落下〜無重力に堕ちていく〜

「そう、命綱は、動画に映らない程度に細いモノで、片足にだけ装着して、バンジージャンプするんだ」

「……成程、細いって事は、強度を極限まで落としてある命綱か……ハイリスクハイリターンだな。万が一、命綱が切れて失敗したら、死ぬってことか。ただ、成功すれば、対価として金が貰えるってワケだな。金の出所は?」 

自殺に見せかけて、姿を隠さなきゃならない依頼者とよばれる様な人間が、とても大金を払えるとは思えない。払える金がないなら、本来リスクがあっても、依頼者自身が、飛び降りるのが筋だ。

「工藤は、さすがだね。そう、何かしらの事情でこの世から、おさらばしなきゃならない依頼者を、裏で支援してる、支援者って奴が、いるらしい。依頼者を、死んだことに見せかけるために……。こんな怪しげな事が、行われてる事を俺っち達に知られるリスクを承知の上で、さらには金を渡してでも、飛び降りる映像を撮影したい支援者と、命を落とすリスクがあっても、金が欲しい俺っち達は、利害が一致してるんだよ」

「成程ね」

「工藤は、頭の回転速いよなぁ。俺っち、3回は、里見さんに聞いたのに。なぁ、前、勤めてたの何処だっけ?」

ふいに聞かれた質問に、工藤は目を丸くした。勤めを聞かれたのは久しぶりだ。
「銀行の投資信託の営業だよ、金持ち相手に、いかにメリットの方が、デカいか言葉巧みに誘導して、ハイリスクハイリターンの投資信託を販売して、とにかく銀行に金預けてもらう事に、躍起になってた頃もあったな」

毎日、スーツにネクタイをぶら下げて、得意先周りをしていたのが懐かしい。順調だった営業成績も、不況でうまく成績が伸びなくなって、生活の質は低下していった。工藤は、やがて銀行の金に手を出した。

横領がバレて、解雇されたのは、今から丁度、半年前になる。 

貯金は、3ヶ月で消えた。

前職を辞めた理由をごまかして、再就職を目指したが、世の中そんなに甘くない。15年間の銀行の仕事で得られたモノなんて、人の顔を覚えるのが得意になった位だ。

「報酬はいくら貰える?」 

田辺は、片手を上げると、厭らしく笑った。

(500万か、悪くない)

工藤も唇を持ちあげた。
それから、3日後の夏の終わりに、田辺は、住処にしていた公園から居なくなった。

姿を消してから、暫くは、田辺が、大金を見せびらかせに、また自分の元に現れると思っていたが、公園内のコスモスが、咲き終わっても田辺は、戻ってこなかった。

「……やっぱ、ヤバい仕事だったんじゃねぇのかよ……」

季節は11月だ。肌寒くなり、田辺が、段ボールの住処に残していった、くたびれたジャンパーを羽織って、拾ってきたタバコを蒸しながら、工藤は、曇天の空を眺めていた。

「久しぶり」

聞き覚えのある声に振り返れば、質の良さそうなスーツを身に纏い、上品なネクタイを締め、ピカピカの革靴を履いた、田辺が立っていた。

「田辺?……嘘だろっ!別人みたいじゃねぇか」

工藤が、思わず駆け寄ると、田辺が、すぐに後退りした。

「あ、わりぃ、臭うよな」

「いや、こっちこそ久しぶりに会ったのに、
失礼だよね」

田辺が、ニッと笑えば、犬歯の銀歯が光る。

「いや、それより、例の話聞かせてくれよ」

「あぁ、それを伝えにやって来たんだ」

田辺が、しゃがみ込むのを見て、工藤も少しだけ距離をとってしゃがむ。

田辺のボサボサだった長髪は、短く切り揃えられており、ワックスで整えられている。
「まず、この番号に電話しろよ、電話口の奴の指示に従って、指定された日の夜に、ここから、少し離れた◯△ビルに行くんだ。場所、分かるか?」

(確か、裏通りの先の、寂れた商店街の裏手にある、廃墟ビルだ)

工藤は、手渡された紙を眺めながら、黙って頷いた。

「で、そこに行くと、顔写真を撮られて、他言しないという旨の守秘義務についての誓約書にサインさせられる。あとは、片足に命綱をつけて、バンジージャンプするだけ。撮影が終われば、金が現金で手渡される」

「マジで、それだけで、500万だったのかよ?」 

「あぁ、俺もビックリだよ。次は工藤、お前が生まれ変わる番だな」

田辺が、100円玉を工藤に手渡した。公衆電話から、かける電話代だ。

「この100円玉が、500万に変わるんだな」

気持ちが、昂るのを抑えられない工藤を見ながら、田辺が歯を見せて笑った。

(ん?)

田辺の笑顔を見ながら、どこか一瞬、記憶の糸が、引っ張られる感覚があった。

「工藤、どうかしたか?」

「……いや、なんでもない」

「工藤なら、絶対大丈夫だよ、頑張って」

田辺の笑顔に、工藤は頷きながら、100玉を握りしめた。
ーーーー時刻は、深夜2時。

指定された通りの日時に、工藤は、廃れた◯△ビルの入口をくぐった。

電球は、とっくに切れていて、中に入れば、深淵のごとき暗闇だ。

工藤は、足元を確かめながら、各階ごとにある、階段横の小さな窓から差し込む月明かりだけを頼りに、10階の屋上まで、ゆっくりと登っていく。

「はぁっ……はっ……」

ろくなモノを食べてないせいで、息は、あっという間に上がる。

心臓が、バクバクとうるさい程、音を立て始めた頃に、ようやく無機質な屋上扉にたどり着いた工藤は、ドアノブを、勢いよく捻った。

「ようこそ」

身体がビクンと跳ねた。

目を凝らせば、屋上に出てすぐの扉横に、黒いキャップを被り、不気味な白い仮面を被った、全身黒づくめの小太りの男が立っていた。

声は、ヘリウムガスで、元の声はわからないが、背格好から男だ。

「これにサインを」

工藤は、手渡されたバインダーに挟まれた誓約書に目を通して、サインをすると、男に返した。

「撮りますよ」

アップで、一枚顔写真を撮られる。突然、浴びせられたシャッターの光で、工藤は目の前の暗闇の景色から、真っ白に目が眩んだ。

思わず目を瞑った瞬間に、グイッと男に腕を掴まれて、男は、工藤を引き摺るようにして、屋上の端ギリギリまで連れて行く。
「おいっ、ちょっと待てよっ」 

工藤は、両足を踏ん張るようにして、男に向かって、声を張り上げた。

暗闇を照らす仄かな月明かりで、少しずつ視界が回復していく。

「何だ?誓約書にサインした上、この仕事を知ったからには、全うしてもらわないとな」

男の仮面の目の部分から、わずかに目元が見えそうで、見えない。工藤は、一歩男に歩み寄った。

「やるよ。俺が、此処から、落ちてやればいいんだろ?」

(やっぱ見えないか……)

怪しげな男の目元だけでも、拝んでやろうと思ったが、無理そうだ。

「そうだ、田辺から聞いてるだろう」

「先に金の確認だけしたい」

男は、500万の束をポケットから取り出すと、工藤の目の前に差し出した。

「前払いだ、受け取れ」

ぽいと投げ渡された札束を、工藤は、じっくりと数えてから、ジャンパーのチャック付きの両ポケットに分けて仕舞った。

初めて見る大金に目を奪われていた、工藤の右足には、気づけば、命綱が取り付けられている。

「じゃあ、俺は、屋上扉の前まで下がる。別ビルに設置してある、固定カメラに映り込まないようにな」
工藤は、屋上の手すりを超えると、ギリギリまで足をすすめる。高い所を苦手だと思ったことなど、今まで一度もなかったのに、両足は、小刻みに震えてくる。  

(大丈夫だ、これは、リスクよりもハイリターンの方が大きい案件だ)

工藤は、両手を広げると大きく深呼吸した。

下を見れば、まるで底の見えない漆黒の海みたいだ。

両ポケットの札束の厚みを確認してから、工藤は、深淵の闇の底に向かって、呼吸を止める。

そして、暗い海の底へと身を投げた。

暗闇の無重力の中、身体は、重量で言うことをきかない。僅かに右足首が締まる感覚で命綱がついていることに安堵する。

(あと、どの位落ちたら止まるんだ?)

工藤は、地面に向かって真っ逆さまに落ちていく。
ーーーー『絶対大丈夫だよ』 

ふいに最後に、田辺から笑って言われた言葉を思い出す。

「……あっ……」  

工藤から、小さく漏れ出た声は、もう二度と誰にも届かない。

(しまった!騙された!)

右足首に僅かに絡みついていた命綱が、あっけなく千切れて、工藤の体は、一気に加速して行く。


ーーーー工藤が僅かに感じた田辺への違和感。

工藤が、最後に話した田辺の笑顔には、いつもある筈なのに、無いものが一つだけあった。


ーーーー片側だけ出るエクボ。   



アスファルトが、ようやく見えた瞬間、骨と頭蓋骨が砕け散る音と、内臓が風船のように割れる感覚と共に、工藤の意識は、一瞬で消え失せた。
工藤のジャンパーから、札束を回収し、慣れた手つきで、黒いビニール袋に工藤の遺体を詰めると、白い仮面をようやく外して、里見は、汗を拭った。

「ハイリスクにハイリターンなんて存在しないんだよ。お前らみたいな奴らにはな」

工藤は、銀行勤めをしていたとかで、人の顔を覚えることが得意だった。警戒心も強く、里見は、工藤が、田辺と浜田以外に話をしているのを、見たことがなかった。

一か八かだったが、無事、依頼者に新しい名前と戸籍を、提供できる。

里見の仕事は、至ってシンプルで合理的だ。

様々な事情から罪を犯し、犯罪者と呼ばれている者達の逃亡を支援し、身柄を保護している闇に包まれた団体組織がある。ホームレスという、この世から消えても誰も気づかない存在を消して、犯罪者達に、新しい顔と戸籍を提供する代わりに金を手に入れるのが里見の仕事だ。