前回のあらすじ
怪しげな按摩ッサージで全身をぐにゃんぐにゃんにさせられた三人であった。
神経衰弱でほどほどにリリオから巻き上げながら、あたしはウルウの色っぽい声に惑わされないように、またちょっと気になっていたので、女中のユヅルさんに尋ねてみることにした。
「ところでユヅルさんは茨の魔物って知ってる?」
「あ、はい、知ってますよ」
「あれって何なの?」
「何っていうと……何なんでしょうねえ」
困ったように応えられて、ああ、違う違うとあたしは頭を振った。質問が悪かった。
揉み解しがあまりにも気持ちよくて、まだ頭がぼんやりしているのかもしれない。
「そうじゃなくて、どういう魔獣なのかなって」
「ああ、そういうことですね」
寝台の上でもちでもこねるかのようにウルウの体をもみほぐしては、その度に声を上げさせつつ、ユヅルさんは答えてくれた。
「茨の魔物って言うのは、異界からやってきた魔獣なんですよ」
「異界から」
「どこか、本当に遠いどこかからやってきた魔獣なんです」
「ふうん」
「それで、茨の魔物は、人の心に取り憑くんです。弱っている人、油断している人、そして心の毒が多い人に」
そうして人に取り憑いた茨の魔物は、人の心の毒を吸い上げていくという。そうすると人の心はなくなった分の毒を満たすように、心の毒を過剰に生産する。だから突然気性が荒くなったり、悪事に手を染めたり、急変するのだという。
そうしてひとの心をすっかり吸い尽くしてしまって、もう新しく心の毒を生み出せなくなると、茨の魔物は成熟して、種を作り、あたりにばらまいてまた新しく人の心に取り憑いて、殖えていくのだそうだ。
「心の毒を奪って増える魔獣ねえ」
「毒なら、別に取られちゃってもいいんじゃないですか?」
確かにそうだ。毒を吸って増えてくれるなら、魔獣どころかとんだ益獣ではないだろうか。
しかし、ユヅルさんはウルウの体をぐんにゃりと曲げながら首を振った。
「心の毒は、なくてはならないんです。例えば誰かを妬む気持ちは心の毒ですけれど、それで相手を乗り越えてやろう、努力しよう、っていう気持ちとも表裏一体なんです。誰かを驚かしてやろうっていう些細な気持ちも心の毒なら、日々を生きていくうえで受けていく些細な刺激もみんな心の毒なんです。心は、毒を受けて、それに抗うために、成長していくんです。毒を受けて、毒を抱えて、それでも頑張って生きていくのが、心というものなんです」
成程、それはわかる話だった。
あたしだって、もし人生が何にもつらいことなんて幸福な事ばかりだったら、つまらなくて死んでしまうかもしれない。こなくそって思うから、前に進んでいけるのかもしれない。あたしの人生は碌なもんじゃなかったし、あたしの育ちは絶対に幸福なものなんかではなかったけれど、それを乗り越えてやろうという気概が、あたしをここまで成長させてくれたように思う。
「すっかり心の毒を吸い取られて、茨の魔物が去ってしまったら、その人の心にはなんの毒も残っていません。一滴も残りません」
「そうなったら?」
「そうなったら、死んでしまいます」
「死ぬ」
「息苦しいということさえ毒と思えないから、呼吸もしなくなりますし、心臓だって働くのをやめてしまいますし、何より、考えることもできなくなってしまうんです。そうして、衰弱して、死んでしまう」
それは、何度も何度もそんな死にざまを見てきたとでも言うように、重い決意の秘められた声だった。
「だから、茨の魔物は退治しなければならないんです。絶対に」
実際のところ、この温泉宿などでも、茨の魔物退治のために協力しているらしい。
「温泉が?」
「神官さんが神様の癒しの力を込めた温泉水って、茨の魔物は嫌がるんです。あんまり茨の魔物が小さい段階だと効かないんですけど、ある程度大きくなったころにこの癒しの力のこもった温泉に浸かったり、飲んだりすると、茨の魔物は嫌がって飛び出してくるんです」
そう言う時の為に、温泉宿にはどこも衛兵が詰めているらしい。
「それで、癒しの力を込めた温泉水を瓶に詰めて、人の多い商店街や衛兵の詰所とかに配ってるんです。大きめのお店なんかは、温泉水を買って、従業員に毎週飲ませたりしてるみたいですよ」
これをユヅルさんは防疫だといった。病を防ぐのと一緒だと。
このやり方をするようになってから、かなりの数の茨の魔物を退治できているらしいけれど、それでも全くなくなるというにはまだ遠いようである。
「難しい話ですけれど、人の心には毒がないと生きていけませんけれど、人の心に毒がある限り、茨の魔物もまた住み着く場所には困らないですからね」
いつか根絶できるときがくればいいのですけれど、と実にしみじみといい話のように言ってくれるのだけど、その下でウルウが見たこともないとろけ顔でぐんにゃりしてるので半分くらいしか頭に入らなかった。
用語解説
・心の毒
ストレス。また、それに抗おうとする心の力。
怪しげな按摩ッサージで全身をぐにゃんぐにゃんにさせられた三人であった。
神経衰弱でほどほどにリリオから巻き上げながら、あたしはウルウの色っぽい声に惑わされないように、またちょっと気になっていたので、女中のユヅルさんに尋ねてみることにした。
「ところでユヅルさんは茨の魔物って知ってる?」
「あ、はい、知ってますよ」
「あれって何なの?」
「何っていうと……何なんでしょうねえ」
困ったように応えられて、ああ、違う違うとあたしは頭を振った。質問が悪かった。
揉み解しがあまりにも気持ちよくて、まだ頭がぼんやりしているのかもしれない。
「そうじゃなくて、どういう魔獣なのかなって」
「ああ、そういうことですね」
寝台の上でもちでもこねるかのようにウルウの体をもみほぐしては、その度に声を上げさせつつ、ユヅルさんは答えてくれた。
「茨の魔物って言うのは、異界からやってきた魔獣なんですよ」
「異界から」
「どこか、本当に遠いどこかからやってきた魔獣なんです」
「ふうん」
「それで、茨の魔物は、人の心に取り憑くんです。弱っている人、油断している人、そして心の毒が多い人に」
そうして人に取り憑いた茨の魔物は、人の心の毒を吸い上げていくという。そうすると人の心はなくなった分の毒を満たすように、心の毒を過剰に生産する。だから突然気性が荒くなったり、悪事に手を染めたり、急変するのだという。
そうしてひとの心をすっかり吸い尽くしてしまって、もう新しく心の毒を生み出せなくなると、茨の魔物は成熟して、種を作り、あたりにばらまいてまた新しく人の心に取り憑いて、殖えていくのだそうだ。
「心の毒を奪って増える魔獣ねえ」
「毒なら、別に取られちゃってもいいんじゃないですか?」
確かにそうだ。毒を吸って増えてくれるなら、魔獣どころかとんだ益獣ではないだろうか。
しかし、ユヅルさんはウルウの体をぐんにゃりと曲げながら首を振った。
「心の毒は、なくてはならないんです。例えば誰かを妬む気持ちは心の毒ですけれど、それで相手を乗り越えてやろう、努力しよう、っていう気持ちとも表裏一体なんです。誰かを驚かしてやろうっていう些細な気持ちも心の毒なら、日々を生きていくうえで受けていく些細な刺激もみんな心の毒なんです。心は、毒を受けて、それに抗うために、成長していくんです。毒を受けて、毒を抱えて、それでも頑張って生きていくのが、心というものなんです」
成程、それはわかる話だった。
あたしだって、もし人生が何にもつらいことなんて幸福な事ばかりだったら、つまらなくて死んでしまうかもしれない。こなくそって思うから、前に進んでいけるのかもしれない。あたしの人生は碌なもんじゃなかったし、あたしの育ちは絶対に幸福なものなんかではなかったけれど、それを乗り越えてやろうという気概が、あたしをここまで成長させてくれたように思う。
「すっかり心の毒を吸い取られて、茨の魔物が去ってしまったら、その人の心にはなんの毒も残っていません。一滴も残りません」
「そうなったら?」
「そうなったら、死んでしまいます」
「死ぬ」
「息苦しいということさえ毒と思えないから、呼吸もしなくなりますし、心臓だって働くのをやめてしまいますし、何より、考えることもできなくなってしまうんです。そうして、衰弱して、死んでしまう」
それは、何度も何度もそんな死にざまを見てきたとでも言うように、重い決意の秘められた声だった。
「だから、茨の魔物は退治しなければならないんです。絶対に」
実際のところ、この温泉宿などでも、茨の魔物退治のために協力しているらしい。
「温泉が?」
「神官さんが神様の癒しの力を込めた温泉水って、茨の魔物は嫌がるんです。あんまり茨の魔物が小さい段階だと効かないんですけど、ある程度大きくなったころにこの癒しの力のこもった温泉に浸かったり、飲んだりすると、茨の魔物は嫌がって飛び出してくるんです」
そう言う時の為に、温泉宿にはどこも衛兵が詰めているらしい。
「それで、癒しの力を込めた温泉水を瓶に詰めて、人の多い商店街や衛兵の詰所とかに配ってるんです。大きめのお店なんかは、温泉水を買って、従業員に毎週飲ませたりしてるみたいですよ」
これをユヅルさんは防疫だといった。病を防ぐのと一緒だと。
このやり方をするようになってから、かなりの数の茨の魔物を退治できているらしいけれど、それでも全くなくなるというにはまだ遠いようである。
「難しい話ですけれど、人の心には毒がないと生きていけませんけれど、人の心に毒がある限り、茨の魔物もまた住み着く場所には困らないですからね」
いつか根絶できるときがくればいいのですけれど、と実にしみじみといい話のように言ってくれるのだけど、その下でウルウが見たこともないとろけ顔でぐんにゃりしてるので半分くらいしか頭に入らなかった。
用語解説
・心の毒
ストレス。また、それに抗おうとする心の力。