの飛竜乗りと対空兵器で駆逐される。
これから向かうカンパーロは産業地帯で、飛竜の狩り残しなんて滅多にやってこないけど、それでも辺境は辺境だ。
迂闊に飛んでいったら、撃ち落される可能性もあるんじゃないだろうか。
という疑問と不安をこぼしていると、伝声管から奥様の笑う声がした。
『だーいじょうぶよう』
「あ、お母様」
『たかだか門番に私が負けるはずがないわ』
「奥様が言うと冗談か本気かわからないんですけどそれ」
奥様は少女のように笑って、それから安心させるようにこう仰った。
『勿論そうなることはわかっているから、ちゃんと事前に伝書鷹を飛ばして、顔を出しますよって連絡を入れてるわ。だから今頃、迎撃の準備を男爵がととのえてくれてるわ」
どうやら時間のかかった事前準備には、辺境への根回しも含まれてたみたい。
とはいえ、それでも、未登録の飛竜で、亡くなったことになっている奥様が帰ってくるのだ。
その対応に追われる下っ端のことを思うと、なんだか申し訳なくなるのだった。
用語解説
・馬鈴薯
ナス科ナス属の多年草。地下茎を芋として食用とする。じゃが芋。
・牛蒡
いわゆるゴボウ。
帝国ではもともと食用ではなく、葉などを薬用にする程度だった。
しかし飢饉の時代に西方人が持ち込んで食べるようになると、南部でジワリと広がり、面白がりの東部人が栽培し、流行りに鋭い帝都で調理法がまとめられた。
馬鈴薯などもその類である。
・かえるくんのお話
喋るカエルを主人公としたトルンペート力作の物語シリーズ。
東京を救ったりはしない。
・「かえるくん対黒蜥蜴~死線に踊れ~」
因縁の宿敵である黒蜥蜴のヴェルダリヴェロの卑劣な罠にはまり、暗黒妖精と死闘を演じるかえるくん。果たしてかえるくんは生きてこの地獄を抜け出せるのか、黒蜥蜴との決着はどうなるのか。緊張と弛緩の緩急が子供たちを眠らせないだろう。
・「練り物の国の王子様と熱砂の死闘」
昔々あるところに練り物が大好きな王子様がいて、そして彼はいま秘宝を求め、悪の宰相率いる魔盗賊団と競うように死の砂漠に臨んでいた。過酷な砂漠でのサバイバル、魔盗賊団との共闘、そして争いと息も継がせぬ急展開に次ぐ急展開が子供から睡眠時間を奪う。
・フロント
辺境最奥、竜たちが彷徨い出る臥龍山脈の切れ目を監視し塞ぐ竜狩りたちの住まう土地。
辺境伯領。
極めて過酷な環境ではあるが、それでも辺境人たちはこの地に住み着き、人界を竜の脅威から護ってきた。
・モンテート
子爵領。険しい山岳地帯であり、人々は山に張り付くように街を築き暮らしている。
臥龍山脈に向かって要塞が幾つも建てられ、対空兵器と飛竜乗りたちが、フロントで討ち漏らした飛竜たちを狩っている。
・伝書鷹
ある程度の大きさの街や宿場町には必ず存在する飛脚屋が所有する、生物としては最速の郵便配達手段。使用される鷹は餌代もかかるので配達費用はかなりのものだが、空ではまず敵なしの鷹を飛ばすため、速度・安全性共に抜群である。
前回のあらすじ
静かにまどろんでいたいウルウVS絶対に子供を寝かせないトルンペート。
波打つ雪の海のような境の森を抜け、空から見下ろしてもなお広い遮りの河を飛び越え、ついに、ついに私たちは辺境領にやってきたのでした。
「と言っても、まあ」
「あんまり変わり映えしないね」
「まあ冬だもの」
適当な森の傍に着陸しましたが、正直冬場の雪国はどこも似たようなものです。
とりあえず白い。
これです。
勿論、慣れ親しんだ森とかならある程度の区別もついてくるんでしょうけれど、でもそれさえも怪しくなってくるのが冬場の怖い所です。
辺境は獣も強く、飛竜も現れる、その上そんな中でも健気に野盗が現れる、とても危険な土地ですが、でも死因を比べてみると、上位に来るのは「自然」です。
獣に襲われれば死にますし、飛竜に襲われればもっと確実に死にますし、野盗と戦えばどっちが死ぬかわかりません。何なら病気でも死にます。
でもそんなものを待たなくても、辺境では人は何もしなくても死ぬのです。
凍って死ぬ。それが辺境でもっともありふれた死に方です。
内地の人間は自然との闘いとかそう言う言葉を平然と口にしますが、そもそも自然とは闘いになりません。闘ったら死にます。いかに闘わないかが自然との付き合い方なのです。
「わかりましたか、ウルウ」
「御説いちいち御尤もだと思うんだけど」
「だけど?」
「ちびっこが言うと説得力がない」
「むがー!」
そりゃあ私は小さいですけれど、しかし自然との付き合い方はウルウよりもよっぽど熟知しています。
ウルウのような都会派とは人間強度が違うのです。
「辺境貴族は体の造りが違うから話半分に聞いた方がいいわよ」
「ですよねえ」
「むーがー!」
物理的な人間強度の問題にされてしまいました。
いや、確かに辺境人の中でも辺境貴族は特に頑丈で強靭ですけれど。
まあ実際問題として、辺境領に入ったからと言って何もかもがすっかり切り替わるわけではありません。
入り口も入り口のカンパーロはまだ穏やかな方で、他所からのお客さんも観光したりできる程度ではあります。それでも大分不便は感じるようですけれど。
さて、ここから男爵がおられる町まで飛ぶとすっかり夜になってしまいますので、私たちは早めに野営の準備を整えてここで一夜を明かし、翌朝早くに出発しました。
一夜明けた朝の日差しに照らされた辺境は言葉にできないほど美しいものでした。
なんて言えば観光雑誌に記事が書けそうですけれど、正直なところこれほど見ごたえのない光景もそうはないのではないかというのが私たち《三輪百合》の総意でした。
一面の銀世界がきらきらと輝くさまは確かに美しいものかもしれませんが、ウルウ風に言えば「もう見た」というやつです。さすがに見飽きました。
ただでさえ真っ白で距離感がおかしくなるのに、何しろ恐ろしく降り積もるので、あらゆるものが起伏を失って、平坦な白がどこまでも続くのです。
ところどころに集落は見つかりますが、誤差範囲内です、もはや。
死にかけながらも、もしや辺境ってずっとこんな感じなのではとウルウが勘付き始めたころ、到着を知らせるお母様の声がしました。
それからすぐに竜車は例の激しい揺れをはじめ、私たちはしっかりと体を固定し、ウルウは世界を呪う顔をしました。
無力。
なでなでしてあげましょう。トルンペートも一緒になでなでしてくれます。
ウルウも喜んで虚無を呼吸するような顔をしてくれます。
なんかごめんなさい。
竜車が無事に着陸した様で、ようやく揺れが収まりました。
私とトルンペートは固定帯を外し、身なりを整え、それから干からびた蚯蚓のように横たわるウルウを起こしてなんとか介抱してあげました。
とはいえ、素人造りの竜車に乗った冒険屋風情です。
身なりを整えると言っても、たかがしれています。
せいぜい舐められないように、っていうくらいですもんね。
その点、私たち《三輪百合》は舐められる要素一杯です。
成人したての私に、女中の格好のトルンペート、それに場合によってはそもそも姿を見せないウルウ。
これはひどい。
まあ、別に冒険屋としての見栄を張る必要はあんまりないんですけど、一応。
程なくして外から竜車の扉が開かれ、私たちが程々には見えるように姿勢を正して竜車場へと降りていくと、ずらりと並んだ儀仗兵たちが槍を掲げ、楽団が歓迎の曲で出迎えてくれます。
私はなんだかんだこういうのに慣れていますし、その私付きの侍女であったトルンペートも同じくそうです。
ウルウは全く慣れていないようですけれど、まあウルウはやはりウルウといったところで、突然の大音量にちょっと眉を上げただけで、平常運転です。
もうちょっとこう、驚いてくれてもいいと思うんですけど。
内地の貴族なんかはもっと派手で仰々しいこともしたりするんでしょうけれど、単なる訪問者の出迎えにここまでしてくれるのってそうそうないんですよ?
私が帰ってきたというだけでなく、長らく行方不明だったお母様も一緒に帰ってくるといういわば一大行事だからこそここまでしてくれたわけでして。
そのあたりのことをもうちょっとですね。
「いま朝ごはんが喉元のあたりだからあとでいい?」
アッハイ。
限界のきわきわをつま先立ちで渡り歩くウルウは、それどころではないようでした。
たぶん、あれですね、太鼓とかの打楽器の重低音がもろにお腹に響いてるんでしょうね。
一人一人が内地の騎士を素手で完封できるような儀仗兵の間を、お母様はまるでうららかな午後の花畑でも散歩するような足取りで通り抜けていき、私たちもそのあとに続きます。
辺境を出るまでは、なんとなく、漠然と、この人たちはきっと強いんだろうなあと思っていたものでしたが、実際にいろんな人と触れ、闘い、越えてきた今では、ただの背景に徹しているこの人たちの練り上げられた強さというものがひしひしと感じられます。
具体的には、たぶんお母様が暴れ出したら全員でかからないと話にならないくらいの。
うん。
比較対象が間違っていますね。
私たちが導かれるままに進んだ先で、大きく両手を広げて出迎えてくれたのは、恰幅の良い初老の男性でした。柔和な顔つきとその体系から油断を誘われますが、それは単に太り肉というよりも、大型の獣が蓄えた分厚い肉の鎧を思わせました。
お母様の姿を見るなり大きく声を上げて笑い抱擁を交わし、私の顔を見るなり大きく頷いて柔らかなお腹で抱きしめてくれる。
まるで農家か牧場を営んでいる親戚のおじさんのような人懐っこいこの人が、ここで一番偉い人でした。
彼こそがカンパーロ男爵ネジュヴィロ・アマーロその人でした。
「いや! いや! いや! いやぁー、ようこそおかえりになられた! マテンステロ殿はすっかり顔色が良くなられたな! 南部人はやはり日に焼けたほうがよろしい!」
「おかげさまで。あなたも息災そうでよかったわ」
「いや! いや! 全く! それにリリオお嬢様! 少し見ない間に随分立派になられて!」
「お久しぶりです、おじさま。お変わりないようで」
「お嬢様はすっかり大きくなられた!」
「ふふふ、わかりますか!」
「ええ! ええ! 目を細めてなんとなーく遠めに見ますれば!」
「もー!」
「しかし、立派になられたのは本当ですとも。お顔つきが変わられた。よか武者振りじゃ!」
挨拶もそこそこに、私たちは飛竜場に隣接するお屋敷へと案内されました。
竜車と飛竜は一等腕のいい飛竜乗りが世話してくれるとのことでしたけれど、もとが飛竜乗りの少ないカンパーロの飛竜乗り。野生種のキューちゃんとピーちゃんをうまくあしらえるかちょっと不安ではあります。
お母様がよくよくしつけているから大丈夫だとは言いますけれど。
雪囲い、雪吊りと冬支度をすっかり施され、それでもなお雪に埋もれて高さが半分ほどになった庭を通って、私たちはお屋敷を見上げました。
南部造りの建物が私たちにとって物珍しく感じられたように、北部造りのお屋敷はウルウの目に興味深く映ったようでした。
ヴォーストも北部の町でしたが、あれは都会風の造りでしたし、辺境の造りはまた違います。
辺境では豊富な木材を用いた木造建築が多くみられ、特に丸太を組んだ丸太組作りが一般的です。この造りは北部でもよく見かけられますが、何といっても断熱性が高く、木肌が湿気を吸うので冬も夏も快適に過ごせる優れものです。
屋根は緩めの切妻屋根で、杮葺きか、樹皮葺きが多いですね。
おじさまのお屋敷はこの造りの建物をいくつかつなげたような形で、外壁にさらに厚板を張り、赤い塗料で塗り立てているのが特徴ですね。
この塗料は防腐・防水の役目があるそうですが、同時に派手な色で雪の中でも目立つようにしているとのことです。
「飾り気のない所で申し訳ないが、さ! さ! どうぞ中へ!」
貴族、とは言っても、辺境貴族はあまり飾りません。
というか、方向性が違います。
芸術家の絵画や彫刻よりも、獣の剥製や毛皮、武具などを飾ることが多いですね。
しかし無骨一辺倒かというとそんなことはなく、木彫りの人形や、防寒も兼ねた壁掛け絨毯など、居心地の良さを重視した暖かみのある内装なのでした。
特にカンパーロは内地との交流地でもあるので、様々な文化を思わせる品々も見られました。
おじさまはそう言った異国情緒を好むところがあり、以前来た時よりも増えているかもしれません。
それぞれ部屋に通され、荷物を下ろして一息ついたところで、私たちは寒かったろうし、疲れただろうからとお風呂を勧められました。
「おふろ」
お風呂と聞いて復活したのがウルウでした。
とはいえ、実際お風呂に向かってみると、期待とは違ったようです。
というのも、北部や辺境では、お風呂と言ったら蒸し風呂なのでした。
ヴォーストはあれで都会でしたので、浴場形式のお風呂が広まっていましたけれど、昔ながらのお風呂と言えばこれです。
たっぷりの蒸気で満たされた小部屋でじっくりと汗をかき、汚れを落とし、そして戸を開けて外に出て冷気に身をさらしたり、なんなら表面の氷を切り開いたため池に浸かったりします。
「頭おかしいんじゃないの?」
「寒空の下より水の中の方があったかいんですよ」
「頭おかしいんじゃないの?」
辺境理論は内地の方にはあまり理解されません。しかし事実なのです。
水は凍ってないんだから、凍ってる外よりあったかいんですよ。
ウルウも意味わかんないと言いながら私たちに付き合っているうちに、「水の中の方があったかい」と理解してくれました。
それから私たちは蒸し風呂で蒸され、ウルウのしっとりと汗をかく肌を眺め、それから水風呂に吶喊しては芯まで凍えそうな冷たさに沈み込み、また蒸し風呂逃げ帰って蒸されというのを繰り返し、辺境流のお風呂を楽しんだのでした。
用語解説
・儀仗兵
内地では儀仗兵と言えば見栄えは非常にいいけれど実際に闘うことはない張り子の兵、と見られることが多いが、辺境の儀仗兵は「見た目のいいでかくて旧式の武装で最新装備の連中を相手に戦える」エリートがやることになっており、実力も高い。
そもそも全員が飛竜革の鎧や大具足裾払の武器などを装備しているというだけで、内地の騎士とは一線を画している。
・ネジュヴィロ・アマーロ(neĝviro Amaro)
当代カンパーロ男爵。いわゆるトドのような体形と称される恰幅の良い初老の男性。
辺境貴族では最も弱いとされるが、仮に飛竜がカンパーロまで到達してしまった場合でも対応できるだけの胆力と覚悟、実力がある。
・蒸し風呂
辺境や北部の一部では、風呂と言えば蒸し風呂が一般的である。
風呂の神流行が届いていないというのもあるが、大量の水を湧かして温度を維持するというのが極寒のこの国では難しいという理由もあるようだ。
一家にひとつはさすがにないが、集落に必ず一つはある。