彩音が場所として選んだのは、美術室とは真反対にある家庭科室の横にある屋上に通じる階段だった。
踊り場より上にはロープが張ってあり、それより上には行けないのだが、二人ともそのロープを潜って階段を上がっていった。
屋上に通じるドアはさすがに鍵が掛かっていたが、ドアの前のスペースは二人が寝転がってもいいぐらいにスペースが取ってある。
俯いてる利香を階段に座らせると、その隣に彩音も腰を下ろした。息を吸うだけで、埃っぽい空気が鼻の中に入ってくるのがわかる。
ドアからこぼれている光が舞い上がる埃を照らしていて、なんだか幻想的にも見える。階下から聞こえる喧騒をよそに、ここは全てのモノが死んでいるかのように静かだった。
「利香、もう誰もいないよ」
そう言うと、利香は彩音に抱きついてきた。
「ごめん、ごめんね」
涙声でそう言ってくる利香の頭を撫でながら、利香は微笑んだ。
「何が、利香は何も悪いことしてないじゃない。むしろ、よく戦ったよ、かっこよかったよ」
「でも、でも……」
「なあに?」
言葉を詰まらせながら、利香が一つずつ言葉を吐き出していく。
「だっで……私のこと……あんな風に彩音がかばったら、もう……彩音は水槽の中にいられなくなっちゃう……。あんなに出て行きたくないって言ってたから、私……わだし……彩音の居場所を奪っちゃったんだよ……」
懺悔するかのように利香は彩音を強く抱きしめた。
「ううん、いいのよ、利香。もう、水槽の中に帰ろうなんて思わないから」
彩音もそれに答えるかのように彼女を強く抱きしめた。
彩音の心の中は、解放感に満ちていた。今まで自分の中にあった水槽が、利香を助けた瞬間から壊れ始めていたのだ。
外からの攻撃ではヒビすらも入らなかった自分の中の水槽は、自分が変わろうとして、中から攻撃しただけで、あっさりと壊れてしまった。
水槽の外は怖いものだと、ずっと思っていた。
自由がある代わりに、もの凄く恐ろしいものがいる場所なのだと。だから、安心を好む自分は水槽の中にいて、想像上の恐ろしいものを皆と共有して、安心をしていた。
だけど、外には何もなかった。確かに、恐ろしいとは思う。何があるのかはわからないのだから。
だけど、自分の腕の中に、この広い水槽の外を一緒に泳いでくれる愛しい人がいるのだ。だから、この先に何があっても怖くなんてない。
二人で居れば、何も怖くなんてないのだ。
「ねえ」
彩音は、体を離して利香を見つめた。
涙で目を腫らした利香は、なんだかかわいく見える。
「ねえ、利香。私さ、利香のこと好き。ううん、大好き」
真っ直ぐな瞳でそう言うと、目だけが赤くなっていた利香の顔が、みるみる真っ赤になっていく。
「いや、あの……うん、彩音、うれしいけど、何、どうしたの?」
混乱するかのように、あわあわとしながら利香がそう言うと、彩音は利香の胸に自分のおでこを当てた。
「何って、その言葉通りだよ。私は、利香のことが好き」
「それって、どういうことだかわかってるの?」
「何が?」
「それって、前に彩音が言ってた正しいことじゃないんだよ?男子は女子に、女子は男子が好きになることが当たり前で、普通で、正しいことなんだよ?それを覆すことになるんだよ?それでもいいの?」
正しさ。
水槽の中にいた頃は、その言葉に振り回されて生きてきた。
何が正しいのか、何が悪いのか、全て教えられて、それを避けてきた。だけど、何もわかっていなかった。
正しさなんていらない。
欲しいのは、自分で判断する心だ。
「いらない、正しさなんて」
「本当に?」
「うん、本当に」
胸から頭を上げて微笑む。今まで自分がしたことないような笑顔が今、出来ている気がする。だって、その顔を見た利香が、本当に嬉しそうな顔をしたから、わかる。
「じゃあ、キス」
利香は恥ずかしそうにそう言うと、口を尖らせたままそっぽを向いた。彩音はそっぽを向いた利香の顔を無理矢理自分の方に向ける。
「今、なんて言ったの、利香」
「な、なんでもないです」
「な・ん・て・言・っ・た・の?」
力強くそう言うと、利香は俯きながら
「ちゅっ……ちゅー……したいです」
と囁いて、顔を真っ赤にしていく。
顔を持っていた彩音の手が火傷しそうなほどに熱くなっていくのがわかる。
「はい、よくできました」
「なんか彩音、キャラ違う」
「こういうのを隠してたのよ」
「くっろーい」
「ふーん」
彩音が無表情になってそっぽを向くと、利香はあわあわと手をばたつかせて彩音のご機嫌を伺ってくる。それがおかしくて、無表情でいれたのはごく短時間だった。
「怒ったの?」
利香の言葉に、頭を振った。
「大丈夫だよ。怒ってない」
「よかった」
「じゃあ……」
「うん!」
「帰ろうか」
「えっ」
彩音が立ち上がると、利香がそれを追いかけるように遅れて立ち上がった。
「あ、利香。スカートのすそにいっぱいほこり付いてる」
「ほんとだ、ああ、もう、これだからこういう埃っぽい場所やだよ」
スカートのすそをパンパンと叩き、利香が顔を上げる。無防備に上げたその顔に、彩音がキスをした。
ほんの一瞬で終わったキスは、かすかに、だけど確実に二人の中に忘れられない感触を残した。
「帰ろうか」
すぐに顔を逸らして階段を下りていく彩音に利香が声をかける。
「も、もう一回!」
それを、彩音がいたずらっぽく笑う。
「ダーメ」
「もう、なんで」
彩音が振り向く。屋上に通じるドアからこぼれてくる光が、眩しい。水槽の外はこんなにも美しくて、眩しかったのか。
光が強すぎて、利香の姿がシルエットしか見えない。
右手をおでこに乗せて、光を遮ったその瞬間に、ああ、そういえばこのポーズをしたあの時から、私達の恋は始まっていたのだと思った。
目がゆっくりと慣れてきて、赤面しながらお預けをくらって悲しくなっている子犬みたいな目をした彼女が見えてきた。
「なんで」
もう一度、利香が聞いてきた。
彩音が微笑む。
「この水槽を出られる放課後まで、お預け」
口元に人差し指を当てながら、彩音が笑うと、利香は大きく頷いて、同じようにそのポーズをとった。
二人が階段を降りていき、屋上に静寂が訪れた。
先ほどまで二人が座っていた場所の埃だけが取れていて、大きな穴に見える。それは、彩音が必死になって開けた水槽から外へ出る為の大きな穴に見えた。
踊り場より上にはロープが張ってあり、それより上には行けないのだが、二人ともそのロープを潜って階段を上がっていった。
屋上に通じるドアはさすがに鍵が掛かっていたが、ドアの前のスペースは二人が寝転がってもいいぐらいにスペースが取ってある。
俯いてる利香を階段に座らせると、その隣に彩音も腰を下ろした。息を吸うだけで、埃っぽい空気が鼻の中に入ってくるのがわかる。
ドアからこぼれている光が舞い上がる埃を照らしていて、なんだか幻想的にも見える。階下から聞こえる喧騒をよそに、ここは全てのモノが死んでいるかのように静かだった。
「利香、もう誰もいないよ」
そう言うと、利香は彩音に抱きついてきた。
「ごめん、ごめんね」
涙声でそう言ってくる利香の頭を撫でながら、利香は微笑んだ。
「何が、利香は何も悪いことしてないじゃない。むしろ、よく戦ったよ、かっこよかったよ」
「でも、でも……」
「なあに?」
言葉を詰まらせながら、利香が一つずつ言葉を吐き出していく。
「だっで……私のこと……あんな風に彩音がかばったら、もう……彩音は水槽の中にいられなくなっちゃう……。あんなに出て行きたくないって言ってたから、私……わだし……彩音の居場所を奪っちゃったんだよ……」
懺悔するかのように利香は彩音を強く抱きしめた。
「ううん、いいのよ、利香。もう、水槽の中に帰ろうなんて思わないから」
彩音もそれに答えるかのように彼女を強く抱きしめた。
彩音の心の中は、解放感に満ちていた。今まで自分の中にあった水槽が、利香を助けた瞬間から壊れ始めていたのだ。
外からの攻撃ではヒビすらも入らなかった自分の中の水槽は、自分が変わろうとして、中から攻撃しただけで、あっさりと壊れてしまった。
水槽の外は怖いものだと、ずっと思っていた。
自由がある代わりに、もの凄く恐ろしいものがいる場所なのだと。だから、安心を好む自分は水槽の中にいて、想像上の恐ろしいものを皆と共有して、安心をしていた。
だけど、外には何もなかった。確かに、恐ろしいとは思う。何があるのかはわからないのだから。
だけど、自分の腕の中に、この広い水槽の外を一緒に泳いでくれる愛しい人がいるのだ。だから、この先に何があっても怖くなんてない。
二人で居れば、何も怖くなんてないのだ。
「ねえ」
彩音は、体を離して利香を見つめた。
涙で目を腫らした利香は、なんだかかわいく見える。
「ねえ、利香。私さ、利香のこと好き。ううん、大好き」
真っ直ぐな瞳でそう言うと、目だけが赤くなっていた利香の顔が、みるみる真っ赤になっていく。
「いや、あの……うん、彩音、うれしいけど、何、どうしたの?」
混乱するかのように、あわあわとしながら利香がそう言うと、彩音は利香の胸に自分のおでこを当てた。
「何って、その言葉通りだよ。私は、利香のことが好き」
「それって、どういうことだかわかってるの?」
「何が?」
「それって、前に彩音が言ってた正しいことじゃないんだよ?男子は女子に、女子は男子が好きになることが当たり前で、普通で、正しいことなんだよ?それを覆すことになるんだよ?それでもいいの?」
正しさ。
水槽の中にいた頃は、その言葉に振り回されて生きてきた。
何が正しいのか、何が悪いのか、全て教えられて、それを避けてきた。だけど、何もわかっていなかった。
正しさなんていらない。
欲しいのは、自分で判断する心だ。
「いらない、正しさなんて」
「本当に?」
「うん、本当に」
胸から頭を上げて微笑む。今まで自分がしたことないような笑顔が今、出来ている気がする。だって、その顔を見た利香が、本当に嬉しそうな顔をしたから、わかる。
「じゃあ、キス」
利香は恥ずかしそうにそう言うと、口を尖らせたままそっぽを向いた。彩音はそっぽを向いた利香の顔を無理矢理自分の方に向ける。
「今、なんて言ったの、利香」
「な、なんでもないです」
「な・ん・て・言・っ・た・の?」
力強くそう言うと、利香は俯きながら
「ちゅっ……ちゅー……したいです」
と囁いて、顔を真っ赤にしていく。
顔を持っていた彩音の手が火傷しそうなほどに熱くなっていくのがわかる。
「はい、よくできました」
「なんか彩音、キャラ違う」
「こういうのを隠してたのよ」
「くっろーい」
「ふーん」
彩音が無表情になってそっぽを向くと、利香はあわあわと手をばたつかせて彩音のご機嫌を伺ってくる。それがおかしくて、無表情でいれたのはごく短時間だった。
「怒ったの?」
利香の言葉に、頭を振った。
「大丈夫だよ。怒ってない」
「よかった」
「じゃあ……」
「うん!」
「帰ろうか」
「えっ」
彩音が立ち上がると、利香がそれを追いかけるように遅れて立ち上がった。
「あ、利香。スカートのすそにいっぱいほこり付いてる」
「ほんとだ、ああ、もう、これだからこういう埃っぽい場所やだよ」
スカートのすそをパンパンと叩き、利香が顔を上げる。無防備に上げたその顔に、彩音がキスをした。
ほんの一瞬で終わったキスは、かすかに、だけど確実に二人の中に忘れられない感触を残した。
「帰ろうか」
すぐに顔を逸らして階段を下りていく彩音に利香が声をかける。
「も、もう一回!」
それを、彩音がいたずらっぽく笑う。
「ダーメ」
「もう、なんで」
彩音が振り向く。屋上に通じるドアからこぼれてくる光が、眩しい。水槽の外はこんなにも美しくて、眩しかったのか。
光が強すぎて、利香の姿がシルエットしか見えない。
右手をおでこに乗せて、光を遮ったその瞬間に、ああ、そういえばこのポーズをしたあの時から、私達の恋は始まっていたのだと思った。
目がゆっくりと慣れてきて、赤面しながらお預けをくらって悲しくなっている子犬みたいな目をした彼女が見えてきた。
「なんで」
もう一度、利香が聞いてきた。
彩音が微笑む。
「この水槽を出られる放課後まで、お預け」
口元に人差し指を当てながら、彩音が笑うと、利香は大きく頷いて、同じようにそのポーズをとった。
二人が階段を降りていき、屋上に静寂が訪れた。
先ほどまで二人が座っていた場所の埃だけが取れていて、大きな穴に見える。それは、彩音が必死になって開けた水槽から外へ出る為の大きな穴に見えた。