桜澤彩音は、図書室に着くなり、自分の鞄を机の上に乱暴に置いた。
「ふぅ」
溜息をつくと同時に、先程のことを思い出していた。
十分休憩の後に担任の芳川が帰ってきて、花壇の水やり班と教室の掃除班に生徒を分けた。
水やりを担当することになった彩音は、数人のクラスメイトと協力し合い、作業を効率よく終えた。
いつもはマイペースに作業をする相沢利香も何も言わずに働いてくれたので、時間がかからなかった。教室に戻ることも考えたが、そうなると掃除の手伝いをさせられるのがわかっていたので、掃除の後片付けだけはゆっくりとすることにした。
手元にあるホースを巻き取っている最中、利香が彩音をじっと見つめていた。彩音はその視線に気付いてはいたが、関わりあわないよう、視線が来ていることを知らないふりをした。
相沢利香。
クラスの中でも異質の存在。
普段から自分のことしか見ておらず、他の人のことはあまり気にしていないようだった。誰かに嫌味を言うわけでもなく、かといって、媚びることもしない。いつでもクラスの中にある空気を無視して発言し、行動をするため、クラスメイトは迷惑がっている……というよりも、困惑をしていた。
教室の中にある空気は、誰かが作ったわけではなくて、いつの間にか出来上がっているものだった。それを崩すことは、暗黙のうちに禁じられていた。
誰かがそう言ったわけではない。でも、利香以外の人間が全てそれを気にしていた。クラスの中で話しかけていい人間と、話しかけてはいけない人間。クラス内にあるいくつかの派閥内にあるルール。
それらの中で生きている人間は、それを無視して生きている利香をどう扱っていいのかわからない。
自分の派閥に引き込むことを考えたところもあったようだが、一人で過ごしたがる利香はそれを拒否した。
だから、彼女はクラス内では腫れ物のような扱いを受けていた。
誰も触らない、誰も話しかけない。
利香もそれを許容していた……というよりも、それに気付いていないかのようだった。自分のすること以外には、他人には興味がないようだ。
彩音には、利香が海を泳ぐ綺麗な名前のない魚に見えた。
目の前でひらりひらりと身を翻して自由に泳ぐ魚。
それに対して、自分は熱帯魚だった。
姿は綺麗で、優雅に見えるけれど、それは水槽の中でだけ。何匹もの魚が、水槽の温度を調節されて、空気を入れられて飼育されている。その中で、綺麗に泳げば餌が増えていく。もし、餌を多く食べたり、水槽を汚し、異端なことをしたりすれば排除される運命にある。空気の量も決まっていて、一日の呼吸数ですら、決まっている。だから、彩音は常に息苦しさを覚えていた。
そんな時に、誰かが言う。
「相沢さんってさ、ヘンだよね」
そうだよね、なんて言って笑う。
そんな時、誰かを攻撃しているのが気持ち良くて、呼吸が楽になる。胸の中にスッと入り込んでくる空気。それが淀んでいるのを知りながら、誰かのその発言に逆らわないように、賛同をして、息を取り込み、また、息を潜める。
この水槽の中で生きていくために。
『いじめではない、ただ、あなたがこの教室の中で皆と違うだけ』
まれに視線の中に入ってくる利香に、そんな言い訳をしながら、彩音は自分の行動を正当化していた。
教室に帰ってからも、利香の視線は続いていたが、それに気付かないフリをしていた。利香と絡めば、教室中の視線が自分に集まってしまう。それを避けるためだった。
目立てば目立つほど、教室の中での生活は困難になる。
だから、彩音は目立たないように過ごしてきた。委員長という目立つポジションにはいたが、普段は教室の中でも『普通』と言われるような子が集まるようなグループに入り、目立たないように過ごしていたので、そこまで注目されなかった。
こんな空気が嫌で、勉強を必死にやって、高校生になったらこの状況から逃れられるように準備を進めていた。
全ての作業が終わり、芳川が教室に現れ、呼び出しをくらっていた生徒も肩を落として帰ってきたところで、今日は終了となった。
芳川は最後に『もうすぐ二学期だから、問題を起こすなよ』と言って、教室を出て行った。そんなことはわかっていた。けれど、言わざるを得なかったのだろう。問題を起こした奴がいたのだから。
芳川が帰り、全員がさっさと帰る準備を始め教室を出て行く。彩音のいる派閥の連中は、彩音以外全員部活が休みとなっているので、声を弾ませている。
彩音は今日の部活が自由参加になっていることを、誰にも告げていなかった。
「ねえねえ、彩音も帰るでしょ?」
派閥の中の一人、中根美鈴がそう聞いてきた。
「ごめん、今日部活なんだ」
「えー、サボっちゃいなよ」
命令をするような言い方を、こんなに自然にできるのがうらやましい。多分、彼女には命令をしている自覚はないだろうが。
「駄目だよ、だって水木センセだもん。嘘ついたらバレちゃう」
「あー……水木センセか……そりゃあバレちゃうよね。んじゃあしょうがないね、バイバイ」
彩音は仏の水木の前では嘘が通じない、ということが校内に広がっていることを、心の中で感謝した。あのまま皆と帰ろうものなら、遊びの約束を取り付けられて、どこかに行くことになる。
それは避けたかった。
いつもなら、良かった。けれど、今は……夏休みの間は駄目だった。
一人の時間に慣れてしまって、水槽の中での生活を忘れてしまったから。あの子達と少しの時間いるだけで、すぐに息苦しくなる。
「ふぅ」
溜息をつくと同時に、先程のことを思い出していた。
十分休憩の後に担任の芳川が帰ってきて、花壇の水やり班と教室の掃除班に生徒を分けた。
水やりを担当することになった彩音は、数人のクラスメイトと協力し合い、作業を効率よく終えた。
いつもはマイペースに作業をする相沢利香も何も言わずに働いてくれたので、時間がかからなかった。教室に戻ることも考えたが、そうなると掃除の手伝いをさせられるのがわかっていたので、掃除の後片付けだけはゆっくりとすることにした。
手元にあるホースを巻き取っている最中、利香が彩音をじっと見つめていた。彩音はその視線に気付いてはいたが、関わりあわないよう、視線が来ていることを知らないふりをした。
相沢利香。
クラスの中でも異質の存在。
普段から自分のことしか見ておらず、他の人のことはあまり気にしていないようだった。誰かに嫌味を言うわけでもなく、かといって、媚びることもしない。いつでもクラスの中にある空気を無視して発言し、行動をするため、クラスメイトは迷惑がっている……というよりも、困惑をしていた。
教室の中にある空気は、誰かが作ったわけではなくて、いつの間にか出来上がっているものだった。それを崩すことは、暗黙のうちに禁じられていた。
誰かがそう言ったわけではない。でも、利香以外の人間が全てそれを気にしていた。クラスの中で話しかけていい人間と、話しかけてはいけない人間。クラス内にあるいくつかの派閥内にあるルール。
それらの中で生きている人間は、それを無視して生きている利香をどう扱っていいのかわからない。
自分の派閥に引き込むことを考えたところもあったようだが、一人で過ごしたがる利香はそれを拒否した。
だから、彼女はクラス内では腫れ物のような扱いを受けていた。
誰も触らない、誰も話しかけない。
利香もそれを許容していた……というよりも、それに気付いていないかのようだった。自分のすること以外には、他人には興味がないようだ。
彩音には、利香が海を泳ぐ綺麗な名前のない魚に見えた。
目の前でひらりひらりと身を翻して自由に泳ぐ魚。
それに対して、自分は熱帯魚だった。
姿は綺麗で、優雅に見えるけれど、それは水槽の中でだけ。何匹もの魚が、水槽の温度を調節されて、空気を入れられて飼育されている。その中で、綺麗に泳げば餌が増えていく。もし、餌を多く食べたり、水槽を汚し、異端なことをしたりすれば排除される運命にある。空気の量も決まっていて、一日の呼吸数ですら、決まっている。だから、彩音は常に息苦しさを覚えていた。
そんな時に、誰かが言う。
「相沢さんってさ、ヘンだよね」
そうだよね、なんて言って笑う。
そんな時、誰かを攻撃しているのが気持ち良くて、呼吸が楽になる。胸の中にスッと入り込んでくる空気。それが淀んでいるのを知りながら、誰かのその発言に逆らわないように、賛同をして、息を取り込み、また、息を潜める。
この水槽の中で生きていくために。
『いじめではない、ただ、あなたがこの教室の中で皆と違うだけ』
まれに視線の中に入ってくる利香に、そんな言い訳をしながら、彩音は自分の行動を正当化していた。
教室に帰ってからも、利香の視線は続いていたが、それに気付かないフリをしていた。利香と絡めば、教室中の視線が自分に集まってしまう。それを避けるためだった。
目立てば目立つほど、教室の中での生活は困難になる。
だから、彩音は目立たないように過ごしてきた。委員長という目立つポジションにはいたが、普段は教室の中でも『普通』と言われるような子が集まるようなグループに入り、目立たないように過ごしていたので、そこまで注目されなかった。
こんな空気が嫌で、勉強を必死にやって、高校生になったらこの状況から逃れられるように準備を進めていた。
全ての作業が終わり、芳川が教室に現れ、呼び出しをくらっていた生徒も肩を落として帰ってきたところで、今日は終了となった。
芳川は最後に『もうすぐ二学期だから、問題を起こすなよ』と言って、教室を出て行った。そんなことはわかっていた。けれど、言わざるを得なかったのだろう。問題を起こした奴がいたのだから。
芳川が帰り、全員がさっさと帰る準備を始め教室を出て行く。彩音のいる派閥の連中は、彩音以外全員部活が休みとなっているので、声を弾ませている。
彩音は今日の部活が自由参加になっていることを、誰にも告げていなかった。
「ねえねえ、彩音も帰るでしょ?」
派閥の中の一人、中根美鈴がそう聞いてきた。
「ごめん、今日部活なんだ」
「えー、サボっちゃいなよ」
命令をするような言い方を、こんなに自然にできるのがうらやましい。多分、彼女には命令をしている自覚はないだろうが。
「駄目だよ、だって水木センセだもん。嘘ついたらバレちゃう」
「あー……水木センセか……そりゃあバレちゃうよね。んじゃあしょうがないね、バイバイ」
彩音は仏の水木の前では嘘が通じない、ということが校内に広がっていることを、心の中で感謝した。あのまま皆と帰ろうものなら、遊びの約束を取り付けられて、どこかに行くことになる。
それは避けたかった。
いつもなら、良かった。けれど、今は……夏休みの間は駄目だった。
一人の時間に慣れてしまって、水槽の中での生活を忘れてしまったから。あの子達と少しの時間いるだけで、すぐに息苦しくなる。