へ?

 一万倍の飛行魔法はまるで砲弾のようにベンの身体を吹っ飛ばした。

 ベンの身体はあっという間に音速を超え、ドン! という衝撃波を渋谷の街に放ちながら一直線にヒュドラを目指す。

 え?

 何が起こったのか分からないベン。目の前では渋谷のビル街が目にもとまらぬ速さで飛んでいく。

 直後、ズン! という衝撃音を放ちながらベンの身体はヒュドラの本体深く突き刺さり、ヒュドラの身体は大爆発を起こしながら大きな首をボトボトと渋谷の街に振りまいた。

 それはまるでレールガンだった。極超音速で吹っ飛んでいったベンはヒュドラの鉄壁な鱗の装甲をいとも簡単に突き破り、一瞬で勝負をつけたのだった。

「命中! きゃははは!」

 シアンは嬉しそうに腹を抱えて笑い、ベネデッタは唖然としてただ渋谷の街に振りまかれていくヒュドラの肉片の雨を眺めていた。


        ◇


「ま、まさか……、そんな……」

 爆散していくヒュドラを見ながら、中年男は口をポカンと開けて力なくつぶやいた。

 ヒュドラは男の自信作だった。九つの首から放つ毒霧やファイヤーブレスの攻撃力は何万人も簡単に殺せるはずだったし、圧倒的な防御力を誇る完璧な鱗は自衛隊の砲弾にすら耐えられる性能だった。それは芸術品とも呼べる出来栄えなのだ。それが何もできずに瞬殺されるなどまさに想定外。男はガックリしながら飛び散っていく肉片をただ茫然と眺めていた。

「チクショウ!」

 男はそう叫ぶと画面をパシパシ叩き、ベン達の行動をリプレイさせる。そして、ベンが怪しい動きをしたのを見つける。

「この金属ベルトのガジェット……、これは」

 ベンの異常なパワーがガジェットにあることに気が付いた男は、ガジェットのデータを特殊なツールで解析し、指先でアゴを撫でながら画面を食い入るように見つめた。

 そしてニヤリと笑うと、

「これならコピーできるぞ。魔王め、変なガジェット作りやがって! 目にもの見せてくれるわ!」

 そう言って、ガジェットの大量生産を部下に指示したのだった。


        ◇


「ちょっと、いい加減にしてくださいよ!」

 恵比寿の焼き肉屋で、シアンを前にベンは青筋たてて怒っていた。

 シアンは耳に指を差し込み、おどけた表情で聞こえないふりをしている。参加している日本のスタッフたちもシアンのいたずらには慣れっこなのだろうか、誰も気にも留めず、別の話題で盛り上がっている。

「まぁまぁ、百億円もらえるんだろ? いい話じゃないか」

 魔王はベンの肩をポンポンと叩き、苦笑いしながらなだめた。

「人のこと砲弾にしてるんですよこの人! 人権蹂躙ですよ!」

 憤懣(ふんまん)やるかたないベンは叫んだ。

「大体ですよ、僕の名前が『ベン』って何ですか? 誰ですかこれつけたの? 悪意を感じますよ」

 ベンはバンバン! とテーブルを叩いて抗議した。

「名前は……、シアン様が……」

 魔王は渋い顔してそう言いながらシアンを見た。

「やっぱりあんたか! 女神なんだからもっと慈愛をこめたネーミングにすべきじゃないんですか? 何ですか『ベン』って『便』じゃないですか!」

 ベンは真っ赤になりながらシアンを指さして、日ごろのうっ憤をぶつけるように怒った。

 すると、店員が個室のドアを開けて叫ぶ。

「失礼しまーす! 松坂牛のトモサンカク、二十人前お持ちしましたー!」

 そして、たっぷりとサシの入った霜降り肉が山盛りの大皿をドン! と、置いた。

「キタ――――!」

 絶叫するシアン。

「あ、ちょ、ちょっと、まだ話し終わってないですよ!」

 ベンは抗議するが、みんなもう肉のとりこになって一斉に取り合いが始まってしまう。

「ちょっと! 取りすぎですよ!」「そうですよ一人二枚ですからね!」「こんなのは早い者勝ちなのだ! ウシシシ」「ダメ――――!」

 もはや誰もベンの言うことなど聞いていない。ベンは大きく息をつくと、肩をすくめ、首を振った。

「ベン君、取っておきましたわよ」

 ベネデッタはニコッと笑ってベンを見る。

 ベンは苦笑いをすると金網に並べ、ため息をついた。

 そして、まだレアなピンクの肉をタレにつけ、一気にほお張る。

 うほぉ……。

 甘く芳醇な肉汁が口の中にジュワッと広がり、舌の上で柔らかな肉が溶けていく。

 くはぁ……。

 ベンは久しぶりに口にした和牛の甘味に脳髄がしびれていくのを感じた。

 これだよ、これ……。

 しばらくベンは目をつぶって余韻を楽しむ。

 百億円あったらこれが好きなだけ食べられる。なんという夢の暮らし。

 ベンは気を取り直して二枚目に手を伸ばした。






32. 世界を救うバグ技

「で、いつ百億円くれるんですか?」

 ベンは特上カルビをほお張りながらシアンに聞いた。

「んー、悪い奴倒したらね。えーと一週間後だっけ?」

 シアンは魔王に振る。

 ビールをピッチャーでがぶ飲みしていた魔王は、すっかり真っ赤になった顔で、

「え? 決起集会ですか? そうです。来週の火曜日の夜ですね」

 と言って、ゲフッ、と大きなゲップをした。

「決起集会に悪い奴が来るから、そいつ倒して百億円ですね?」

 ベンはシアンに確認する。

「そうそう、失敗するとあの星無くなるから頼んだよ」

 シアンはそう言ってビールのピッチャーを傾けた。

「は? 無くなる?」

 ベンは耳を疑った。自分がミスったらトゥチューラの人達もみんな死んでしまうというのだ。

「ちょ、ちょっと、嫌ですよそんなの! シアンさんやってくださいよ、女神なんだから!」

「んー、僕もそうしたいんだけどね、奴ら巧妙でね、僕とか魔王とか管理者(アドミニストレーター)権限持ってる人が近づくと、何かで検知してるっぽくて出てこないんだよ」

 シアンは肩をひそめる。

「そ、そんな……」

「で、宇宙最強の一般人の登場ってわけだよ」

 真っ赤になった魔王がバンバンとベンの背中を叩く。

 ベンは渋い顔をして首を振り、責任の重さと便意の苦痛の予感でガックリと肩を落とした。


       ◇


「あのぅ……」

 ベネデッタが恐る恐る切り出す。

「どうしたの? おトイレ?」

 シアンはすっかり酔っぱらって、顔を真っ赤にしながら楽しそうに聞いた。

「皆さんが何をおっしゃってるのか全然分からないのですが……」

 シアンはうんうんとうなずくと、

「この世界は情報でできてるんだよ」

「情報……?」

 シアンはパチンと指を鳴らすと、ベンの身体が微細な【1】と【0】の数字の集合体に変化した。数字は時折高速に変わりながらもベンの身体の形を精密に再現している。

 ひぃっ!

 驚くベネデッタ。空中に浮かんだ砂鉄のような小さな1、0の数字の粒が無数に集まってベンの身体を構成し、まるで現代アートのように見える。しかし、それらはしなやかに動き、変化する前と変わらず焼肉をつまみ、タレをつけて食べていた。

 え? あれ?

 ベンが異変に気付く。

「な、何するんですか!」

 ベンはシアンに怒る。しかし、数字の粒でできた人形が湯気を立てて怒っても何の迫力もない。

「きゃははは! これが本当の姿なんだよ」

 シアンは楽しそうに笑い、ベネデッタは唖然としていた。ベンは数字になってしまった自分の手のひらを見つめ、ウンザリとした様子で首を振る。

 そう、日本も異世界もこの世界のものは全てデータでできている。それはまるでVRMMOのようなバーチャル空間ゲームのように、コンピューターで計算された像があたかも現実のように感じられているだけなのだった。

 もちろん、ゲームと日本では精度が全く違う。地球を実現するには十五ヨタフロップスにおよぶ莫大な計算パワーが必要であり、それは海王星の中に設置された全長一キロメートルに及ぶ光コンピューターによって実現されている。そしてこのコンピューターが約一万個あり、そのうちの一つが地球であり、また、別の一つがトゥチューラを形づくっていたのだった。

 このコンピュータシステムを構築するのには六十万年かかっているが、それは宇宙の歴史の百三十八億年に比べたら微々たるものといえる。

 これらのことをシアンは丁寧にベネデッタに説明していった。

「な、なんだかよく分かりませんわ。でも、星が一万個あって、うちの星が危ないという事はよく分かりましたわ」

 ベンは納得は行かないものの、異世界転生させてもらったり、数字の身体にされてしまっては認めざるを得なかった。

「それで、星ごとに管理者が居るんですね?」

 ベンは数字の身体のままシアンに聞いた。

「そうそう、トゥチューラの星の管理者(アドミニストレーター)が魔王なんだ」

 魔王はニカッと笑ってビールをグッと空け、内情を話し始めた。


 魔王たちの話を総合すると、一万個の地球たちはオリジナリティのある文化文明を創り出すために運営され、各星には管理者(アドミニストレーター)がいて、文化文明の発達を管理している。ただ、どうしても競争が発生するため、中には他の管理者(アドミニストレーター)の星に悪質な嫌がらせをして星の成長を止め、星の廃棄を狙う人もいるらしい。

 そして今回、魔王の管理する星に悪質な干渉が起こっていて、このままだと管理局(セントラル)から星の廃棄処理命令が下されてしまうそうだ。

「一体どんな攻撃を受けているんですか?」

 ベンはナムルをつまみながら聞く。

「純潔教だよ。新興宗教が信者を急速に増やしてテロ組織化してしまってるんだ」

「純潔教!? あの男嫌いの……」

「そうそう、『処女こそ至高である』という教義のいかれたテロ組織だよ」

 魔王は肩をすくめ首を振る。

「で、彼女たちがテロを計画してるって……ことですか?」

「そうなんだよ、総決起集会を開き、一気に街の人たちを皆殺しにして生贄(いけにえ)にするみたいだ」

「はぁ!?」

 処女信仰で無差別殺人を企てる、それはとてもマトモな人の考える事ではない。ベンは背筋が凍りついた。

「で、ベン君にはその総決起集会に潜入して、テロ集団の教祖を討ってほしいんだ。教祖は管理者(アドミニストレーター)権限を持っているからベン君にしか頼めないんだ」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 管理者(アドミニストレーター)権限を持っている教祖って無敵じゃないんですか? 一般人の僕じゃ勝てませんよ」

 すると、横からシアンが嬉しそうに言う。

「ところが勝てちゃうんだな! 【便意ブースト】は神殺しのチートスキル。攻撃力が十万倍を超えると、システムの想定外の強さになるんで管理者(アドミニストレーター)でもダメージを受けちゃうんだ。まぁ、バグなんだけど」

「バグ技……」

 ベンは渋い顔でシアンを見る。

「つまりベン君しか教祖はたおせない。あの星の命運はベン君が握ってるんだよ」

 そう言ってシアンは嬉しそうにピッチャーを傾けた。

「いやいやいや、そもそも僕は男ですよ? 集会に入れないじゃないですか!」

 すると、魔王はニヤッと笑って言う。

「いや、君は目鼻立ち整っているし、女装が似合うと思うんだよね」

「じょ、女装!?」

 ベンは言葉を失った。

 女装してテロリストの決起集会に潜入して管理者(アドミニストレーター)の教祖を討つ。どう考えても無理ゲーだった。そして失敗すると星ごと滅ぼされる。それは気の遠くなるほどの重責だった。

「大丈夫だって! 上手く行くよ! きゃははは!」

 シアンは酔っぱらって楽しそうに笑っている。

 他人事だと思って好き勝手なことを言ってるシアンに、ベンはムッとして叫んだ。

「ちゃんと考えてくださいよ! あなた女神なんだから!」

「女神だから何?」

 シアンは平然と返す。その美しい瞳には挑発するような色が浮かんでいる。

 え……?

 ベンはハタと考えこむ。魔王が管理者(アドミニストレーター)だとしたら女神とは何なのだろうか?

「女神ってこう、慈愛に満ちて世界を良くしようとする神様……じゃないんですか?」

「きゃははは! 僕は楽しい事しかしないよ」

 シアンは嬉しそうにそう言って、ピッチャーをグッと空けた。

 言葉を失うベンに、魔王が肩をポンポンと叩きながら、

「シアン様は人知を超えた超常的存在だよ。我々人間の尺度で考えちゃダメさ。フハハハ」

 と、楽しそうに笑った。

「人知を超えてるなら、もっといいやり方考えましょうよ」

 ベンはムッとして言った。

 するとシアンはうなずいて、

「いや、僕もね、いろいろやってみたんだよ。いろんな転生者に【便意ブースト】つけたりね。でもみんなダメ。千倍も出ないんだから」

 そう言って、首を振った。

「え? 千倍出せたのって僕だけですか?」

「そうだよ。君は凄い素質があるんだゾ」

 そう言ってシアンはニヤッと笑った。

 しかし、そんなことを言われても何も嬉しくない。

 ベンは大きく息をついて首を振った。

 すると、ベネデッタがそっとベンの手を握る。

 え?

 見ると、口を真一文字にキュッと結び、うつむいている。

「ど、どうしたの?」

 ベネデッタは大きく息をついて、顔を上げると決意のこもった目で、

「あたくしがやりますわ!」

 と、宣言した。

 いきなりの公爵令嬢の提案に皆あっけにとられたが、ベネデッタの美しい碧眼にはキラキラと揺るがぬ決意がたたえられていた。








33. 令嬢の試練

「え? ちょ、ちょっとどういう……ことですか?」

 恐る恐る聞くベン。

 すると、ベネデッタはガタっと立ち上がり、こぶしをギュッと握ると、

「テロリスト制圧はトゥチューラを預かる公爵家の仕事ですわ。あたくしは公爵家の一員として教祖を討伐させていただきますわ!」

 と、宙を見上げながら言い切った。

「よっ! 公爵令嬢!」「やっちゃえ!」「頑張れー!」

 酔っぱらった日本のスタッフは赤い顔で拍手をしながら盛り上げる。

 しかし、ベン達にはとてもうまくいくとは思えなかった。

「あー、御令嬢には難しいと……思います……よ?」

 魔王は言葉を選びながら言う。

「べ、便意に耐えるだけでよろしいのですよね? 耐える事ならあたくし、自信がありましてよ」

 ベネデッタは胸を張って得意げに言う。

 顔を見合わせるシアンと魔王。

「じゃあ、一度やってみる?」

 シアンはニコッと笑うと、肉の皿をのけて金属ベルトのガジェットをガンとテーブルに置いた。

「えっ!? い、今ですの?」

「だって本番は来週だからね。善は急げだよ!」

 シアンは嬉しそうにそう言うと、ビールを飲んで「ぷはぁ」と幸せそうな顔を見せた。


      ◇


 研修用の異空間に来た一行。そこは見渡す限り白い世界で、どこまでも白い床が広がり、真っ白な空が広がっている。

 シアンは仮設トイレを設置し、ベネデッタに中に入るのを勧めたが、

「ベン君はトイレなんて使いませんでしたわ!」

 と、言って断った。

 シアンは一計を案じてすりガラスのパーティションを用意すると、その向こうにベネデッタを立たせた。

「パーティションもいりませんわ!」

 ベネデッタは毅然(きぜん)と言い放ったが、

「万が一事故が起こるとまずいからね、一応ね」

 と、シアンはなだめる。そして、

「はい、ここはテロリストの総決起集会の会場デース。イメージしてー」

 と、両手を高く掲げながら楽しそうに言った。

「イ、イメージしましたわ」

「教祖がやってきマース。教祖は『トゥチューラの連中を神の元へ送るのだー! 純潔教に栄光をー!』と叫んでマース」

「ひ、ひどい連中ですわ!」

「怒りたまったね?」

「溜まりましたわ!」

 パーティションの向こうでぐっと両こぶしに力をこめるベネデッタ。

「便意に負けちゃダメだよ」

「負けることなどあり得ませんわ!」

 ベネデッタは憤然(ふんぜん)と言う。

「本当?」

「公爵家令嬢として誓いますわ、わたくし、便意なんかには絶対負けません!」

 力強い声がパーティションの向こうで響く。

「OK! スイッチオン!」

 ベネデッタは何度か大きく深呼吸をすると、力強くガジェットのボタンを押し込んだ。

 ガチッ!

 ブシュッ!

 と、嫌な音がして、ベネデッタの可愛いお尻に薬剤が噴霧された。

 ふぎょっ……。

 生まれて初めての感覚に変な声が出るベネデッタ。

 直後、ポロン! ポロン! ポロン! と電子音が続き、一気に『×1000』まで表示が駆けあがる。

 ふぐぅぅぅ!

 声にならない声があがり、バタンとベネデッタは倒れてしまう。

「あーあ……」

 シアンはそう言うと、すばやくベンの前に立った。そして、両手でベンの耳を押さえると、響き渡る壮絶な排泄(はいせつ)音が聞こえなくなるまで音痴な歌を歌っていた。

 ベンは状況を察し、何も言わずただ目を閉じて時を待った。なるほど、普通の人には耐えられないのだ。やはり自分がやるしか道はない。

 ベンはこぶしをギュッと握り、そして大きく息をついた。


       ◇


 トゥチューラの人気(ひとけ)のない裏通りに転送してもらった二人。宮殿への道すがら、ベネデッタはずっとうつむいて無口だった。

 ベンはベネデッタの美しい顔が暗く沈むのを、ただ見てることしかできなかった。生まれてきてからというもの、あそこまでの屈辱はないだろう。かける言葉も見つからず、ただ静かに歩いた。


 別れ際、ベネデッタがつぶやく。

「ベン君の凄さが身にしみてわかりましたわ」

 ベンは苦笑し、答える。

「まぁ、向き不向きがあるんじゃないかな」

「便意に耐えるだけ、ただそれだけのことがこんなに辛く、苦しかったなんて……。ごめんなさい」

 肩を落とすベネデッタ。

「大丈夫、トゥチューラは僕が守ります。教祖を討って日本で楽しく暮らしましょう」

 ベンはニッコリと笑って励ます。

 ベネデッタはうっすらと涙を浮かべた目でゆっくりとうなずいた。











34. メイドの適性検査装置

 それから一週間、ベンは毎日便意に耐える練習を繰り返した。十万倍を出すとどうしてもすぐに意識を失ってしまうので、何とか意識を失わない方法はないかと一人トイレに籠って試行錯誤を繰り返す。

 何しろ十万倍で教祖を討たない限りこの星は滅んでしまうのだ。その重責に押しつぶされそうになりながら孤独に便意と戦っていた。

 屋敷のメイドたちはその奇行を見て不思議そうに首をかしげる。

 トイレで気を失い、しばらくしてげっそりした顔で出てきたベンに、赤毛のメイドが聞いた。

「ご主人様何をされているんですか? そろそろお部屋に呼ぶ娘を決めてください」

 メイドは不満そうに頬をぷっくりとふくらませている。

「あー、そうだったな……」

 彼女たちを抱くような余裕はないが、確かにそろそろ誰かを指名してあげないと不満が爆発してしまう。

 ベンはしばらく思案し、ニヤッと笑うと、大浴場にメイドたちを集めた。


       ◇


「そろそろ部屋に呼ぶ娘を決めたいと思う。希望者はこれをつけなさい」

 ベンはそう言って、魔王から借りてきた金属ベルトのガジェットを台に山盛りに載せた。

「これは……、何ですか?」

 赤毛のメイドは不思議そうに金属ベルトをしげしげと眺めた。目鼻立ちの整った美しい顔に怪訝そうな色が浮かぶ。ベンはチクリと胸が痛んだが、一晩百万円の栄誉と引き換えの試練は甘くはないのだ。

「これは適性検査装置だ。この適性検査に合格した者は毎日部屋に呼んでやろう。ただし、結構つらい試験だ。よく考えて決めなさい」

 ベンがそう言うと、メイドたちは先を争って金属ベルトを奪い合うように手にしていく。若く美しい娘たちが便意促進器に群がる姿はひどく滑稽で、この世界の理不尽を思わせた。

 使い方を教え、いよいよ適性を検査する。これは嫌がらせではなく、もし、耐えられる娘がいるなら一緒に集会についてきてほしかったのだ。彼女たちの異常な執念ならもしかしたら耐えられるのかもしれない。

「ボタンを押して一分間便意に耐えられたら合格だ。用意はいいか?」

 ベンはそう言ってみんなを見回した。

「ふふふ、すごい特殊なプレイですね。一分なら余裕ですよ! 今晩は私と二人きりですからね!」

 赤毛のメイドは嬉しそうに笑う。

「私も便意ぐらい耐えられます! もし、たくさん合格したらどうなるんですか?」

 他のメイドが不安そうに聞いてくる。

「一分は長いぞー。そんなことは心配せずに耐えてみせなさい。ちなみに僕は余裕だからね」

 ベンはニコッと笑って言った。

「一分ぐらい余裕だわ!」「ようやく夢が叶うわ!」

 メイドたちは合格する気満々である。

 ベンはそんなメイドたちを見渡すと、

「ハイ! では、ボタンに手をかけてー! 三、二、一、GO!」

 と、叫んだ。

 メイドたちはベンを挑戦的なまなざしで見ながら、一斉にボタンを押し込んだ。

 ガチッ! ガチッ! ガチッ!

 ふぐぅ……。くぅ……。ひゃぁ……。

 あちこちから声にならない声が上がる。

 直後、真っ青な顔をしてバタバタと倒れていくメイドたち。

 あれほど自信満々だったのに、誰一人耐えられなかったのだ。

 大浴場には壮絶な排泄音が響き渡った。

 ベンは急いで耳をふさぎ、目をつぶって「アーメン」と祈る。

 彼女たちのガッツに期待したのだが、残念ながら適性者は現れなかった。

 大浴場には汚物にまみれてビクンビクンと痙攣(けいれん)をする女の子たちが死屍累々(ししるいるい)となって横たわる。

 ベンは掃除洗濯は自分がやってあげるしかないな、とため息をつき、肩を落とした。


        ◇


 その頃、窓の外に巨大な碧い星、海王星を見渡せる衛星軌道の宇宙ステーションで、小太りの中年男が若いブロンドの女性と打ち合わせをしていた。

「いよいよだな。計画は順調かね」

 中年男はドカッと革張りの椅子にふんぞり返り、ケミカルの金属パイプを吸いながら女性をチラッと見た。

「順調でございます、ボトヴィッド様」

「うむうむ。計画が上手く行くよう、ワシの方で秘密兵器を用意してやったぞ」

 そう言うとボトヴィッドと呼ばれた中年男は指先で空間を切り裂き、倉庫に積まれた金属ベルトのガジェットの山を見せる。そして、ニヤリと笑うと、一つ取り出し、女性に渡した。

「こ、これは何ですか?」

 女性はいぶかしそうに金属ベルトとプラスチックノズルを子細に眺める。

「まず、この映像を見たまえ」

 そう言うと、ベンがヒュドラを瞬殺した時の映像を空中に再生した。

「ベ、ベン君……」

 女性は驚いて目を丸くする。

「なんだ、この小僧のことを知っとるのか?」

「え、ええまぁ……。しかしこの強さは?」

「この小僧はこの金属ベルトでとんでもない強さを発揮しておった。戦闘員全員分用意してやったから装着させなさい」

 ドヤ顔のボトヴィッド。

「いやしかし……こんなベルトがパワーを生むとは考えにくいのですが……」

「なんだ! お前はワシの見立てにケチをつけるのか!?」

 ボトヴィッドはひどい剣幕で怒る。

「い、いやそのようなことは……」

「そのベルトのボタンを押した瞬間、攻撃力がグンと上がったのだ。そのベルトが魔王側の切り札であるのは間違いない。ワシらは量産で対抗じゃ!」

 悪い顔でニヤッと笑うボトヴィッドに、女性は渋い顔をしながら答えた。

「わ、わかりました。戦闘員全員に着用させます」

「よろしい。では吉報を待っているぞ」

 ボトヴィッドはニヤリと笑い、席を立つ。

「お、お待ちください。街の人全員を生贄に捧げたら星をいただける、というお約束は守っていただけるのですよね?」

 女性は眉をひそめ、ボトヴィッドをすがるように見る。

「ふん! 俺を信じろ。生贄さえ用意してくれれば約束通り管理局(セントラル)に提案しよう。女性だけの星というのはいまだに例がない。通る公算は高いだろう」

「ありがたき幸せにございます」

 女性はうやうやしく頭を下げた。

 こうして多くの人の思惑を載せ、総決起集会の日がやってくる――――。














35. 美しき少年

「いよいよだね、頼んだゾ!」

 シアンはベンにファンデーションを塗りながら楽しそうに言った。

 ベンは生まれて初めての女装に渋い顔をしながら、ただマネキンのようにシアンに身をゆだねていた。

 シアンは最後に茶髪のウイッグをスポッとかぶせると、

「んー、これでヨシ! 可愛いゾ! きゃははは!」

 と、満足げに笑った。

 手鏡を見たベンは、そこに可愛い子がいてちょっとドキッとしてしまう。

 純潔教の青いローブを身にまとい、胸パッドを仕込んだブラジャーをつけ、ベンは見事に小柄な可愛い女性になったのだ。

「こ、これが……、僕?」

 思わず新たな性癖の扉を開きかけ、ベンはブンブンと首を振って雑念を飛ばす。

「ベン君、ささやかだけど、役に立つかもしれない魔法を開発しておいたよ。手を出して」

 魔王はベンに笑いかける。

「え? 魔法……ですか?」

 魔王はベンの手を取り、手のひらに青く輝く小さな魔法陣を浮かべた。

「これで誰かのおしりを触ると便意を押し付けることができるんだ」

「え? 僕の便意が消えるって……ことですか?」

「そうそう。便意って言うのは脳が『排便しろー!』って必死に腸を動かす脳の働きだからね。これを相手に移転できるのさ。クフフフ」

 魔王は楽しそうに言った。

「はぁ……」

「間違えてボタン押しちゃったりしたときに、一回だけリセットできるって感じかな? 使えそうだったら使って」

「あ、ありがとうございます」

 ベンは手のひらでキラキラと光の微粒子を放っている魔法陣を見ながら、誰に押し付けたらいいのか、いまいち使いどころがイメージできず、首を傾げた。


「はい、これが招待状。場所は街はずれの教会だよ」

 魔王は茶封筒をベンに渡す。

 話によると約一万人の信者が集合するらしいが、小ぢんまりとした教会には一万人も入れない。集会用に異空間を作り、そこに教祖が登場するだろうとのことだった。そして、異空間は閉じられてしまうと外からは干渉できなくなる。つまり、ベン一人で一万人の信者の中、教祖を討たねばならない。

「いやぁ、どう考えても上手く行かないですよ」

 そう言ってベンは泣きそうな顔で首を振る。

「十万倍を出せば君は宇宙最強、一万人に囲まれてても関係ないさ」

 魔王は肩を叩きながら元気づけるが、ベンの表情は暗い。

「十万倍では意識を保ち続けられませんでした」

 そう言ってベンは肩を落とし、深くため息をついた。長い茶髪がサラサラと流れる。

 魔王は気乗りしないベンをジッと見つめて言った。

「教祖が出てきたらすぐに十万倍になって一気に勝負をつけよう。教祖さえ倒してくれれば異空間は崩壊を始めるだろう。そうしたら後は俺たちが何とかする」

 ふぅ……。

 ベンは大きく息をつくと、静かに首を振る。

 すると、シアンはベンの背中をパンパンと叩き、

「ほら、もうすぐ百億円だゾ! 百億円! きゃははは!」

 と、楽しそうに笑った。

「もう! 他人事だと思って!」

 ベンはジト目でシアンを見る。今はもう金の問題じゃないのだ。そんなのは全てが終わってから言って欲しい。

「あ、そうそう、百万倍は出しちゃダメだゾ? 確実に脳みそぶっこわれるから」

 シアンは急に真面目な顔をして忠告する。

「十万倍で気を失うので大丈夫です!」

 ベンはムッとしながらそう答えた。

「あのぉ……」

 ベネデッタが横から声をかけてくる。

「ど、どうしたんですか?」

「あたくしも、集会に参加させていただけないかしら?」

 ベネデッタは伏し目がちにそう言った。

「ダ、ダメですよ。命の保証ができません」

「あたくしのことは守らなくていいですわ。どっちみちベン君が失敗したらあたくし達は殺されるんですのよ?」

 ベンは言葉に詰まった。そう、自分がミスればトゥチューラの人達含めてこの星の人たちは全滅なのだ。改めてその重責に押しつぶされそうになる。

「実はあたくし、あの後毎日特訓したんですのよ」

 ベネデッタはニコッと笑っていう。

「特訓?」

「そうですわ。トイレに籠って何度もボタンを押したんですの。そしてついに千倍に耐えられるようになりましたわ!」

 ベネデッタは少し誇らしげにそう言って胸を張った。

 シアンはそれを聞いて、

「千倍出せたの!? すごーい!」

 と、ベネデッタの手を取ってブンブンと振った。

「いや、でも千倍止まりなんですわ」

「それでもすごいよ!」

 ベンはそのベネデッタの根性に目頭が熱くなる思いがした。便意を我慢するというのは本当に苦しい。胃腸がねじれんばかりに暴れまわり、それを括約筋一つで押さえつけ続けるのだ。その苦痛は筆舌に尽くしがたいものがある。

 そんな苦痛に耐え、失敗して暴発する事を繰り返す。そんな地獄の修業はやったものではないと分からない、自己の尊厳にかかわる凄惨な色がにじんでいる。

 その話を聞いてはもうベネデッタの好きにさせるしかなかった。

「いいですよ、行きましょう。一緒に教祖を討ちましょう!」

 ベンは自然と湧いてくる涙を手のひらで拭うと、ベネデッタに優しくハグをする。

 ベネデッタも嬉しそうにそれを受け入れた。