ゴブリンは森の中で走るのに長けている。身体は小さいものの、猿のように枝にピョンと飛びついて藪を軽々と越えてくるその俊敏な身のこなしは見事で、徐々に距離は詰められてしまっていた。

 ガサガサと迫ってくる多数のゴブリンの足音に、ベンは顔面蒼白となる。

 はぁはぁはぁ……、ダメか。

「早く早くぅ!」

 シアンは楽しそうにクルクルと回りながら言った。

「チクショー!」

 ベンはそう叫ぶと覚悟を決め、下剤を取り出して一気にあおった。

 クハァ!

 口の中に広がるドブのような臭さに目を白黒させながら必死に逃げる。

「ほうら来たよ! がんばれー!」

 シアンは無責任に応援する。

「くぅ……。便意、便意! 早く! カモーン!」

 癪には触るが、今は生き残らなくてはならない。ベンは泣きそうな顔で便意を待った。

「グギャァァァ!」

 ついに追いつかれ、先頭のゴブリンがこん棒を振り下ろしてくる。

 うわぁ!

 何とかかわすものの、バランスを崩し、藪に突っ込んだ。そのすきに周りを囲まれてしまう。

 二十匹はいるだろうか、口々に

「ギャッ!」「ギャッ!」

 と、嬉しそうな声を上げ、勝利を確信した醜いにやけ顔で距離を詰めてくる。

 その時だった、

 ぐぅ、ぎゅるぎゅるぎゅる――――。

 ベンの下腹部に猛烈な痛みが走り、腸がグルグルとのたうち回った。

 ぐぅぅぅ!

 ベンは歯をギリッと鳴らし、下腹部を押さえる。と、同時にポロン! という電子音とともに青いウインドウが開き『×10』と、表示された。

「キタキター!」

 シアンは満面の笑みで叫びながら、ベンの周りをおどけながら逆さまなって飛ぶ。

「これで最後ですよ!」

 ベンは腰の引けた体勢で、脂汗を垂らしながら短剣を構える。

 すると、一匹のゴブリンがこん棒を振り下ろしながら突進してきた。

 ベンは左手で下腹部を押さえつつ、半ば朦朧としながらひらりとこん棒をかわし、カウンターでのど元を切り裂いた。

 さっきとは全然違う洗練された身のこなしに一瞬ひるむゴブリンたち。しかし、魔物の本性として人間は襲わねばならない。

 ゴブリンたちは興奮し、威嚇(いかく)の声を叫びながら一斉にベンに襲いかかる。

 しかし、ステータスが十倍となったベンは、すでに中級冒険者レベルの強さだ。内またながら軽やかな身のこなしでゴブリンの間を()い、まるで舞を舞うように素早く短剣を正確に振るい、のど元を切り裂いていった。

 しかし、ベンも無事ではない。動けば動くほど便意は悪化する。

 ぎゅるぎゅるぎゅ――――。

 くふぅ!

 思わず膝をついてしまうベン。

 ポロン! と鳴って、『×100』と、表示されるがそれどころではない。

 ギリギリと下腹部を締め付ける強烈な直腸の営みに、肛門の突破は時間の問題だった。

「キタキタ――――!」

 シアンは嬉しそうにクルクルッと回る。

「ク、クソ女神! も、漏れる……」

 なんとか歯を食いしばって必死に暴発を押さえようとするが、肛門はもはや限界に達していた。暴発したらスキルは解除、ただのベンに逆戻り。それはそのまま死を意味する。

 その時、子供の頃にじいちゃんに毎朝暗唱させられていた般若心経が、なぜか自然と口をついた。

観自在菩薩(かんじざいぼさつ)行深般若波羅(ぎょうじんはんにゃはら)……」

 仏教の一番基本のお経は独特のイントネーションで、唱えているうちに瞑想状態に近くなり苦痛を和らげる。

羯諦羯諦(ぎゃーてーぎゃーてー)波羅羯諦(はーらーぎゃーてー)!」

 ベンは何とか暴発を食い止めることに成功した。

 はぁ……、はぁ……。

 息荒く肩を揺らすベン。

 ゴブリンは調子悪そうなベンを見て、チャンスと襲いかかってくる。

 ベンはユラリと立ち上ると、短刀をしまい、トロンとした目で迫りくるゴブリンたちを睥睨(へいげい)した。

「ギャ――――!」

 奇声を上げながら飛びかかってくるゴブリンのこん棒をユラリとかわし、顔面にパンチを叩きこむ。パラメーター百倍の人類最強のパンチはゴブリンをまるで豆腐みたいに粉砕した。

 そして内またでピョコピョコっと次のゴブリンのすぐ横に迫ると、今度は裏拳でゴブリンを粉砕する。

 それでもまだゴブリンたちは諦めない。

 ベンは苦痛に顔をゆがめ、ギリッと奥歯を鳴らす。

 五、六匹倒した時だった、

「矢が飛んで来るよー」

 シアンが後ろを指さした。

 ベンは振り返る。すると何かが飛んできていた。無意識に手が動き、ガシッと握る。それは矢だった。奥に弓を構えるゴブリンがいたのだ。

 ベンはギロリとその弓ゴブリンをにらむ。

 シアンがいなかったらやられていた。例えステータス百倍でも、相手が弱くても戦場では『隙を作ったら負けだ』ということを思い知らされる。

 ベンは自分を戒めながら、つかんだ弓を逆にダーツのように投げ、脳天に命中させた。

 最後にまだしつこく襲ってくる残りのゴブリンを処理し、ベンはゴブリンたちを一掃させたのだった。

 しかし、勝利の余韻などない。括約筋がさっきから悲鳴を上げている。もう何秒持つか分からないのだ。

「あー、漏れる漏れる!」

 急いでベルトを外そうとしたとき、シアンが嫌なことを言った。

「待って待って! これからが本番だゾ!」

「ほ、本番!?」

 直後、遠くで嫌な声がした。

「キャ――――! 助けてぇ」

 女の子の声だった。その叫びには鬼気迫るものがあり、ただ事ではない様子である。

 そんなの知るか! それより早く出さないと!

 ぐぅ~、ぎゅるぎゅるぎゅる~。

 腸が過去最高レベルで盛大な音を立てている。運動しすぎたのだ。人のことなど構っていられない。今ここにある脅威、便意こそが解決すべき課題なのだ!

 その時、ポロン! と鳴って、『×1000』と、表示される。

「キタ――――! 千倍! ほら、女の子が待ってるゾ!」

 シアンは嬉しそうに言うが、冗談じゃない。

 ステータス千倍となれば勇者の十倍以上強い。きっと女の子を襲っているトラブルなど瞬時に解決できるに違いない。しかしそれは便意が絶望的にキツいということも意味していた。

「いやぁぁぁ!」

 女の子の悲痛な叫びが森に響き渡る。

「ほら、宇宙最強! 急いで、急いで!」

 シアンは楽しそうにベンの周りを飛びまわりながら言う。

 ベンはギュッと目をつぶり、ギリギリと奥歯を鳴らすと、

「くっ! ブラック女神め!」

 と、悪態をつき、下腹部を押さえながらピョコピョコと駆け出した。脂汗がぽたぽたとたれ、真っ青になりながらも歯を食いしばり、声の方向を目指す。

 このクソ真面目なところが過労死の原因だというのに、転生してもまだ治らない。ベンは朦朧とした意識の中で『ここでの寿命も長くないな』と悟った。










5. 蒼き熾天使

 少し(やぶ)()いでいくと街道があり、そこに倒れた馬車が転がっていた。

 見ると、オークが十匹ほど馬車を囲んでおり、中から綺麗なブロンドをわしづかみにして、女の子を引きずり出している。

「いやぁぁぁ」

 必死に抵抗する女の子の悲痛な叫びが森に響く。

 周りには護衛だったと思われる、鎧をまとった男の遺体が何体か転がり、鮮血が溜まっていた。

 オークはイノシシの魔物。ブタの顔に二本の鋭い牙を生やし、筋骨隆々とした身体ですさまじいパワーを誇る。パンチをまともに食らった冒険者の首がちぎれて飛んだという噂があるくらいだった。

 ベンはフーフーと荒い息をしながら下腹部を押さえ、今にも暴発しそうな便意と戦いながらその様子を眺める。少し急ぎすぎたかもしれない。

「お止めになって!」

 十五歳くらいだろうか、引きずり出された女性は美しい碧眼を涙で濡らしている。そして、薄ピンクのワンピースがオークの手によって荒々しく汚されていった。

 ベンは朦朧とした意識の中、ピョコピョコと飛び出す。

 オーク十匹を相手に戦うなど熟練の冒険者でも無謀だったが、ベンには負けるイメージなどなかった。何しろ宇宙最強なのだ。ただ、暴発だけが心配である。暴発したらただの子供に逆戻りなのだから。

 気が付いたオークが巨大な斧を振りかざし、ブホォォォ! と、叫びながらベンに向けてすさまじい速度で振り下ろす。

 しかし、ベンはそれを当たり前のように指先で受け止め、グンと引っ張って取り上げた。

「ブ、ブホ?」

 渾身の一撃を無効化され斧を奪われたオークは、何があったのか分からない様子で呆然とベンを見つめる。

 ベンはクルクルっと重厚な斧を振り回すと、そのままオークの巨体を一刀両断にした。真っ二つに分かれて地面に転がる豚の魔物。ステータス千倍の戦闘はもはや一方的なただの殺戮(さつりく)だった。

 ただ、力を出せば猛烈な便意が襲いかかってくる。

 くふぅ……、漏れる……。

 ベンはガクッとひざをつき、脂汗を流しながら必死に括約筋に喝を入れた。

 女の子もオークたちも、その異質な殺戮劇に何が起こったのか分からずポカンとしている。ひ弱な少年がオークを瞬殺し、苦しそうにして弱っている。この少年は何なのだろうか?

 漏れる……漏れる……。

 ベンはギュッと目をつぶり、腰の引けた姿勢でただひたすら便意に耐えていた。

「ほら、あと九匹だゾ!」

 シアンはベンの周りをパタパタと楽しそうに飛びながら、無責任に煽る。

 ベンは言い返そうとチラッとシアンを見たが、便意に耐えることで精いっぱいで言葉が出てこなかった。

 弱っているベンを見て、オークは一斉にベンに襲いかかる。

「グォッ!」「グギャ――――!」

 ベンはギリッと奥歯を鳴らすとカッと目を見開き、括約筋に最後の力を振り絞る。

「波羅羯諦《はーらーぎゃーてー》!」

 そう叫ぶとユラリと立ちあがった。そして、巨大な斧をグルングルンと振り回して、あっという間に近づいてくるオークの群れを肉片へと変えていく。

 飛び散るオークの青い血はベンのシャツを、顔を青く染め、まさに鬼神のようにその場を支配する。

 女の子は、その人間離れした鮮やかな殺戮(さつりく)劇を眺めながら、神話の一節をつぶやく。

「その者、(あお)き衣をまとい、森に降り立ち、風のように邪悪をすりつぶす……」

 まだ若い少年が屈強なオークの群れを瞬殺する。それは昔聞いた神話に出てきた、神の眷属(けんぞく)熾天使(セラフ)そのものだった。

 最後のオークをミンチにした時、

 プリッ!

 ベンの太ももに生暖かいものが流れた。

 ぐふぅ!

 もうベンは限界だった。一刻の猶予(ゆうよ)もない。

 ヤバい! ヤバい! 漏れるよぉ……。

 ベンは女の子には見向きもせず、ピョコピョコと一目散に森の奥を目指した。

「あぁっ! お待ちになって!」

 女の子はベンを引き留めようとしたが、その声はベンの耳には届かない。ベンの頭の中は括約筋の制御でいっぱいだったのだ。

「見つけましたわ……、あのお方こそ運命の方なのですね……」

 女の子は手を組み、恍惚(こうこつ)とした表情でベンが消えていった方向を眺める。

 女の子には小さいころから一つの確信があった。自分がピンチの時に白馬に乗った王子様が颯爽(さっそう)とやってきて助け出し、その男性と結ばれるのだと。バカにされるだろうから誰にも言ったことはなかったが、彼女の中ではゆるぎないものとしてその時を待っていたのだ。超人的な力を誇る蒼き熾天使(セラフ)、その衝撃的な救出劇は白馬の王子様を超えるインパクトを持って彼女のハートを貫く。彼女にとってはまさに運命的な出会いだったのだ。

 女の子はいつまでもベンの消えていった森を眺めていた。


         ◇


「ふはぁ……」

 そんな風に思われているなんて知る(よし)もないベンは、森の奥で全てを出し、夢心地の表情で幸せに浸る。

 今まで自分を苦しめてきた便はもうない。さわやかな解放感がベンを包んでいた。

「おつかれちゃん! だいぶ慣れてきたね! もう少しで一万倍だったよ!」

 シアンはベンの苦痛を気にもせずに、嬉しそうにパタパタと羽をはばたかせる。

「慣れとらんわ! こんな糞スキル、もう二度と使わないからな! 絶対!」

 ベンは青筋たてて怒った。

「あー、怖い怖い。次は一万倍、楽しみだよー」

 そう言うとシアンはニヤッと笑いながらすうっと消えていく。

「ちょっと待て! クソ女神! 何が一万倍だ!」

 ベンは悪態をつくが、シアンはもう居なかった。

 深くため息をつくベン。一万倍とはどういうことか。そんな強くなって何をさせるつもりか。ベンはシアンの考えをはかりかね、首を振った。

 見るとズボンが汚れている。頑張って拭いたが臭いは全然落ちない。ちゃんと洗濯しないとダメそうだった。

 仕方なく臭いズボンをはき、ゴブリンの魔石を回収した後、そっと馬車の様子をのぞきに行く。執事のような男性が女の子の手当てをしていた。どうやら執事はオークから逃げて様子を見ていたらしい。

 声くらいかけたくもあったが、こんなウンチ臭いいで立ちで高貴な令嬢の前に出ていくことなど到底できなかった。

 やがて、二人は街の方へと歩き出す。

 ベンは二人が森を抜けるまで見守った後、川の方にズボンを洗いに行った。



         ◇


 ベンはトゥチューラの街に戻ってくる。トゥチューラは大きな湖の湖畔に広がる美しい街で、運河が縦横無尽に通っている風光明媚な王国第二の都市だった。ベンは巨大な城門をくぐり、幌馬車の行きかう石畳の大通りを進み、ゴブリンの魔石を換金しに冒険者ギルドへと足を進める。

 到着すると、カウンターに人だかりができていた。

 何だろうと思いながら背を伸ばし、人垣の間から様子を見ると、なんと、オークに襲われていた女の子がカウンターで受付嬢と何やらやりあっている。

「少年ですわ、少年! オークをバッサバッサとなぎ倒せる少年冒険者、きっといるはずですわ」

「失礼ですが、ベネデッタ様。オークは上級冒険者でも手こずる相手、それをバッサバッサと倒せる少年などおりませんよ」

 エンジ色のジャケットをビシッと着た若い受付嬢は眉を寄せ、申し訳なさそうに返す。

「いたのです! ねぇ、セバスチャン!」

 ベネデッタと呼ばれた女の子は、口をとがらせながら隣の執事に声をかける。

「はい、私もその様子を見ておりました。鬼気迫る身のこなしであっという間にオークを十頭なぎ倒していったのです」

「はぁ……、しかし、そのような少年はうちのギルドには所属しておりません」

 受付嬢は困惑しながら頭を下げる。

 その時だった、ベネデッタは辺りを見回し、ベンと目が合った。

「あっ! いた! いましたわ!」

 ベネデッタはパアッと明るい表情を見せると、人垣を押しのけ、ベンの元へと飛んでくる。

「あなたよあなた! 私、お礼をしてなかったですわ!」

 透き通るような美しい肌に整った目鼻立ち、まるで女神のような美貌(びぼう)のベネデッタは満面に笑みを浮かべてベンの手を取った。