私が初めて彼女の存在を知ったのは、波音よりも軽やかで、海の底よりも凪いだ、どこか不思議な歌声からだった。

 彼女の歌声は、毎日何処からともなく聴こえてきた。
 ある時は、生まれたての稚魚達に語り聞かせるように穏やかに。
 またある時は、嵐を憂う皆を笑顔にするように元気よく。
 聴く者の心を明るくする楽し気な彼女の歌声は、いつも静かな海全体に響き渡る。それ故に、彼女のことを知らない住民はほとんど居なかった。

 そしてそれは、暗く生い茂る海の森の奥深くに住む私にとっても、例外ではなかった。
 歌声の主である彼女は、この深海の国を統治する人魚の末の姫だ。

 皆を愛し、誰からも慕われ愛される、そんな理想的な美しい姫君。それに引き換え『海の魔女』と呼ばれ、誰も近寄らない不気味な森に住み、皆に恐れられる私。

 同じ海に居るのに、彼女とは住む世界が違った。毎日、遠くから波間を伝い聴こえる彼女の歌声。それだけが、私と彼女を繋ぐ唯一のものだった。

 昨夜は、酷い嵐だった。波は荒れて、雷が鳴り響き、魚達も避難する。そんな不安定な夜にこそ焦がれる彼女の歌声も、荒波に紛れたのか聴こえなかった。
 昨日は折角の、彼女の誕生日パーティーだったのに。……まあ、当然私は招待なんてされなかったけれど。

 人魚の成人は、十五歳。彼女がその日をずっと待ち焦がれていたのは、風の噂で知っていた。そんなめでたい日を、嵐がめちゃくちゃにしてしまうなんて。
 どうにもならない天候にすら怒りを覚える程、会ったこともない、歌声しか知らない彼女のことを考えている自分に、私はひとり驚いた。

 そして嵐の夜を越えて、また穏やかで無機質な一日が始まると思っていた時、すぐに第二の驚きが待ち受けていた。
 深く暗い森の奥、呪われるだの毒ガスがあるだの散々恐れられている魔女の家に、実に数十年ぶりの来客だった。
 響く呼び鈴の音に空耳かと思いつつも、すっかり錆び付いた重い扉を開け、甲高く軋んだ音に思わず眉を寄せる。
 その向こうには、この海の何処よりも暗い場所にも関わらず、翳ることなく眩い光を帯びた、ひとりの少女が居た。

 きらきらと煌めく傷ひとつない鱗。たおやかに翻る尾びれ。真珠の首飾りすら霞む程の白い玉の肌に、海よりも鮮やかな青い瞳。珊瑚の髪飾りよりも美しい、波に揺らめく長い光を纏う金の艶髪。

「あの……こんにちは。あなたが海の魔女さん?」

 その美しい声を聞いた瞬間、彼女があの歌姫だと直ぐに気付いた。


*****


 正直、数十年間誰とも会話をしてこなかっただけでなく、歌声だけで想像していたどんな姿よりも美しい彼女に、私は固まるしか出来なかった。

「えーっと、魔女さん……? 聞こえてます? おーい?」
「……き、聞こえてる……」

 何とか絞り出した声は裏返りかけて、私は恥ずかしさのあまり、真っ黒のフードを目深に被る。魔女のローブにフードがあったことに今初めて感謝した。

「ふふ、良かったぁ。……えっと、中に入ってもいいですか?」
「……え!?」
「えっ、だめ?」
「だ、駄目じゃない、けど……此処は、あなたみたいなひとが来る場所じゃ、ない」

 皆から忌み嫌われる魔女の家に、姫が出入りしているなんて誰かに知られたらどんな事になるか。彼女の名誉のためにも追い返すのが正解なのだろう。
 けれど彼女はそんなのお構いなしに、すいっと流れるような泳ぎで家の中へ入り込む。

「お邪魔しまーす」
「!?」

 流石はこの広い海の王様の、末っ子のお姫様だ。愛され甘やかされ育てられたのだろう。私の制止も聞かず室内に入った彼女は、調合中の見るからに怪しい色味の薬品や、死んだ珊瑚やヒトデで出来たインテリアを怖がるでもなく、のんびりと眺めている。危機感もまるでなく、マイペースにも程がある。

「……何しに、来たの」
「えっと、実は、魔女さんに聞きたいことがあって」
「聞きたいこと……?」

 帰る気配がないので、私は諦め来客用のお茶を入れることにした。誰かをおもてなしするなんていつ以来だろう。しかも相手はあの彼女だ。落ち着かない。お茶を淹れる手が震えた。

 そこら辺で拾って来た鯨の骨で作ったテーブルと椅子、大きな貝殻を使って作ったティーカップ。向かい合わせに座ると、悪趣味と言われそうなそれらも彼女が居ればそれだけで画になった。
 私はぼんやりと見惚れていたが、淹れたてのお茶を一口飲むと、彼女は神妙な面持ちで言葉を紡いだ。

「うん、魔女さんなら知ってる? ……人間の男の落とし方」
「……落とし方。……崖から身投げさせる方法とかそういう?」
「そういう物理的なのじゃなくて!」
「……? 呪いをかけて気落ちさせる……?」
「意識的な部分ってのは惜しいわ……!」
「……絞め落として気絶させる?」
「物騒さが抜けない……!」
「魔女なもので……」

 彼女はうんうん唸りながら、どうしたものかと悩んだ様子だった。いつも美しい旋律を奏でる彼女の唇から、色んな音が出るのが新鮮だ。そして、今彼女の声を聞いているのは自分だけ。優越感にも独占欲にも似た感覚に、つい表情が緩む。

「あ、笑った。……ふふ、魔女さんって、もっと怖い人かと思ってたわ。それに、何十年も何百年も住んでるって言うから、てっきりお婆さんかと……」
「皆には、怖がられてる……誰も此処には近付かないし。……魔女と人魚は、寿命が違うから。私は見た目より、うんと年上」

 彼女が私に向かって微笑み掛けてくる。ただそれだけのことに、酷く鼓動が速まった。

「そうなの? 同じ歳くらいに見えるのに、何だか不思議。……確かにちょっと辺鄙な所にあるけど……とっても静かだし落ち着くのにね?」
「……静かで、落ち着く? ……あなたは、賑やかなのが好きなのかと思ってた」
「あら、どうして?」
「いつも、皆に楽しそうに歌って聴かせているから」
「ふふっ……私の歌、此処まで聴こえるのね」

 私が彼女の歌を聴いていたことがバレてしまった。羞恥から目深に被ったフードを更に深く被り直し、小さく頷く。ローブと同じ黒い髪が視界を覆い、少しだけ落ち着いた。

「……此処は暗くて静かだから、あなたの歌だけが、日々を彩る音」
「……そう、そう言って貰えると嬉しいわ。ありがとう」

 彼女はそれからお茶を飲んで、まるで友達のように他愛のない話をしてから、そろそろ門限だからと帰って行った。
 去り際に「また来るね」と言い残した彼女の声は、今までのどの歌声よりも私の心を揺らした。


*****


 あの日以来、彼女は度々私の元を訪ねてくれるようになった。昼間は皆に変わらず美しい歌を届け、夜になり海が暗くなる頃に、闇に紛れて森に来る。
 彼女とは夜にほんの少しの間言葉を交わすだけだったけれど、永い時をひとりで過ごして来た私にとっては大切な、かけがえのない時間だった。

 日頃この家から出ることもなく、特段話すことのない私は、いつも聞き役に徹した。海での日々の出来事や、姉達と美しい真珠を見つけたこと、新しい歌を覚えたこと、些細でも心揺れたあらゆることを、彼女は嬉々として話してくれた。

「私の話、そんなに真剣に聞いてくれるのは魔女さんだけよ?」
「そう、なの?」
「ええ。皆ちっとも興味ないんだもの。……だから、いつも聞いてくれてありがとう」

 お礼を言うのは私の方だ。彼女の歌声に気付いた日から、私の無色の日々に色がついた。彼女が私の目の前に現れてから、夜の静けさも嫌いじゃなくなった。
 何十年もひとりで居られたのに、彼女が帰ってしまうとすぐに次いつ会えるだろうと考えてしまう。
 彼女が居て初めて、永く止まっていた私の時間は時を刻むのだ。

 そして、何度目かの訪問の際に、意を決したように彼女は語り始めた。
 誕生日を迎えてから海の上に出る許可が出たこと、あの誕生日の嵐の夜にも、危ないからと止められたのに待ちきれず、こっそり海の上を見に行ったこと。

 こっそり、ということは、他の誰にも話していないのだろう。私にだけ、秘密を話してくれる。そもそも此処に来ているのも内緒のはずだ。
 皆に慕われる良い子な姫君の隠し事を、私だけが知っている。その事実が、私の心を酷く満たした。
 しかし、次がれた彼女の言葉に、その満たされた心はまるで硝子がひび割れたように痛み、軋み、そこからどろどろとしたものが滲み出るようだった。

「あのね、私、人間の王子様に恋をしたの」


*****