修学旅行のしおりで場所を確認しながら、バスが停めてある近くの駐車場まで宇佐美を連れて行った。
 道中、足がもつれて思わず転びかけてしまう。その拍子に治りかけの右足をついてしまったせいで、瞬時に痛みが足首から脳の方へと昇って行った。
「工藤⁉」
 宇佐美は目が悪いから、見えているはずがない。だから強がって「大丈夫だって。左足で受け身取ったから」と、嘘を吐いた。それから、足を少しだけ引きずりながら、なんとかしてバスまで辿り着き、そばでタバコを吸っていた運転手に事情を説明してドアを開けてもらった。
 宇佐美の席に置いてあるカバンを代わりに開けて、赤色の眼鏡ケースを取り出す。手渡すと、中の黒いふち眼鏡をすぐに掛けた。
「やっぱり、似合ってるじゃん」
「……馬鹿」
宇佐美は視界が良好になった途端、カバンの中を漁り始めた。取り出したのは、市販の湿布と包帯。
「だから、大丈夫だって」
「隣にいるんだもん。足引きずってたのぐらい、普通にわかるから」
 目が見えないくせに、察していたらしい。とんだ恥をかいてしまった。宇佐美はあの日と同じように、俺を座席に座らせて足に湿布を貼ってくれる。散々歩いて汚い足に、手を添えて。
「……私、最低だよね」
 湿布の上に包帯を巻きながら、呟く。
「何が?」
「あんたのこと、いじめてたから」
「今はもう反省してるんだろ? それなら、それでいいじゃん」
「それでも、ちゃんと謝っておくべきだった……そうじゃなきゃ、都合が良すぎるもん……」
「都合がいいなんて、そんなこと思わないよ。誰だって、間違えることはあるんだから。気付いた時に素直に反省できれば、それでいいんだよ。なんでそんな自分は悪いって、意地を張るんだよ」
 少しだけ言い合いのようになってしまって、思わずといったように宇佐美は涙を溜めた。いたたまれなくなって、彼女の肩に手のひらを乗せる。
「……もしかして、なんかあった? 最近の宇佐美、ちょっとおかしいよ」
「……ごめん」
 以前までの宇佐美は、こんな風に素直に謝るような奴じゃなかった。俺なんかに、涙を見せる奴でもなかった。今は怯えたように、足元からこちらを見上げてくる。
「……私、考えたこともなかったの。いじめた相手にも、優しいパパやママがいるんだって……ううん、考えないふりしてた……」
 もしかすると、保健室で父親と会った時のことを言っているのだろうか。
「あの時から、ずっとそんなこと気にしてたのか」
「そんなこと、なんかじゃないよ……」
 言葉にすると、彼女の瞳から一筋涙がこぼれ落ちた。深く思い悩むようなことでもないと思ったけど、考え込んでしまうのは、きっと宇佐美がお父さんとお母さんを愛しているからなんだろう。
「もし私がいじめられたら、きっとパパやママも傷付くもん。工藤のパパに謝らなきゃと思ったけど、怖くて逃げ出したの……あんたは真っすぐ優しい人間に育ったのに、私はまるで逆のことをやってた……誰かを傷付けて、ようやくわかった……人は、決して一人じゃ傷付かないし、誰かを傷付ければ、大切な人の顔にも泥を塗ることになるんだって……」
 その事実に気付けただけでも、彼女は偉いと思った。本当にどうしようもない奴は、人を傷付けても痛みを感じたりしないし、いつかはなかったことにして忘れてしまうだろうから。
 だけど宇佐美は、都合の悪いことだと切り捨てたりはしなかった。等身大の自分の感性で、どこが間違っていて、何がいけなかったのかを自問自答した。だから、本当にもういいんじゃないかと思ってしまう。
けれども罰してくれないと気が済まないのか「気にしないで」と言っても、納得してくれない。どうして言葉にしているのに、伝わらないんだろう。微かな苛立ちを自分に対して覚えた時に、俺が嘘を吐いているからだと理解した。他の誰でもない俺自身が嘘を吐いているから、宇佐美はずっと勘違いをしているんだ。
目の前の少女は、俺のことを工藤春希だと認識している。だからいじめられたことを謝りたいと思うんだ。少し考えれば、わかったはずなのに。
彼女を苦しめているのは、他ならぬ自分だった。
だから、解決方法は一つしか思い浮かばなかった。
「……ごめん」
「……どうして、工藤が謝るの?」
「ずっと、宇佐美に嘘を吐いてたから」
「嘘……?」
「俺、本当は工藤春希じゃないんだよ」
 宇佐美が俺に罪の意識を持たず、一番穏(おん)便(びん)にこの場を収める方法は、これしかない。間違っていたことに気付いて謝罪してくれた相手に対して、俺もこれ以上嘘を吐き続けることはできない。
「……工藤春希じゃない? どういう意味?」
「そのままの意味だよ。ある日目が覚めたら、体が入れ替わってたんだ。こんなこと、信じてくれないかもしれないけど」
「ちょっと待って、ほんと、マジで意味わかんない……」
 意味のわからないことを言ったおかげか、とりあえず宇佐美の涙はぴたりと収まった。
「天音は、ずっと前に信じてくれたんだ。俺が、工藤春希じゃないって」
「天音が……?」
「付き合ってるのも、実は嘘なんだ。春希がこれ以上いじめられないように、気を使ってくれたんだよ。俺が元の体に戻る方法も一緒に考えてくれてて、だから公然と一緒にいられた方がいいから、みんなのことを騙してた」
 開いた口が塞がらないとはまさにこのことで、宇佐美は呆けたような表情で話を聞いている。今の言葉を脳が処理するまで、彼女のことを待った。
「……映画の設定とかじゃないんだよね? ふざけてるとかでも」
「こんな場面でふざけるわけないだろ」
「そっか……」
「信じれない?」
「ううん。でもなんか、腑に落ちたかも。工藤、別人みたいだったし……」
 落ち着いた宇佐美は不器用に笑って「工藤じゃないんだったね」と、自分の発言を訂正した。こんなにもあっさり信じてくれるとは思わなかった。それほど、俺と春希は性格や仕草が違うということなのかもしれない。
「そういうわけだから。宇佐美が俺に謝ることないよ。その謝罪は、春希が戻ってきた時に聞かせてやってくれ」
「だから、私に謝らせたくなかったの?」
「そうだよ。俺、別にいじめられてなかったから」
 それと、泣きそうになっている宇佐美を、見てみぬふりすることができなかった。
「あんたの本当の名前は?」
 素直に話せば、それも聞かれるだろうと思っていた。覚悟はしていたから、うろたえたりはしなかった。
「杉浦鳴海。それが、俺の名前。といっても、ほとんど記憶は忘れてるんだけど」
「鳴海……?」
「覚えてるだろ? 病院のこと」
 どんな反応を見せるのか、楽しみではあった。久しぶりと、笑ってくれるのをどこかで期待していた。けれど実際に見せた表情は、俺が予想していたどれにも当てはまらなくて、宇佐美は固まったまま、顔を真っ赤に染め上げていた。
「え、鳴海くん……? ということは春希って、もしかして本当に工藤だったの……?」
「今さら気付いたのかよ。鈍い奴だな」
「だってそんなの、わかるわけないじゃん……小学生の時だよ?」
「眼鏡のことはちゃんと覚えてただろ。春希が勧めてくれた奴。まあ、俺も宇佐美を思い出したのは、つい最近なんだけど」
 小顔の宇佐美にしては少し大きすぎるふち眼鏡のフレームに、優しく人差し指で触れる。彼女の体が、びくりと震えた。
「……ほとんど記憶を忘れてるって、どういう意味?」
「言葉通りの意味だよ。杉浦鳴海としての記憶が、なくなってたんだ」
「そんな……」
「でも昔、春希と友達だったことは思い出したから。なんで入れ替わったのかまでは、わからないけど。でも天音は、そのうち元に戻るんじゃないかなって言ってる」
「……それじゃあ、工藤は今どこにいるの?」
「それがわかったら、少しは解決に向かうのかもしれないな。見当もつかないから、探しに行けないんだよ」
 話せば話すほど、どうしようもない八方塞がりの現状に呆れてくる。
「とにかく、今話したことは他の誰にも言わないで欲しい。忘れてくれても構わないから」
「忘れられないよ……」
「それじゃあ、今まで通りに接してくれ。ごめんな、こんなこと話して」
「……どうして、私なんかにそんな大事なことを話してくれたの?」
「宇佐美のこと、信用してるからだよ」
 嘘偽りない本心だった。最初こそ印象は最悪だったけど、本当は素直でいい奴だってことが、だんだんとわかってきた。何度も宇佐美と会話をして、この目で見てきたんだから間違いはないと思った。
「……でも私、工藤がいじめられるきっかけを作ったんだよ。橋本にふられて、そんな時にたまたま工藤に慰められて……あいつには、たぶん百パーセントの善意しかなかったのに。私は捻くれてたから、当てつけみたいに友達にあることないこと話しちゃって……やっぱり私、最低だ……」
「そう感じるなら、春希が戻ってきた時にごめんって言ってやれ。それでさ、姫森が言ったように、今から誤解を解く努力をしなよ。間違えたら、そこで終わりってわけじゃないんだからさ」
「……今からでも、やり直せるのかな」
「ああ。そのためには、宇佐美が思う正しいことをやればいいんだ。そうしていれば、きっと周りや工藤にも宇佐美なりの誠意が伝わるよ」
「……わかった」
 曖昧じゃなく、確かな意思を持って頷いてくれた。それに安心して、俺も少しだけ肩の荷が下りたような気がした。
 眼鏡を掛け直した宇佐美と、もう一度みんなのところへ戻る。その途中で「鳴海くんにも、謝っとかなきゃ」と、思い出したように言った。
「なんで?」
「私、君にも酷いことたくさんしたから。上履きだって、なくなって困ってたでしょ?」
「あぁ、あれ宇佐美がやったのか」
「みんなの悪ノリに乗せられて……っていうのは言い訳だよね。だって周りには友達がいたけど、結局は私が下駄箱から取っていってゴミ箱に捨てたんだもん。ほんと、馬鹿だ。調子乗ってた。死ねって、何回も言っちゃってたし……」
「やったことを全部いちいち振り返っても仕方ないよ。反省するなら何やってもいいってわけじゃないけど、後先考えて行動することを今後の課題にしたらいいんじゃない?」
「……そうする」
 それから宇佐美はぽつりと「天音は、たぶん気付いてたんだよね……」と話した。たぶん、俺もそう思う。あの時、遅れて教室へやってきた彼女は、今思えば明らかに怒っていた。
 初めから、全部知っていたんだろうか。振り返ってみれば、橋本が二年の終わりに告白されたという話も最初は天音の口から聞いたけど、あまりいい話じゃないからと言って詳細は明かさなかった。宇佐美が告白したと明かしてもいいはずなのに。クラスメイトの、ほとんど全員が知っていることなんだから。
 それでも何も知らない俺にあえて教えなかったのは、宇佐美をかばいたかったからだろうか。先ほど宇佐美は上履きをゴミ箱に捨てたと言ったけど、それも思い返してみれば、あの時は落ちてたよと説明していた。
天音はもしかすると、宇佐美が性根の部分までは曲がっていないことを知っていたのかもしれない。もしくは、信じていたのか。
「天音と話してると全部見透かされてるみたいに思えて、ちょっと怖い」
「それは俺もたまに思うけど、天音の良いところなんだよ。正直、かっこいい」
「誰かの助けなんて、いらないのかな」
 そんなことはない。天音は自分という存在をわきまえていて、同世代の誰よりも自己を確立している。けれど、そのせいでかえってすべてを抱え込む悪(あく)癖(へき)がある。そういう意味ではとても不器用な、普通の女の子だ。
 川辺へ戻ると、ラフティングの終わった生徒が徐々に集まり始めていた。天音たちの元へ向かうと、既に橋本の姿は見えなかった。
「自分のグループに戻ったの?」
「うん。工藤と真帆がいなくなった後、天音がキレて追い返した」
「ちょっと風香、キレたって言い方は語(ご)弊(へい)があるからやめてよ。次、春希くんに噛みついてきたら絶交するよって釘を刺しただけなのに」
「めちゃくちゃキレてるじゃん」
 思わず突っ込むと、不満げに頬を膨らませてくる。
「お、ていうか宇佐美の奴、眼鏡似合ってんじゃん。偏差値十くらい上がったような気がするぜ」
「それ、普通に馬鹿にしてるでしょ」
 と言いつつも、似合っていると言われてどこか嬉しそうだった。
「真帆」
 姫森が宇佐美の名前を呼んだ。先ほど、場を収めるためとはいえ、思っていることをストレートにぶつけた後だったから、メンバーの間に不穏な空気が流れる。仲(ちゅう)裁(さい)した方がいいのだろうか。口を開こうとした途端、天音と目が合って制止させられた。大ごとにはならないと、確信している表情をしていた。
「私が言ったこと、間違ってるとは思ってないからね」
「……うん。ありがと、ハッキリ言ってくれて」
「それでさ、私も自分が間違ってたって思う。人のことを言えるような立場じゃなかったから、ごめんなさい」
 筋は通すと言わんばかりに、姫森はこちらにも頭を下げてきた。
「全部勘違いだったって、宇佐美に聞いたから」
 それが姫森の立てた、この場を収めるシナリオのはずだった。
「違う。勘違いじゃないよ」
 けれど宇佐美が、そのシナリオを壊した。天音がほんの少し、目を見張ったのがわかった。
「私が子どもだったから。慰められた時に腹が立って、イライラをぶつけたかったの。最初にいじめを始めたのも、上履きを捨てたのも全部、私」
「それでいいの?」
 天音が短く訊ねる。そんなことを流(る)布(ふ)してしまえば、今度は宇佐美がいじめの標的にされてしまうかもしれない。それを案じているんだろう。
 けれど覚悟の決まっていた宇佐美は「それが本当のことだから」と答えた。もう、嘘は吐きたくないという目をしていた。
「私、とりあえず橋本に全部説明してくるね」
それから止める間もなく、彼女は橋本を見つけて走っていった。
「なんだか、さっぱりしてたね。春希くんが慰めてあげたんだ」
「別に、何もしてないよ。ただ思ってることを素直に言っただけ」
「そっか。でも本当にいいのかな? 今度は真帆がいじめられるかもしれないけど」
「そんなことになったら、俺たちが宇佐美のいいところを、みんなにわかってもらえるように説明すればいい、だろ?」
 いつだったか誰かさんに言われた行き当たりばったりすぎるセリフを吐くと、意表を突かれたのか目を丸くして「それは行き当たりばったりすぎ」と嬉しそうに返してくれた。
「あ、殴った」
 なんだかんだ心配だったのか、宇佐美の方を観察していた姫森が物騒な発言をする。俺がそちらに目を向けた頃には、既に彼女は怒り足でこちらへ戻ってくるところだった。
「真帆、思い切ったね」
 楽しそうに姫森が言う。
「だって、むかついたんだもん」
「なんて言われたの?」
「俺に振られたから、落としやすい工藤に鞍替えか、って。さすがに、手のひらで叩いちゃった」
「うわ、それは冷めるね」
「一応好きだったんだから、悪く言うのはやめてね。私も、振られたからって酷いこと言いたくないし」
「真帆は、なんで康平のこと好きになったの?」
 単純に疑問だったのか、天音が腕を組みながら訊ねた。
バスケで活躍している姿を見てとてもうっとりしていたから、さぞ高尚な理由があるんだろうと俺も予想していたけど、宇佐美が答えたのはたった漢字一文字で「顔」だった。想像はしていたのか、納得したように「イケメンだもんねー」と苦笑いを浮かべつつも天音が同意する。すると、明坂が。
「マジかよ、世の中やっぱり顔かよ……」
「私は外見だけで選ばなかったけど」
 天音が意味ありげにこちらを見つめてきたから、なんとなく顔をそらした。
「外見より、内面が大事なんだって学んだよ。私的には、前向きな失恋だったかな」
「良かったんじゃない? 前向きならそれで」
「ごめんね、たくさん迷惑掛けて」
 そんな話をしていると、最後のグループがラフティングから戻ってきた。これからまたバスに乗り込んで、今度は今日宿泊するための旅館へと向かう。初日だというのに、最終日のような疲れ具合だった。残りの二日間、体力が持つか不安だ。
 せめて、先ほどのような事件はもう起きないでくれと思いながら、今日の最終目的地へ向かうためのバスに乗った。