【書籍化】雨の神は名づけの巫女を恋ひ求める




するりと額に載っていたものが落ちた。その感覚で目を覚ますと、横になっている新菜の隣で、ミツハが腕を自身の枕にして横になっていた。額から滑り落ちたのはミツハの手だった。ひんやりと気持ちいい手が落ちてしまっていて、残念だと思うのと同時に、ミツハも疲れていたのだと思い至った。

新菜が昨日祓ったあの娘の恨みは、随分とミツハを苦しめていたらしい。神さまであるミツハが転寝をしてしまう程に体力がそがれ、今、体が軽くなって安らかに眠れているのなら、暫くの間そのまま寝かせておいてやりたい。新菜は布団に掛かっていた上掛けをミツハの肩に被せると、再び横になって、じっとミツハの顔を見た。

……こうやって見ると、やはり疲労の色が濃い。明治政府の改革によって天への信心が薄れ、食事もままならない状態だ。それなのに新菜たちの食事を欠かそうとしないから、このままではミツハがやせ衰えてしまう。神……、それも天神が一柱居なくなったら、この世はどうなってしまうのだろうか。いくら文明が発達しても、雨の恵みなしでは人は生きていけない。

ミツハが、居なくなる?

考えた思考は、思ったより深く新菜に刺さった。このやさしい神さまがもし万が一、居なくなってしまったら、地の民は勿論だが、チコや鯉黒はどう思うのだろう。

……そして、自分も。

既に拠り所となってしまったミツハと言う支柱を失ってしまったら、新菜はまた、未来のない生活に身を置かなくてはならなくなるのだろうか。

(怖い)

一度得たものを失うということは、人間を絶望させるものらしい。やさしくしてもらった記憶は新菜の心に根付き、つぼみを膨らませている。

(ミツハさまを、真にお救いしなければ……)

それは新菜がミツハに会って最初に決めたことだったが、より自分に向けて、そう思う。その時ハッと気が付いた。これでは自分の為に、ミツハが居て欲しいと思うようではないか。

(いけない……。こんな考えで巫女なんて出来ないわ……)

宮巫女は神と地の民を繋ぐ役割を担う。その『繋ぎ』であって、神や地の民に私情で何かを求めて良い立場ではない。

(しっかりなさい、新菜。ミツハさまに助けて頂いた、最初の気持ちを忘れては駄目。欲なんて、持ってはいけないのよ)

神と巫女の理を覆してはいけない。決意を新たにしていた時、ミツハがふぅ、と目を開けた。その奥深い蒼の瞳と目が合って、卑しい内心を見透かされたかと思った。
「ミ……、ツハ、さま……」

どきん、どきんと心臓が走る。嫌な汗を、手に握った。一方ミツハは少し寝ぼけた様子で、体調はどうだ、と新菜のことを気遣ってくれた。

「だいぶ頭の痛いのは取れました。ミツハさま、ずっと撫でていてくださって、ありがとうございます」

新菜がそう言うと、手を額に当ててくる。まだ熱があるな、と難しい顔をして体を起こすと、両手を丸く合わせ、その中に輝く果物を作り出した。……神力で作られた林檎だ。新菜たちの毎日の食事はこうやってミツハが作ってくれているのだと知る。

「朝に少し食べただけなのがいけないのかもしれないから、少し食べなさい。切ってあげよう」

そう言って手を刀のように使って、輝く林檎をするりするりと切っていく。そうしてその一つを手に持って、ミツハが新菜に差し出した。

「ほら、口をあいて」

薬湯の時と同じく、食べさせてくれるらしい。恥ずかしいのをこらえて、口をあく。しゃくりと食めば、甘い果汁が口の中に広がり、頬が落ちそうなくらいに美味しい。目を輝かせて、美味しいです、と伝えると、それはそれは嬉しそうにミツハが目を細めた。

「君がこんなことを許してくれるのなら、無理を強いてしまったことも悪くはないな」

幼子にするようにそう出来たことを、口の端を引き上げて喜ぶから、さっきのやましい気持ちが照らされて恥ずかしかった。顔を下げると、ミツハが気遣ってくれる。

「どうした。母親が恋しくなったか」

「え、母ですか? いえ、今は……」

唐突な問いに面食らった新菜の返事に、ミツハは変な顔をした。ん? とでもいう疑問顔だ。

「君は母親のような巫女になりたい一心で、生きてきたのだろう? さっき寝ているときに、君は母親を呼んでいたよ。下界に未練があるのかと思ったが……」

「い、いえ! た、確かに母を尊敬しておりますが、ミツハさまにはかないません。今、私は、母のように舞いたいのではなく、ミツハさまの為に舞いたいのです」

そうだ。ミツハを救い、ミツハの為に舞いたい。

自分の気持ちをしっかり持ってミツハの目を見ると、ミツハは目を瞠った後、ややあって弱い笑みを浮かべた。

「ふ、それは頼もしいな。私もそれを待っているよ」

そう言って頭を撫でてくれる。新菜はミツハの言葉にこくりと頷いた。ミツハが求めるように名を思い出し、舞を舞って、地の世界に雨を降らせること。鈴花が契約できない今、新菜に求められているのは、それが全てだった。




疲労は一日寝て、直ぐに回復した。やはりもともと丈夫なのだろう、今日も朝から庭仕事に着手出来た。本日はまず、陽が昇り切るまでに元気な雑草を蓑三つ分抜いた。それから水やり。剪定の仕方は分からないから鯉黒に任せて、新菜は剪定で切り取った枝葉の処理、と忙しく動いていた。

「いい天気ですね。木が元気に育って」

「天上界(宮奥)はすべての条件がそろっている。木が元気に育つのは当たり前だろう」

普段、淡々と作業をする鯉黒に話し掛けてもつれなく返されてしまうが、以前のように無視されることはなく、相手をしてくれるようになった。それに、天雨家では誰も新菜の言葉に返答してくれなかった。それを思うと、鯉黒はやさしいと思う。そんな些細な喜びを感じていると、宮から出てきたミツハが二人を呼んだ。

「精が出るな。少し休まないか。茶と葛を用意したよ」

ミツハは気の置けない様子で宮の窓にせり出した庇の下に腰かけ、二人を手招きする。傍にはチコが居て、盆をミツハの横に置いたから、用意した茶と葛なんだろうと思う。休憩しましょうか、と声を掛けると、鯉黒は刈込ばさみを地面に置いて、宮の方に歩きだしながらミツハに聞こえるように言った。

「ミツハさま。あまり神力の無駄遣いをされないでください。私は間食などせずとも働けます。十分な食事を頂いておりますのに」

苦言……、だろうか。鯉黒の言葉に、それでもミツハの笑みは絶えない。

「鯉黒、そう言うな。君が根気強く働いてくれたおかげで、私は美しいと思う心を得ることが出来た。君への感謝だと思ってくれ」

「それはこの方が居られたからでしょう。私の手柄ではございませんよ」

やれやれ、とでも言いたそうな鯉黒をミツハは無邪気に褒める。

「いや。お前がここに来てからずいぶん経つぞ。その間、この美しい庭に何の感情も持てなかったことを申し訳なく思っているのだ。私からの礼だと思って食ってくれ」

にこにこにこ、と。

今まで見せてこなかったような、明るい笑み。肩の荷を下ろしたようなその笑みに鯉黒が、変わられたなあ、とぽつりと言った。

そう。ミツハが少し変わった。

新菜の気のせいかと思ったら、鯉黒もそう言うのだから間違いないのだろう。

湖の傍で会った時のような、新菜に対する必死さが和らいでいる気がする。何故、新菜を嫁に迎えたいなどと思うのかはまだ分からないが、新菜が宮奥に慣れてきたからだろうか。下界へ行っても、ナキサワの手は借りたが、ちゃんと宮奥に戻ってきたことで、ミツハは新菜が宮奥で生きていくことを決めた、と理解したのかもしれない。

湖の傍でした会話を思い出す。新菜に恋をしたのだと、ミツハは言ったが、今日までミツハと共に過ごしてきて、ミツハの言う『恋』については分からないままだ。

そもそも天雨家の使用人たちが頬を染めて語っていた『恋』とは、相手にかなり傾倒し、心の余念が奪われているような状態で、ミツハの理屈、つまり『命を新たに与えた相手が清き心の持ち主だった』から新菜に恋した、というのはちょっと外れていると思う。今までの接し方だって、言葉の上では恋だったが、態度はどちらかというと『庇護』だった。
そう。庇護だ。

ミツハの新菜に対する態度はまさしく庇護だ。天雨家から贄として差し出された娘を、延命の恩があるからと言って拾った、まさしくそれだ。新菜は自分のミツハに対する考察にやっと納得がいく。

(じゃあ、ミツハさまは庇護の感情を恋だと言い張って、私をどうしたいのかしら……)

神さまの慈愛を考えれば庇護も恋なのかもしれないが、人間の新菜には少し受け入れがたい。新菜にも湖で死ななければならなかったところを救ってもらった恩があるから強くは主張できないが、今まで地の民に顧みられなかった時間が長すぎて、ちょっと自分に有利に働いてもらったから、その反動の感情を勘違いしているのではないか、と思ってしまう。

だって今だって。

宮に戻って来る新菜を見て頬を染めたりしない。思えばミツハが赤くなったところを見たことがない。天雨家の使用人たちは恋焦がれる相手のことを懸想するだけで頬を染めていたから、やっぱりミツハは感情を勘違いしているのだろう。

大体、新菜は見目も悪いし、何と言っても痩せぎすで、女としてというより人間としてまず肉が付いていない。そんな成りの女を、この見目麗しい、地の民のことならすべからく知っている神さまが好くわけがないのだ。

それでもここ以外の何処にも行き場のない新菜にとって、ミツハの感情がどうであろうと、ミツハが求めるように嫁になるしかないのだろうな、と思う。

(なにを、求められているのだろう……)

ミツハの思いが恋情でないなら、何故新菜を花嫁に求めるのだろう。清き心で巫女姫として契約するなら、巫女姫であればいいだけのことだ。花嫁にするまでのことがあるだろうか? 事実母は、お声を賜ったのだから巫女姫であったけど、花嫁にはなっていない。何がミツハに、新菜を花嫁にしたいと思わせているのか、それが不思議だった。

(花嫁にならないと出来ないことが、何かあるのかしら……)

疑問を抱えたまま宮に戻り、みなで庇の下でくつろぐ。のんびりとした様子のミツハを見て、新菜も取り敢えず疑問は横に置くしかなかった。冷えてますからどうぞ、と茶と葛の盆を差し出すチコに礼を言って、湯呑を取る。朗らかな日差しの中の作業だったが、なにぶん広さが天雨家の比ではなかったので、時間もかかり、冷えた茶が体に心地よかった。

それに神力で作られた飲食物は、以前食べていたものよりも勿論美味しいし体に染みる感じが心地いいが、摂取するとその場で力が湧くのが分かる。これも神さまの力故なのだろうか。

「ミツハさまの出してくださる食べ物は不思議ですね。ふつふつと力が湧きます」

新菜がそう言うと、ミツハは目を細めて、そうかと笑みを深くした。

「私から作られるものだ。それを食して新菜が元気になるのなら良かった」

この語らいだって、母が生きていた頃までの家族の会話だ。恋、とは違うのではないかな、とやはり思ってしまう。

「だからと言って、無駄遣いはどうかと。食事は三食あれば間に合います。今は地の民からの祈りが少のうございます。無駄なご使用は切にお控えください」

鯉黒の忠告だ。ミツハは手痛いな、と笑っている。でも鯉黒の言うことが事実なら、本当に無駄遣いは止めて欲しい。新菜も食事だけで力が湧くし。

茶と共に葛も食べきってしまうと、新菜はミツハに尋ねた。
「ミツハさま。私が巫女と認められるためには、ミツハさまのお名前を思い出さなければならないと思います。思い出す努力するための、何か手がかりを頂けませんか? 例えば以前お会いしたという場所の情景などを教えて頂いたら、思い出すきっかけになるかもしれないと思うのです」

ミツハは新菜の言葉にぴくりと反応し、そしてなるほどとうなずいた。

「では、出掛けよう。以前の私が見た情景を以前の私の記憶を思い出して伝えても、それは事実にしかならないだろう。君が見た情景とは違うだろうからね。君がその場に行って、実際に感じた方が良い」

チコと鯉黒に、出掛けてくる、と言って、ミツハは新菜を宮奥から連れ出した。

ミツハは新菜を抱き上げると、ふわりと雲の上から下界に降り立った。新菜の手を握った手に力がこもっているので期待されているのだろうかと思うと、より早く記憶を手繰らなければと決意する。

ミツハが降り立った場所は、新菜が身を投げようとした、あの湖だった。湖に掛かる森の緑は濃く、鳥のさえずり以外何も聞こえない。上空を見上げると木漏れ日が射しており、湖の湖面をきらきらと輝かせていた。

湖のきらめきとは反して、やはり祠は古ぼけている。木漏れ日が射していても、苔むした様子が祈る人の通わなくなった寂しさを表している。

脳膜に映る景色として、穏やかできれいで、少し寂しい景色だ……。しかし新菜の脳裏には身を投げるときに微かに目にした記憶以外、なにも浮かんでこなかった。

しんと静まり返った湖の傍でミツハが祠を見つめる。どこか厳しい目つきをしていた。

「……君はあの時も私を慰めてくれた……。この傍で、あのうたを唄ってくれたよ」

あのうた。……ひふみうたのことだろうか。同じうたを唄ったから、あの時湖から飛び出てきたんだろうか。

「では、もう一度唄ってみたら、思い出すかもしれませんね」

「ああ、そうだな。追体験、というやつか」

では聞こう、と言って、ミツハは祠の横に座った。新菜は祠を前に息を吸う。朗々と唄うのは、自然への信仰のうた。



ひふみ 
よいむなや 
こともちろらね
しきる
ゆゐつわぬ 
そをたはくめか
うおえ
にさりへて 
のます
あせゑほれけ



最後の音まで吐ききってしまうと、新菜はミツハの居る祠の景色を見た。

ミツハは追体験、と言ったが、遠い過去を追ったような感覚はなく、思い出されるのは身を投げるときのことばかりだ。

「……私がうたを唄った後、私とミツハさまは何か会話をしましたか?」

「君は私が姿を現してないのに、誰か、と問うたよ」

「現わしてないのに……?」

「感じ取る力があったのだろうな。君は巫の血を受け継いでいるから、そういうことがあってもおかしくない」

ミツハは言葉を続けた。

「君が巫の血筋だとは知らずに居たから、寂しかったからうたを聞かせてもらったと礼を言った時に、私は膝をついてしまったのだ。満たされていなかった体に力が湧いたことに、咄嗟に体がついていかなかったんだ。……それで気が付いたんだ。君のうたには心が満たされる以上の力があったんだと」

ミツハの話はさらに続く。
「君には具合が悪そうに見えたのだろうね。大丈夫かと気遣ってくれたよ。手を差し伸べて、握ってくれたんだ、私の手を。そうしたら、『触れますね』と言って微笑んだんだ」

触れますね? どういう事だろう。

「人ではない、という事をどこかで分かっていたのかもしれないよ、君は。でなければ、そこに居る人間に『触れますね』とは言わないだろう? そもそも君が私を見つけた時、私は姿を現したつもりはなかったのだからね」

成程、そういう事か。

ミツハは懐かしい、と言うより辛い、という目で、おそらく過去の新菜と手を握り合った場所を見た。

「……だから、君に……、私の命を託してしまったんだ……」

不安と後悔が入り混じった表情……。

「……後悔しておられるのですか……? 私に……、名づけを依頼したことを……」

どきん、どきん、と胸が鳴る。否定され続ける人生だった。ここでも否定されたら……?

「いや。……君にしか頼めないと思った。だからこそ、頼んだんだ」

でも。

「……でも、ミツハさま、……お辛そうです……」

自分が安請け合いしたことが悪かったのか。そう思った時にミツハはぱっと新菜の手を握った。まっすぐに自分を見つめるまなざし。新菜しか見ていない、真摯な蒼の瞳。

今までそんな風にミツハに射抜かれたことがなかった新菜は、大きな動悸を鳴らした。

「君は辛くないか」

「え?」

「私は、自分が辛いより、君が辛い方が堪える。君はどうだ。私の名を負った責は辛くはないか」

ああ、この人は。自分を蔑ろにする人間に、それでも寄り添おうとした人だった。自分が辛いなどとは思えないのだろう。それが神というものなのか。であれば。新菜はミツハの手をぎゅっと握り返した。

「ミツハさま。私は最初に申し上げた通り、ミツハさまに巫としてお役目を頂いて嬉しいのです。辛いなどと思いません」

新菜のしっかりとした言葉に、ミツハは安堵したようだった。そうか、と言ってほっとした表情を浮かべる。

「……でも、今のお話をお聞きしても、頭には身を投げた時の記憶しか思い浮かばないのです……。お役に立てる日が本当に来るか、私は少し不安です……」

こんなに手掛かりを貰って尚、ちらりとも三年前のミツハとの邂逅を思い出さないのだ。本当にミツハの名を思い出して、巫女となれるのかと不安がよぎる。その不安を拭い去ってくれたのは、ミツハだった。

「人の子の記憶に絶対はない。今は強固に鍵がかかっているかもしれないが、いつかその鍵が緩むことがあるだろう。無理に思い出したりしなくても、君が君のままで思い出してくれたら、それで良い」

ミツハが新菜を見るまなざしがやさしい。

(私が私のままで……)

それは今まで背負おうとしてきた全てのものを新菜から取り去ってくれる言葉だった。

自分には価値がないと思っていた。下働きのように働いてもなお満足な働きが出来ず、贄の役目を命じられても贄となれず、巫として使った力のことも思い出せない。こんな不出来な自分は何かを負うことでしか、その価値を見出せないのだと思っていた。

けど、ミツハはそのままでいいと言う。

心の澱となっていた重たいしこりを取り払ってもらったようで、目の前が拓けた。

「……、……っ」

ぽろり、と涙がこぼれる。まるで舞を認めてもらった時と同じだった。嬉しい、と心の中が満たされる。この人に認めてもらって嬉しいと、心が歓喜している。

「ああ、泣くな……。君に泣かれるのが、やはり一番つらい」

ミツハはそう言って涙をこぼす新菜をそっと抱き締めた。

やさしい抱擁……。この人の心を表すような、そんな抱擁だった。

あたたかいと感じる、ミツハの体温。その胸に、零れて止まない涙を預けてしまいたかった。

「君がいくら泣いても受け止める。だから思いっきり泣くと良い」

胸に寄せた新菜の髪にほおずりしてミツハが言う。

神さまの言葉は、新菜にやさしすぎて安堵してしまう。涙が止まらなかった。

ミツハはずっと新菜を抱き締めてくれていた……。



新菜が泣き止むと、ミツハは丁度いい、と言って新菜を湖の傍から誘(いざな)った。やはり抱き上げられてふわりと体ごと浮けば、軽々と宙を飛び、見たこともない立派な御殿の中に舞い降りた。舞い降りた場所から見える景色は広い六角形に区切られた柱と床、そしてその周りを取り囲む帳で暗く、一か所だけその帳が左右の柱にゆったりと結ばれているところに背の高い立派な椅子が置いてあった。その椅子には人が座っており、苛立った声を上げていた。帳が開かれた先は広間のようだった。煌々と明かりがさしており、鈴の鳴る音が聞こえた。

「ええい! 天雨神さまのお声を賜れないのでは話にならん!」

「お待ちください、陛下! 鈴花は今、沢の神、泉の神にも呼び掛けておるところです。一年を通じて安定した雨とはなっておりませんが、嵐や長雨などの作用もございます。水の供給は……」

狼狽した声は父・泰三の声だ。怒鳴っているのは天帝らしい。鈴の音が鳴っているという事は鈴花もそこに居るらしい。

「馬鹿者! 嵐で山が崩れ、川が溢れ、民の暮らしが脅かされておる! 長雨で作物の実りに影響がある! お前は広い目でものを見ることが出来ぬのか!!」

「し……っ、しかし、我が家の役目は水の確保……。川の氾濫については鈴花に神と契約させましょう。山崩れは土の神、作物は木の神にそれぞれお願いできませんでしょうか……」

「陛下、わたくしからもお願いでございます……。わたくしが神の声を聞く力は備えていることは、今までの天雨神さまとの契約の実績、それに堤の神、井戸の神をはじめ、様々な末の神と契約できていることで証明できているかと存じます。我が家の古書を開いて、天雨神さまのお声を再び賜る方法を紐解きます。しばし……、今しばらくお待ちいただけませんでしょうか……」

しゃん、と鈴を置く音がして、鈴花の必死な声が聞こえた。鈴花のこんな焦った声は初めて聞く。新菜が湖の傍でミツハに会ってから、彼が宮から出たところを見たことがなかったが、本当に鈴花に応えてないのだと分かった。

「ミツハさま……」

本当に水に困るこの国を捨て置くつもりなのだろうか。それがミツハの受けてきた傷を癒す唯一の方法なのだろうか。途方に暮れて隣のミツハを見上げれば、ミツハは新菜の背に手を当て、ゆっくりと前へ歩みを進めた。……そう、御前舞をしていた鈴花の前へ……。

帝は突然現れた新菜に驚いた様子をしたが、視線がミツハに向くと、鈴花を見た。鈴花と泰三は突然現れた新菜、そして鈴花には見えているのか、ミツハにも驚いていた。

「お義姉さま!」

「新菜、お前……!! 湖に沈んだんじゃなかったのか……!?」

驚愕する二人の前へ、ミツハが一歩歩み出た。

「そこの父親は聞くことが出来ぬだろうが、既におぬしが私の『声』を聞くことが出来ないという事は、今この場ではっきりと言っておく。舞うだけ無駄だ。書物を開いても解は出ない」

冷たい声、鋭い眼差しが鈴花に向けられる。しかし鈴花は歓喜の表情を湛えてミツハに訴えた。

「ミ……、ミツハさま! お懐かしゅうございます! 鈴花です! 今、ミツハさまのお声が聞こえております!! 今、舞を舞えば、わたくしと再び契約してくださいますか!?」

鈴花の、聞こえている、と言う言葉に泰三は表情を喜びに変えた。そして天帝に請う。

「今一度……、今一度、鈴花に舞を舞わせてくださいませ!! 今、鈴花には天雨神さまが見えているようです! お声も聞こえているようです! 雨を賜れます!!」

泰三の叫びを、しかし天帝は無表情のままやり過ごした。ミツハが鈴花を言葉で刺す。
「お前の声など、本当は聞きたくなかった。私にはもう新菜の声しか要らない。今後は無駄な努力は止めて、畑でも耕すがよい」

ミツハの冷たい言葉の刃に、鈴花が顔色を変える。手が戦慄き、ぶるぶると震えている。

「どうして! どうしてお義姉さまなのです!! 私は神薙である父から全てを教わりました! 必至で練習もしました! 以前はわたくしと契約してくださったではありませんか! 何故今、ミツハさまのお声だけ賜れないとおっしゃるのでしょうか!?」

「お前の声は煩いだけだ」

鈴花の叫びをすっぱりと切り捨てて、ミツハは新菜を伴って御前の奥に帰ろうとする。義妹の必死な様子に耐えられず、新菜が鈴花に歩み寄ろうと前へ出る。

「す、鈴花……。わ、私が……、私が悪いの……。私が……」

しかし、新菜の言葉を遮り、二人から罵声が跳んだ。

「お前が湖に沈まなかったから、まだ雨が降らない! お前はお役目を何だと思っているんだ!」

「どうやってミツハさまに取り入ったの!! 哀れな振りをして同情を買うしかなかったんでしょう! 神さまは哀れな娘を見捨てておけない御慈悲のある方ですもの!」

二人からの罵りを受けて、なおも言葉を続けようとした新菜を、ミツハが背に庇った。まるで、二人の言葉の刃から新菜を守るみたいにして。

「…………っ」

そうされると、ここで新菜が更に言葉を続けるのは間違いのような気がしてくる。そして、話を聞こうとする素振りも見せなかった二人を前に、新菜には長く一緒に暮らした家族に対して、悲しい想いが込み上げた。

わたしは、この人たちの中で、これっぽっちの価値もないの……。

改めて突き付けられて、今までの人生が蘇る。一生懸命天雨家で生きていた日々。あれらは全てないものだったのか……。

家族から突き付けられた憎悪は、新菜をひどく傷つけた。なまじやさしさを知ってしまったからだったのかもしれない。天雨家に居た頃なら耐えられたであろう傷が、今の新菜には耐えられなかった。

「……ごめんなさい……っ!」

家族に対して悲痛な謝罪をすると、新菜はミツハの手を振り切って、その場から走り出した。辛い場面から逃げ去りたかった。ただ自分の保身だけを考えた行動だった。

「新菜……!」

新菜の走り去った先を見失ったミツハは、ギッと二人をねめつけ、そしておもむろに腕を振って神力を揮った。パシンパシンと電流のような衝撃がその場に放たれ、泰三と鈴花はその衝撃に跳ね飛ばされた。ミツハの見えない父親は突然のことに仰天で腰を抜かし、鈴花は恐ろしいものを見る目でミツハを見、そして悔しそうに唇を噛んだ。

力を揮ったあとは二人のことに構わず、ミツハは広い御殿の中を、新菜を探し回って走る。天神であるミツハは自らの分身のある場所と、この祈りの宮がある御殿からは動けない。天神は天から民を見守る役目としてその身を定められており、現身でおいそれと地の民に姿を見せることは出来ないのだった。

「新菜! 新菜、何処にいる!!」

少女の脚で駆けてもそれほど遠くには行ってはおるまい。そうは思っても、再会してからずっと共にいた新菜が傍らに居ないことは、ミツハに喪失感を与え、ひどくもどかしい思いにさせた。ミツハはやみくもに探すことを止め、その場に立ち止まると脳裏を辿った。祈りの場である御殿の中では、ミツハもその力が使える。果たして脳裏に映ったのは、御殿の庭へ出て更に外に駆けだそうという新菜の姿だった。

外界に出られていたのか。この身で探しても行き当らない筈だ。ミツハは心の中で新菜に呼びかける。其処から動くな、と。迎えに行く、と。

新菜は来たこともない御殿の中を夢中で現実から逃げて、窓から広い庭に出て更にがむしゃらに走っていた。逃げられれば何処でも良いと思った。辛い過去、目の当たりにした血を分けた家族から逃げられれば、何処でも良いと。

急ぎ過ぎて、つま先が地面に引っかかる。転びそうになって、やや足を止める。それでも御殿から遠く走ろうとする気持ちはなくならなかった。

再び走り出した時、ふとあたりに切羽詰まったミツハの声が聞こえた。

『新菜! 其処から動くな! 今、迎えに行く!』

明らかに普通に聞いたミツハの声ではない。感情が、と言うのではなく、振動が。

「ミ、ミツハさま……。でも、私……」

ミツハがああ言ってくれたけど、まだミツハを呼ぶための名前だって思い出してない。ミツハが鈴花を跳ね除けたその根拠が、今の新菜にはない。役立たずなんだ、と知らされてミツハの前になんて居られないと思った。そんな新菜を、ミツハが追う。

『其処から動くな。外に出られては、私も迎えに行けない』

そう聞こえてきたのは胸の中。……着物の袷から飛び出ていた首飾りからだった。

見れば飾りが蒼く光っている。……と思えば、すうと、そこからミツハが抜け出てきた。

「……っ!? ミツハさま!? ……これはいったい……!?」

驚きにその場に立ち止まった新菜を、その場に現れたミツハが抱き締める。間に合わないかと思った、と肩の力を抜くミツハに、申し訳ないことをしたのだと、漸く新菜は思い至った。

「も……っ、申し訳ありません……。お役目も果たさず……」

名前を思い出さないまま、ミツハの前を去ろうとした。ミツハを救うために巫女になると約束した、その約束さえ果たさずにミツハの前から消えようとした。その罪に俯いていると、君を失うくらいなら、雨などいくらでもくれてやる、とミツハが安堵のため息交じりに呟く。

「だが、君が約束を違えない人だという事は知っている」

ミツハは見ていた。ずっと自分の力になろうと努力していた新菜を。だから、本当にミツハの前から居なくなってしまうとは思っていなかった。ただ、傍から居なくなった新菜に動揺した。

「君がずっと接してきた家族だ。思うことも多々あろう。それはそれとして君の心の中で折り合いがつくことを待つよ。だが……」

私の傍から、居なくならないで欲しい。

間近で囁かれた言葉は、使用人たちが色めいていた、焦がれる人からの言葉に似ていた。

そう思いついた時、新菜は混乱する。

(お、お慈悲! ミツハさまは家族から冷たく当たられた私を気遣って言って下さるだけ……!)

そうは思っても、胸が走るのを止められない。

ぎこちなく、やせ細った腕が持ち上げられる。

(いまだけ……。……慰められる振りでも良いから、縋らせて頂けませんか……)

どくどく走る、この鼓動の行方を知らない。

それでも新菜は、おずおずとその荒れた手をミツハの背に回した。

気づいたミツハがより一層、新菜を抱きこむ。

風が流れたのに気づくまで、しばらくの時間を要した……。