心臓移植をしてから、健康になったという他にも、僕の身体は些細な変化を遂げていた。味覚なんかは特に顕著で、見るだけで胸焼けしそうな程苦手だった甘い物を好むようになったし、あの日ピアノの音に惹かれたのと同じように、音楽の趣味も変わっていた。
他にも細かく挙げるときりがないが、移植する前と後では、明らかに僕という個が揺らいでいるのを感じる。これらは科学的には証明されていないものの、臓器移植をすると稀に起こることがあるという、元の持ち主であるドナーの記憶や嗜好が反映される『記憶転移』というものらしい。
そして気付いてしまった。彼女への心臓の異常なまでの反応も、ふとした瞬間の仕草や表情にデジャブを感じるのも、きっと心臓の記憶なのだ。
この恋は、僕のものじゃない。心臓に刻まれた錯覚に過ぎない。
けれどそう思うと、とても苦しくて、胸が張り裂けそうだった。いっそ裂けてくれれば、再び心臓を取り出して、彼女への恋心を確かめられるのにと感じてしまう。
「音彩……」
「どうかした? 叶くん」
「……ううん、何でもない」
繋いだ彼女の手から伝う温もりに、やはり意思とは関係なしに、鼓動は大きく跳ねるのだった。
*****
この恋心が僕のものなのか、心臓の記憶に依存したものなのかわからぬまま、月日は過ぎた。
相変わらず彼女の奏でる音色を心地好く感じるし、ふとした瞬間に鼓動が跳ねることもしょっちゅうだ。最初こそこれが本当に自分の感情なのか戸惑ったものの、いつしか分けて考えることも減り、気にならなくなっていった。
それでも一度だけ、彼女に心臓の前の持ち主の心当たりは無いかと尋ねたことがある。
基本移植された側は、ドナーについて知る権利を持たない。けれど心臓の持ち主が彼女に恋していたのなら、彼女の恋人なり近しい人物だったに違いない。
僕の命の恩人でもあり、今では僕の一部でもあるのだから、悪い感情は持ちたくない。それでも、ほんの少しの嫉妬と好奇心は拭えなかったのだ。
「うーん、心当たりはないかな……身近にここ数年で亡くなった人も居ないし」
「そっか……」
彼女の身近に不幸がなかった。それは喜ばしいことなのに、何と無くもやもやは消えなかった。
彼女が知らないのなら、この心臓は、一体誰のものなのだろう。結局手掛かりは潰えて、いつしか答え探しをすることも諦めた。
僕は今生きていて、目の前の彼女を、他でもない僕が愛している。その事実だけで良い。そう、思うことにした。
そして僕達は交際を続け、来月から一緒に住むことになった。
*****
それは、彼女の家で引っ越しのための荷造りを手伝っている時だった。僕が棚の上段部や押し入れから出して来た物を、彼女が仕分けして段ボール箱に詰める。そんな作業中、不意に彼女が悲鳴を上げたのだ。
「音彩!? どうし……、……これは?」
虫でも出たのかと慌てて彼女の元に駆け寄ると、床には先程押し入れの奥から出した埃の積もっていた小箱と、その中に入っていたのであろう手紙や写真が散らばっていた。
いつもの朗らかな表情は一気に血の気が引き、床に広がるそれらを凝視する瞳には涙が滲み、身体は小さく震えていた。ただごとではない雰囲気に、僕は恐る恐る近くの手紙を拾い上げる。
『音色へ』
そう書かれた手紙を良く見ると、それはコピーされた物だった。ねいろ、という名前の字を響きだけで間違えていたり、独特な字の歪みは、どう見ても彼女の筆跡ではない。
便箋何枚分もの分厚いものから、紙の切れ端にメモしたようなものまで。その全てに彼女への愛が綴られていた。一瞬、熱烈なラブレターかと思ったが、隣に落ちていた明らかに盗撮と思われる写真の数々に、心臓が跳ねる。
「これって、まさか、ストーカーとかいう……?」
「……っ」
彼女は怯えたように肩を震わせ、もうあまり目立たなくなった右手の切り傷に触れる。その仕草を見て、嫌な予感に心臓が更に速くなった。
出会ってからの音彩は、笑顔の似合う前向きな女性だった。そんな彼女に、手首の傷は似合わない。僕自身、手術の傷はあちこちにあるし、彼女の傷よりもっと深い。だから音彩に一生残る傷痕があったとしても気にならないが、他人につけられたものなら話は別だ。彼女の心の傷の方が心配だった。
もう二度と自傷なんてしなくて済むように、傍でずっと守っていこうと思っていた。その為に、辛い傷には触れまいと、敢えてその話題は出さずにいた。
けれど、前提から違ったのだ。自傷するにしても、刃物を持つ以上、敢えて利き手を選んで切ることは早々ないのではないか。
「もしかして、その傷は……ストーカーに……?」
「……っ、これ、叶くんに会う、二年くらい前に……知らない男が、入ってきて……」
もう何年も前のことを、鮮明に思い出したようだ。泣きながら震える音彩を、宥めるように抱き締める。
ストーカー被害については、元から警察に相談していたがあまり真剣に取り合ってくれなかったそうだ。手紙や電話、つきまとい。日に日にエスカレートして、ついには彼女の家に押し入り危害を加えた。
実害が出て初めて警察は動いてくれ、そのストーカーは捕まったらしいが、男は彼女の心と身体を傷付けただけでなく、彼女のピアニストの夢を奪ったのだ。たかが数年の刑期で償いきれるものではない。
「もう、そいつは釈放されてるの……でも、あれから接触もないし、忘れようって……警察に提出した証拠のコピーも、押し入れの奥にしまって……全部、なかったことにしようって、私……」
「大丈夫……大丈夫だよ、音彩。君のことは、僕が守るから」
「叶くん……ありがとう」
この鼓動の高鳴りは、愛する彼女を害されたことによる怒りだ。そうに決まっている。
なのに、どうして僕の顔は、こんなにも笑みを浮かべるのだろう。
腕の中の彼女に見えていなくて良かった。鏡に映った僕の顔は、知らない人みたいに歪な笑みを象っている。
こんな時に頼られて嬉しいのか、いつも元気な彼女の弱さを知れて安心したのか……それとも、覚えていてくれて嬉しいだとか、思っているのだろうか。
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