初めて訪ねて来た日に彼女が望んでいたのは、このことだったのだ。
『落としたい』つまり、相手のことも恋に落としたいということだ。意味はようやく理解したが、私の心はそれに追い付かない。

 もやもや、どろどろ、ぐちゃぐちゃ。
 どんな材料や薬品を混ぜ込んでも、こんな禍々しくはならないだろうというくらい、痛くて苦しくて気持ち悪い、叫びたいような、蹲っていたいような、どうしようもない感覚。

 けれどそんな私とは対照的に、姫は変わらずきらきらと輝く笑みで歌うように語る。
 船上の王子様。海から救った愛。私と会うよりも多く、夜毎に海上で奏でる恋の歌。

 嗚呼、やはり彼女とは、住む世界が違うのだ。
 愛というものは、彼女が語るように美しくはない。甘くもなければ輝いてもいない。
 だって、今私の感じるこの感情はひたすら苦く、こんなにもどす黒いのだから。

「ねえ、彼は海の中へは来られないの。なら、私が陸へと行くしかないんだけど……どうしたらいいかしら」
「……人間の足をあげる」
「本当に!?」
「……けれどその代わり、あなたのその美しい声をちょうだい?」
「声を……? わかったわ。それで、あの人に近付けるのなら」

 歌うことが好きだった彼女。皆から愛されていた歌声。私が彼女を知った初めての切っ掛け。彼女も大切にしていたはずのその声を、彼女はあっさりと手放した。

 絶望にも失望にも似た感情。けれど彼女はただ期待を胸に、私の作った魔法の薬を飲み、美しい声と、慣れない足の痛みと引き換えに、海を捨て陸へと上がる。

 尾びれを足に変える魔法。
 珊瑚の粉末と、人魚の鱗、イルカの血と、魚の目玉、人間の髪と、その他諸々。
 最後の呪いに、魔女の涙。
 小瓶に詰めた苦い愛。

「ただし気を付けて、この薬の副作用……王子と結ばれなくては、あなたは海の泡となるでしょう」

 そんな副作用あるわけがない。魔法という名の呪いの代償。それでも彼女は、去ってしまった。

 再び訪れた孤独。暗い森の静寂。空いた薬の小瓶に残された声は、確かに彼女のものなのに、心のないそれはただの音だった。

 それでも、私はこうすることでようやく、私だけの彼女を手に入れた。


*****


 満たされない無色の日々が、一体どれだけ経っただろう。彼女に出会う前の静寂を、私はどのように耐えていたのか。ずっと過ごして来たはずなのに、もう思い出せない。

 ある日、彼女の姉達がやって来た。てっきり大切な末妹を唆した魔女を弾圧しに来たのかと思ったが、逆だった。

 彼女が愛した王子様が、他国の姫と婚約をしたのだという。すべてを捨てて彼の元へと行った彼女は、選ばれなかった。このままでは泡となり消えてしまう彼女を、どうにか助けて欲しいと言うのだ。

 私が、彼女を助ける。甘美な響きに、私は嬉々として姉達に短剣を手渡す。

「……これで姫が王子を刺せば、姫は人魚に戻り、命は助かるでしょう」

 優しい彼女のことだ、きっと急所を刺して殺すことは出来ないだろう。だから私は、愛しい彼女を奪った恨みと、彼女を選ばないでくれた感謝から、少しでも剣先が食い込めば死ねる呪いをかけてあげた。

 姫からは薬の対価に声を貰ったのに、姉達から何も貰わない訳にはいかなかったので、その長い髪を貰うことにした。彼女以外の人魚に興味は無かったが、人魚の身体はどの部位も良い薬になる。
 何れも手入れされた自慢の髪なのだろう、色とりどりで美しかったけれど、あの日初めて見た光を纏う彼女の髪には劣るように感じた。

 彼女の姉達が、呪いと願いの籠った短剣を持って、海の上へと向かう。
 王子が死んで、彼女が帰ってきたら、私は声を返してあげよう。そしてまた、彼女に歌って貰うのだ。

 会いに来てくれたら、まずどんな話をしよう。彼女も叶わぬ愛の苦しみを知ってくれただろうか。同じ気持ちを共有出来たなら、今度こそ同じ世界に居られるはずだ。

 こんなにも高揚した気分は久しぶりだった。その夜私は眠ることが出来ずに、彼女を想い、その帰還を待ちわびた。 


*****


 やがて朝日が昇り、波間を通った光がゆらゆらと海を明るく照らす。私は彼女を出迎えようと、随分と久しぶりに家の外へと出た。

 森を抜けると外は明るく、差し込む光は彼女の髪色に似ていた。
 透き通る海の色も、彼女の瞳に似ている。
 海底から見上げる波間の煌めきは、彼女の鱗に似ていた。
 海水は日の出と共に徐々に温かくなって来て、彼女の温もりに似ていた。
 ふわふわ漂う丸く白い泡は、掴み所のない彼女の心に似ていた。
 少しでも早く、彼女に会いたかった。


*****


 彼女が泡となり消えてしまったと知ったのは、彼女の姉達が海の底で短剣を見付け、私の元へ返しに来た時だった。
 短剣を受け取り、彼女達を見送って、現実味のなさに呆然とする。
 遠くの方で、王子の結婚を祝う花火が上がる音がする。その相手は、彼女ではない。私は彼女達のように、泣くことが出来なかった。

「……泡になって、消えてしまったの?」

 彼女はもう何処にも居ない? 海の中にも、陸の上にも、彼女は存在しない?
 ……否、泡となったなら、この海自体が、彼女だと言えるのではないだろうか。
 今朝感じた海の美しさは、すべて彼女が還ったからではないだろうか。不意に浮かんだ素敵な考えに、私は思わず口許を緩める。

「……おかえり、私の人魚姫」

 私は早速、薬の調合を始めた。
 今度の薬の材料は、死んだ真珠と、貝殻少し、生きたヒトデの先端と、願いを込めた人魚の髪と、美しい人魚の声、それから壊れた恋心。
 最後に魔女の血と涙を混ぜて。ほら、出来た。
 私は返して貰った短剣で自らを貫き、血を流して薬に混ぜ、飲み干した。

「……ただいま、私達の世界」

 短剣の呪いでじきに私は死んで、薬の効果でこの身体は海の泡となり消える。これでやっと、彼女と同じ世界に居られるのだ。

 もう、誰にも邪魔されない。かつてない満ち足りた気持ち。
 私だけが、彼女を追える幸せ。刺した痛みも、愛の証だ。

 薄れ行く意識と、海に溶ける感覚。響くのは、遠い波の音だけ。人魚の歌は、もう聴こえない。