図書室に来るのは、授業以外では初めてだ。
利香は『図書室』と書いてあるプレートを見上げながら、そんなことを思っていた。しかし、利香は本を借りにここに来ているわけではなかった。
桜澤彩音に会いに来たのだ。
今日一瞬だけ見せた彩音のあの表情の中に、真っ黒な感情が詰まっていそうな気がした。ガラス細工みたいな綺麗な顔をして、何も知らない無垢な感情を持っていそうな娘が真っ黒な感情を出したのが不思議でたまらなかったのだ。
利香は、彩音のその部分に、シャンバラを見た気がした。
美しい表面に内包された、醜い感情。誰しもが持つその齟齬。その噛み合わなさが、彩音の場合はあまりに歪すぎる。しかも、それを誰にも気付かせないぐらいしっかりと隠しているのが衝撃だった。
もしかして彼女なら、自分の絵のヒントになるかもしれない。
欠けているパズルの最後を埋めることを手伝ってもらう為に、利香は慣れない図書室へと足を運んだのだった。
図書室のドアを開けると、冷気が足をくすぐった。微かな風が、頭を撫でるように吹いている。
風を浴びながら、エアコンのない美術室とは違うことを、少しうらやましく思った。
「相沢さん……?」
図書室の真ん中に位置する机でハードカバーの本を広げていた彩音が顔を上げ、そう言う。
利香はなんて言っていいのかわからず、そのまま前に進んで、彩音の前の席に腰掛けた。
「何か、御用?」
彩音はふんわりと笑ってそう言ってきた。普段であれば、そのまま話題に入るところだったが、利香は彩音の表情をなめるように観察してから、頷いた。
「やっぱり」
その言葉に、彩音が牙を隠したまま噛み付いた。
「やっぱり、って、何が?」
「その表情、なんだか嘘っぽいなって思って」
彩音はドキリとした。いつもなら上手く騙せていたはずなのに、今日はそれが通用しない。それだけで、表情が固まるのがわかった。
「嘘なんてついてないけれど」
平然とした声を出しているつもりだった。だけど、少しだけ上ずった気がした。
「いいや、なんか委員長、嘘ついてる。今日も教室で、一瞬だけど委員長の周囲の人間にばれない様に、ひっそりとだけど、すごく暗い顔、してた」
利香は少し体を前傾させ、彩音の視界を埋めるように近づいていく。
「……ねえ、相沢さん。もし、もしよ?もし私の表情が嘘だったとしても、何か貴方に関係ある?」
思い切った発言だった。
ある意味では、肯定をしたととられるその言葉に、彩音は自分自身がドキドキした。
「別に、関係はないよ」
「じゃあ、別に……」
いいじゃない、といいかけるよりも先に、利香が話し始めた。
「うん、別に関係なんかないの。でもね、見ちゃったから。委員長にそんな黒い物があるんだな、って思ったら、なんだか委員長自体が綺麗に見えたの。汚れている泥の中で咲く睡蓮みたいだなって思って」
「睡蓮?」
「そう、睡蓮。睡蓮ってさ、シャンバラなんだよ。醜いものと綺麗なものが同じ場所で存在させる稀有な花なの」
「シャンバラ?確か、仏教用語だったよね。そんな意味はなかったと思ったけど」
「造語なの」
「造語……」
「でね、そんな風にシャンバラになってる人なんてそんなにいないと思って。だから、ここに来たんだ、私」
「そう?私が思うに、皆こんな風だと思うんだけど」
彩音はそう言うと、本にしおりを挟んでから閉じて、机の上に置いた。この急な乱入者は直ぐには帰ってくれそうにない。
「そうかなあ、確かに皆そういう要素を持ってるかもしれないけど、そういうの、私にはわかんないし、もし、皆がそうだったとしても、委員長の黒さって、やっぱり特別だと思うんだよね」
「特別?どう特別なの?」
「それがわかれば苦労しないんだけどね」
利香は笑ったが、彩音は意味がわからず眉間に皺を寄せた。
「そう、その表情。いつもならそういう表情しないでしょ?」
彩音はハッとして、眉間に手を当てる。
しまった、見られた。
いつもなら、笑って、ごまかして、そのまま時が過ぎるのを頭を低くして待っているだけなのに。
なんでこんな風にバレてしまうのだろう。
「ふぅ……完璧に隠してるつもり、だったんだけどね」
利香の視線から逃げるように、彩音は貸し出しカウンターの方へ顔を向けた。
「委員長はなんで、さっきあんな表情をしたの?」
「ごめん、さっきっていつの話?」
そう聞いてくる彩音の表情は、無表情だった。感情を押し殺してもいない、ただ、無防備な顔。
「清掃前の休憩の時。なんか皆でトイレに行くとか行かないとか言ってる時に、断ってたじゃん?そこで、周囲のお友達がいなくなった後にフッとそんな表情してたよ。それを、偶然見ちゃった」
「ああ、あの時」
「自覚、あるの?」
「勿論」
「なんだ、自分でも気付かないぐらいに自然にそうやってたのかと思った」
「勿論、気付かなかったわ。だから、焦ったのよ。いつもならあんな表情は出ないの。絶対に出さなかった。だけど、ほんの一瞬だけ、気が緩んだのね、きっと。それを貴方に見られた。まだまだ詰めが甘いわね、私も」
「なんかさ、ミステリー小説の中で、自分の犯行を自供する人みたいだね」
彩音は、その言葉にフフッと笑った。
「そうかもね、犯人かもしれない。人を騙しているのだから」
「ねえ、委員長。なんであんな表情をしたの?」
彩音はその言葉を聞いて、一瞬、戸惑った。
自分とあまり接点のない利香に全てを話してしまった良いものか。しかも、相手はクラスでかなり浮いてる人間だ。そんな人間に自分の手の内をさらけ出すのは、なんだか怖い気がした。
何が起こるかわからない。
今まで騙しきってきた人間にどんな顔をされるか、想像するだけ怖い。
目だけを利香のほうに向けて表情を確認する。
この子を信じても、いいんだろうか。
でも、今まで誰も気付かなかったことに気付いたのはこの子だけだ。なら、話してもいいんじゃないだろうか。
だって、周囲の人間は誰もそんなこと言ってくれない。
誰にも話すつもりなんてなかったけど、見つけてくれたのなら、話したほうがいいのかもしれない。
『自分の犯行を自供する人みたい』
利香はそんなことを言った。確かに、そうかもしれない。だって、自分は人を騙した犯人で、利香はそれを見つけた名探偵。なら、自分はここで全てを話すのが筋だ。
彩音はそう思いながら、少しドキドキしていた。
自分のことを話すのが、怖い。
ましてや、誰も知らない自分を。
「あまり、面白い話じゃないわよ」
「別にいいよ。ただ、気になるだけだから。面白さなんて、求めてない」
彩音は少し戸惑いながらも口を開いた。
利香は『図書室』と書いてあるプレートを見上げながら、そんなことを思っていた。しかし、利香は本を借りにここに来ているわけではなかった。
桜澤彩音に会いに来たのだ。
今日一瞬だけ見せた彩音のあの表情の中に、真っ黒な感情が詰まっていそうな気がした。ガラス細工みたいな綺麗な顔をして、何も知らない無垢な感情を持っていそうな娘が真っ黒な感情を出したのが不思議でたまらなかったのだ。
利香は、彩音のその部分に、シャンバラを見た気がした。
美しい表面に内包された、醜い感情。誰しもが持つその齟齬。その噛み合わなさが、彩音の場合はあまりに歪すぎる。しかも、それを誰にも気付かせないぐらいしっかりと隠しているのが衝撃だった。
もしかして彼女なら、自分の絵のヒントになるかもしれない。
欠けているパズルの最後を埋めることを手伝ってもらう為に、利香は慣れない図書室へと足を運んだのだった。
図書室のドアを開けると、冷気が足をくすぐった。微かな風が、頭を撫でるように吹いている。
風を浴びながら、エアコンのない美術室とは違うことを、少しうらやましく思った。
「相沢さん……?」
図書室の真ん中に位置する机でハードカバーの本を広げていた彩音が顔を上げ、そう言う。
利香はなんて言っていいのかわからず、そのまま前に進んで、彩音の前の席に腰掛けた。
「何か、御用?」
彩音はふんわりと笑ってそう言ってきた。普段であれば、そのまま話題に入るところだったが、利香は彩音の表情をなめるように観察してから、頷いた。
「やっぱり」
その言葉に、彩音が牙を隠したまま噛み付いた。
「やっぱり、って、何が?」
「その表情、なんだか嘘っぽいなって思って」
彩音はドキリとした。いつもなら上手く騙せていたはずなのに、今日はそれが通用しない。それだけで、表情が固まるのがわかった。
「嘘なんてついてないけれど」
平然とした声を出しているつもりだった。だけど、少しだけ上ずった気がした。
「いいや、なんか委員長、嘘ついてる。今日も教室で、一瞬だけど委員長の周囲の人間にばれない様に、ひっそりとだけど、すごく暗い顔、してた」
利香は少し体を前傾させ、彩音の視界を埋めるように近づいていく。
「……ねえ、相沢さん。もし、もしよ?もし私の表情が嘘だったとしても、何か貴方に関係ある?」
思い切った発言だった。
ある意味では、肯定をしたととられるその言葉に、彩音は自分自身がドキドキした。
「別に、関係はないよ」
「じゃあ、別に……」
いいじゃない、といいかけるよりも先に、利香が話し始めた。
「うん、別に関係なんかないの。でもね、見ちゃったから。委員長にそんな黒い物があるんだな、って思ったら、なんだか委員長自体が綺麗に見えたの。汚れている泥の中で咲く睡蓮みたいだなって思って」
「睡蓮?」
「そう、睡蓮。睡蓮ってさ、シャンバラなんだよ。醜いものと綺麗なものが同じ場所で存在させる稀有な花なの」
「シャンバラ?確か、仏教用語だったよね。そんな意味はなかったと思ったけど」
「造語なの」
「造語……」
「でね、そんな風にシャンバラになってる人なんてそんなにいないと思って。だから、ここに来たんだ、私」
「そう?私が思うに、皆こんな風だと思うんだけど」
彩音はそう言うと、本にしおりを挟んでから閉じて、机の上に置いた。この急な乱入者は直ぐには帰ってくれそうにない。
「そうかなあ、確かに皆そういう要素を持ってるかもしれないけど、そういうの、私にはわかんないし、もし、皆がそうだったとしても、委員長の黒さって、やっぱり特別だと思うんだよね」
「特別?どう特別なの?」
「それがわかれば苦労しないんだけどね」
利香は笑ったが、彩音は意味がわからず眉間に皺を寄せた。
「そう、その表情。いつもならそういう表情しないでしょ?」
彩音はハッとして、眉間に手を当てる。
しまった、見られた。
いつもなら、笑って、ごまかして、そのまま時が過ぎるのを頭を低くして待っているだけなのに。
なんでこんな風にバレてしまうのだろう。
「ふぅ……完璧に隠してるつもり、だったんだけどね」
利香の視線から逃げるように、彩音は貸し出しカウンターの方へ顔を向けた。
「委員長はなんで、さっきあんな表情をしたの?」
「ごめん、さっきっていつの話?」
そう聞いてくる彩音の表情は、無表情だった。感情を押し殺してもいない、ただ、無防備な顔。
「清掃前の休憩の時。なんか皆でトイレに行くとか行かないとか言ってる時に、断ってたじゃん?そこで、周囲のお友達がいなくなった後にフッとそんな表情してたよ。それを、偶然見ちゃった」
「ああ、あの時」
「自覚、あるの?」
「勿論」
「なんだ、自分でも気付かないぐらいに自然にそうやってたのかと思った」
「勿論、気付かなかったわ。だから、焦ったのよ。いつもならあんな表情は出ないの。絶対に出さなかった。だけど、ほんの一瞬だけ、気が緩んだのね、きっと。それを貴方に見られた。まだまだ詰めが甘いわね、私も」
「なんかさ、ミステリー小説の中で、自分の犯行を自供する人みたいだね」
彩音は、その言葉にフフッと笑った。
「そうかもね、犯人かもしれない。人を騙しているのだから」
「ねえ、委員長。なんであんな表情をしたの?」
彩音はその言葉を聞いて、一瞬、戸惑った。
自分とあまり接点のない利香に全てを話してしまった良いものか。しかも、相手はクラスでかなり浮いてる人間だ。そんな人間に自分の手の内をさらけ出すのは、なんだか怖い気がした。
何が起こるかわからない。
今まで騙しきってきた人間にどんな顔をされるか、想像するだけ怖い。
目だけを利香のほうに向けて表情を確認する。
この子を信じても、いいんだろうか。
でも、今まで誰も気付かなかったことに気付いたのはこの子だけだ。なら、話してもいいんじゃないだろうか。
だって、周囲の人間は誰もそんなこと言ってくれない。
誰にも話すつもりなんてなかったけど、見つけてくれたのなら、話したほうがいいのかもしれない。
『自分の犯行を自供する人みたい』
利香はそんなことを言った。確かに、そうかもしれない。だって、自分は人を騙した犯人で、利香はそれを見つけた名探偵。なら、自分はここで全てを話すのが筋だ。
彩音はそう思いながら、少しドキドキしていた。
自分のことを話すのが、怖い。
ましてや、誰も知らない自分を。
「あまり、面白い話じゃないわよ」
「別にいいよ。ただ、気になるだけだから。面白さなんて、求めてない」
彩音は少し戸惑いながらも口を開いた。