【百合小説】スイソウノムコウガワ

 ビニールプールでモデルをやったあの日以来、利香と彩音は一度も会っていない。

 抱きしめてきた利香に対して、何もしてやれなかった。

 彩音の中に浮かんでくるその後悔は、日に日に大きくなっていった。いつもなら、自分の中にある真っ黒い場所にそれを沈めて、忘れてしまうのを待つだけだったが、今はそれが出来ない。力強ささえ感じるその後悔は、白い花―――まるであの日、彩音の周囲に浮かんでいた純潔な睡蓮のように真っ白で、どれだけ黒い色を重ねても、浮かび上がってくる。

 それに、黒い色が色濃くなればなるほど、不気味なぐらいに真っ白になっていく。強い白は、無視できないぐらいに大きくなっていた。けれど、自分の心の中にあるその異質な白を誰にも見せずに、彩音は日々を過ごしていた。

 利香に対しても、見せるつもりはなかった。

 もし見せたとしたら、自分を取り囲む水槽が壊れてしまいそうだったから。

 息苦しさを覚えつつも、自分はその中にいる心地よさに身を委ねているのだと、気付かされた。

 でも、それを見せる機会はもうないだろう。

 自分と利香は、もう他人になった。

 図書室の掃除を終えた彩音は、昨日まで読んでいた本を開いた。

 内容が頭に入ってこない。だけど、文字を追うだけ追った。

 こういうことは、たまに起こる。何かを気にしている時や、病気の時、生理の時もこれに近い感覚がある。だから、彩音はこの症状の対処に慣れていた。

 文字を追うだけ追って、それでも疲れたら休めばいい。

 それだけのことをすれば、いつの間にか時間が薬になって効いてくる。



 そう、いつかは。



 久しぶりにこの症状になったな。

 そんなことを考えながら、ページを捲る。その音が、図書室の空気中に溶けて消えていく。

 この前なったのは、いつ頃だったっけ。

 ああ、そうだ、あの日だ。

 確か、中学一年生の修了式の日。

 その時同じクラスだった、飯塚という男子生徒が部活の時間に図書室を訪ねてきた。今と同じで、図書室の中には彩音一人しかいなかった。彼は、彩音を見つけた瞬間に、緊張した面持ちになって「少し話があるんだけど」と言った。

 変声期が少しだけ始まっているその声は、小学生の頃に聞いていた男子の声ではなくて、大人びていた。

 彩音は、もうその時点で全てを悟っていた。

 告白される。

 そう、思っていた。

 案の定、少しの沈黙の後に彼は、自分の気持ちを伝えてきた。言葉は、誰かにアドバイスを貰ったかのような飾った言葉ではなくて、素っ気無くて、どこにでもありふれたものだったが、気持ちは本物だと思えた。少し赤面している彼を見て、なんとなくそう思っただけだったけれど。

 だけど、彩音はたった一言『ごめんなさい』と伝えて、彼の恋を終わらせた。

 彼に魅力が無いのではなかった。

 ただ、自分に彼氏ができることで、周囲の人間にどう思われるのか、そして、自分が目立つ存在になってしまうのが怖かった。

「そっか、ごめんね」

 彼はそれだけを告げて、肩を落とし、図書室を出て行った。

 出て行った直後、廊下から飯塚の声ではない声で「まあ、元気出せよ」という声が聞こえてきた。

 誰かが慰めていたのだろう。

 その声を聞いた瞬間に、自分の中にある醜い部分を見てしまった気がして、本を読んでも頭に入って来なくなった。

 その後、二年生になり、飯塚とは別のクラスになった。

 たまに廊下で顔を会わせるが、今ではもう、何も感じない。ただ、一生徒になっている。字が読めなくなる症状も、春休みの中盤には自然と治ってしまった。

 だから、今こんな風になっていても、いつかは治るのだ。

 そう、強く言い聞かせる。

 今まで一人で過ごしてきたところに、たまたま異質な存在として利香がやってきただけだったのだ。それがこの先、前のようにたった一人だけに戻るだけの話だ。

 そう、もう自分の水面が揺れることはない。水槽の中の平和は保たれて、何も心配することなどない。

 この胸の中の白い睡蓮も、やがて枯れ果てるだろう。

 本を閉じて、両腕を上に向かって、天井に触れるぐらいの勢いで伸びをした後に、窓際まで歩いた。窓から外を見ると運動場が、夕日の色に染まっていた。

 その中で蠢く運動部員達が、自由気ままに泳ぐ魚達に見える。

 いつもは、教室という名の水槽の中にいる彼らが、初めて自由に見えた。そっと手を伸ばすと、ガラスに自分の指が触れ、冷たさを感じた。強く指で押すと、窓枠が微かに鳴っただけで、何も変わることはなかった。

 ああ、ここも水槽か。そうなると、今、目の前で泳いでいるあの子達は外の住人になるのか。

 自由に泳ぐ彼らを見ながら、彩音は眩しさを感じた。

 いつの間に、こんな風になってしまったのだろうか。

 水槽の中に長くいた自分は、すっかりと化け物になってしまった。

 ゆっくりと指を離して、触れた指先をもう片方の手で包み込んで、胸の前に持ってきた。温かさも、冷たさも感じない、ただ、指先が指先であるだけという、冷静な感覚。感動も、悲哀もない。

 泣き出しそうだった。

 自分の愚かさに、自分の悲しみに、自分の孤独に。

 あの時、彼女の気持ちに応えることが出来たなら、こんな感情を抱くことはなかった。でも、女の子が女の子を好きになることが正しいとは思えなかった。だから、彼女を拒絶するしかなかった。

 拒絶することが、この世界では、この水槽では、普通のことだった。

 それをしたのだから、今、自分はここにいる。普通という世界に。水槽の中の世界に。自分が認めた、息苦しくて、死んでいく世界に。

 なのに、なんで。

 なんで自分の中の後悔がこんなにも広がっていくのだろう。

 あれは正しくなかった、それでいいじゃないか。ただ、それだけの話じゃないか。なんで、なんで、なんで。その言葉を心の奥に放つ度に、睡蓮は益々色付いていく。純潔なままの白さをもっと濃くしながら、活き活きとして、花を開く。

 生命の力をみせびらかすように、彩音の心に咲いていく。

 その真っ黒な場所に一つの波紋が広がる。水面に映っていた睡蓮がぐにゃりと曲げて、どこかに消えていった。

 そして、もう一つ同じように水面に波紋が出来た。

 時間を置いて、もう一つ。そして、その直ぐ後にまた一つ。

 彩音の頬から落ちた滴は、現実の世界で床の上に落ちて夕日を浴びて光っていた。それは、彩音の悲しさを否定するように美しかった。その後、滴は幾度も床に落ちて、その度に夕日を浴びて光った。

 数分後には、それは小さな水溜りになって、窓から見える空を反射した。ガラス越しに見える空。夕日の色を存分に吸収した空が、夜の闇を受け入れ始めて、徐々に黒く染まりつつあった。

 彩音は、やっと涙を袖口で拭うと、スカートのポケットからティッシュを取り出して、床を拭いた。洟をすすり、出ようとしてくる涙を必死に押さえつけながら、少し歪み始めている目の前を頼りに、掃除を続ける。

 その時、何の前触れもなく、図書室のドアが開いた。

「利香?」

 そんなことを言いそうになったが、入ってきたのは文学部の顧問の水木だった。

「もうそろそろ下校時間だぞ。帰れよー」

 そう声をかけた後で、直ぐに水木は帰っていった。こんな風に一声かけるだけで終わることも、よくあったので、彩音は不思議にも思わなかった。むしろ、今日は誰にも声をかけられたくないし、顔も見られたくなかったので、好都合だ。

 もう一度洟をすすると、床を拭いていたティッシュを折りたたんで、立ち上がる。

 さ、もう帰らないと。

 誰もいない図書室でそう呟いて、彩音はゴミ箱のある貸出カウンターへと歩んでいった。
 四階にある美術室に差し込む夕日は、部屋の中にハッキリとした明暗を作り出していた。十月の文化祭を明日に控えたこの部屋の中には、展示品が綺麗に揃えてあり、準備万端の状態にあった。そんな中、一人で利香は自分の絵を見ていた。

 あの時、彩音が何か言ってくれたら……。

 自分の描いた絵の前で、利香はふとそんなことを思っていた。

 この絵の下絵を描いたあの日から、彩音とは一言もしゃべっていない。

 元々仲が良かったわけでもないので、メールアドレスも、SNSのアカウントも知らなかった。だから、連絡をとることもなかった。

 教室でしゃべることができたらどんなに気楽だっただろうか。

 だけど、それは彩音が一番嫌がったことだった。水槽の中を荒らしてしまうような行為は、彼女にとって致命的なことになりかねない。だから、話しかけることは出来ない。

 図書室に行けば、簡単に会えることもわかっていた。だけど、そこで拒否されるような態度を示されたら、それこそ自分は、この絵を描けなくなるだろう。

 全てが仕上がったこの絵を、彼女に見せたい。だけど、それをすることは酷く恐ろしかった。

 それに、もしか自分達が仲良くしていたのがばれてしまったら、彩音はもう、あの教室の中で孤立しか出来ない。そうなったら、自分のところに彼女の恨みの矛先が向かってくるかもしれないのだ。

 そんなのは嫌だった。

 油絵で描かれた睡蓮と彩音の絵にそっと触れる。水面に浮かんでいる睡蓮と、半分沈んでしまって水を吸ったセーラー服が体にまとわり付いて、体のラインを露にしている彩音。セーラー服の白さよりも、睡蓮の白さのほうが目立っている。水の底には茶色で表現してある泥がところどころに入っている。

 浮かんでいる睡蓮に人差し指で触れると、少しだけ色が付いた。親指でそれをこすったけれど、それは消えない。そのまま彩音の腹の辺りに触れた。そこには、体に張り付いたセーラー服があった。



 夏のセーラー服を仕舞う際に、背中にセーラー服の白さとは違う白さがあることに気付いたのは、あのスケッチの日から数日経ってからだった。

 彩音が背中で潰した睡蓮の色が少しだけではあるが、制服を汚していたのだ。よく見なければわからないぐらいに微細な違いではあったが、確かに、付いている。

 それは、睡蓮の形をしていた。

 匂いを嗅いだが、そこには洗剤の匂いしか残っていなかった。本当にほんの少しだけ、彩音の匂いが残っていて、利香は悲しさを覚えた。

 なんで自分はあんな風に告白をしてしまったのだろうか。

 相手はあれだけ水槽の中に拘っていた人なのに、なぜ自分の思いを告げてしまったのだろうか。

 そんなのは、わかっていた。

 彩音が好きだからだ。

 綺麗なフリをしながら、どろどろとした自分を容認している彩音。睡蓮みたいに病的なほどの純潔さだけを周囲に見せながら、たった一人でその孤独と向き合っている彼女が、少し寂しそうに見えたからだ。

 もっと心の奥深くで繋がりたい。

 そんなことを思って、自分は彩音に思いを告げようとした。

 だって、あのまま彩音を放っておいたら、彼女は多分、水槽の中で溺死していただろう。空気がないことはわかっているのに、逃げない。そんなのは間違っている。だから、彼女のいる場所を壊すために、告白をした。

 二人でなら、逃げられる。

 二人でなら、水槽の外でもやっていける。

 それを彼女に伝えたかった。

 だけど、彼女はそれを拒絶したのだ。

 水槽の中で死んでいくのを、彼女は選んだ。仲間同士で空気を奪い合って生きていく、そんな生き方を。

 簡単に壊せると思った水槽の壁は、かなり厚くて、それ以上は何もできなかった。だから、利香は彼女に会いに行くことをやめた。

 これ以上、外の世界を見せるのは酷だと思ったからだ。

 水槽なんてない、と教えてあげたかったけれど、もうそれは叶わない。教えるだけで、彼女も自分も苦しむことになる。

 利香はそっと背中に触れる。

 夏服の、睡蓮の染みのあったその場所に。

 何も無いはずなのに、愛しいぐらいの温かさを感じる。ほんの数日だけの関係だったのに、こんなにも柔らかで温かい思いを彼女は自分に残してくれた。

 そんなことを思うと、この染みが愛おしくてたまらない。

 これからも、彼女とはしゃべることはないだろう。

 彼女は水槽の中で大人になっていく。自分は、彼女の言う外の世界を一人で生きていくのだ。

 もし、これから寂しくなった時は、こうやって背中を撫でて彼女を感じるのだろう。少しだけ分かり合えた彼女との絆。

 心臓の裏を指先で軽く撫でながら、利香は目を閉じた。

 明日はもう、文化祭だ。

 今日はもう絵を飾ってしまったから、明日は何もすることはない。クラスの出し物も、誰かが見張りをするのがめんどくさい、何かを用意するのがめんどくさい、という理由で修学旅行の写真の展示というどうでもいいもので終わっている。

 ふらふらと各教室を回ったら、美術部にずっといればいいか。

 溜息をつき、帰ろうとしたその時、美術室のドアが開いた。

「何してるの!早く帰りなさい!とっくに下校時刻は過ぎてるのよ!」

 金切り声に近いような声で、何も言わずにそう言ってきたのは、美術部の副顧問の伴野だった。

 眉間に皺が寄るのがわかる。

 めんどくさい上にうっとおしいのがやって来たな。

「もう、帰ります」

 出来るだけ悪意を込めて、だけど、言葉は普通に。呪いを吐くようにそう言ったが、

「さあさあ、早く出て!すぐに閉めたいから!」

と、伴野はそう言うだけだった。

 机にあるリュックと鞄を手にとると、伴野の脇を通りぬけていく。極力肌も、布ですらも合わせたくない。ましてや、彼女の吐いた空気なんか吸い込みたくもなかった利香は、息を止めて早足でその場を立ち去った。

「あら、展示は出来たのね」

 先ほどの金切り声とは違う、嫌悪感を抱くような甘ったるい声でそう言うと、彼女は美術室の中に入っていってしまった。

 あんな声、授業で行くのも嫌なのに。こんなところで聞くことになるなんて最悪。

 悪態をつきながら、利香は早足でその場から離れ始める。

 階段を二段ほど下りた所で、彼女はやっと息を吸い始めた。
 文化祭の当日、各クラスを見て回る彩音の胸は虚しさでいっぱいだった。

 一年生の時は、隣のクラスと合同で巨大な迷路を作り上げた。

 文化祭の前日に与えられる時間だけでは足りず、文化祭の前の週から迷路の部品を作った。それでも間に合わず、当日の朝五時に教室に行ってまで作った。

 その甲斐あってか、巨大迷路は好評で、出し物の中で優秀賞を貰えた。その時はクラスの女子の大半が泣いて、自分も泣いた。

 あれから一年。

 あの出来事が嘘だったみたいに、今年は冷めていた。

 クラスの出し物の意見交換の際にも『部活の出し物がある』や『めんどくさい』といった意見しか出てこず、結局修学旅行の写真を貼るだけの何の意味もないモノが出来上がった。ただ、与えられた課題を無難にこなすだけの展示物、それが今回の自分のクラスの出し物だった。

 その意見をまとめたのは、自分だった。

 委員長と言う立場上、全ての意見を聞いてまとめなければいけなかった彩音は、皆のやる気のなさに意見をせずに、ただ黙ってそのくだらない展示物をすることを担任に報告した。

 怒られるかもしれないと思ったが、意外とあっさり通ってしまい、拍子抜けした。

 なんだ、誰も真剣にやらないのか。

 そんなことを思ったが、水槽の中にいる自分はそれを意見することができず、ただ、時間は流れていった。

 自分の所属する文芸部も似たようなものだった。

 夏になると各出版社が出す『夏に読みたい本』というのを全てパクったような企画をやっていた。

 勿論、彩音なりにお勧めの本を並べたりはしたが、図書館の利用率の低いこの学校では、何をしても無駄な気がした。

 しかも当日は図書館で過ごすことができない。幽霊部員と化している連中がこぞって図書館で過ごすため、中に入りたくないのだ。

 勿論彼らにただやらせるわけにはいかなかったので、床の清掃と本を仕舞うことだけは条件としてつけた。

 勿論、やらないだろうとも思ったが、取敢えずの体裁として必要だった。

 なんで、こんなことになっているんだろう。

 四階にある一年生の教室を見ていると、初めての文化祭を楽しんでいるキラキラした顔が目に映る。

 どのクラスも喫茶店を出したり、自分たちが去年やったような巨大な迷路を作ったりと楽しく過ごしていた。

 いいなあ。

 そう思う。

 ふと口をついてそんな言葉が出たので、慌てて口を塞いだ。けれど、今日は自分一人しかいないことに気付き、安堵した。

 いつも一緒に行動している連中は、今頃体育館やグラウンドで親善試合の真っ最中だろう。親善試合が終わった後も、父母の相手が待っており、こちらに来る余裕なんてない。先ほど、とりあえず応援には行って、顔だけは見せておいた。

 行かなかったら、あとでうるさいからだ。

 顔だけ出しておけば、あとでなんだかんだと言われることは無い。

 打算的だな。

 自分の行動を振り返りながら、そう思う。

 だけど、これが水槽の中の生き方なのだ。自己を持たずに、周囲の魚と同じように過ごすのが。

 足を進めていくと、美術室が見えた。

『美術部展示会会場』と書いてある札が、扉の中の様子を伺う為のガラスに貼り付けられていて、中の様子が見えなかった。

 あの場所に行こうかどうか迷った。

 自分がモデルになって、利香が描いた絵が飾ってあるのだから、見たくないわけがない。



 だけど、怖い。



 中に利香がいたら、どうやって接すればいいのかが怖い。

 どうすればいいんだろう。

 美術室の前まで来て、彩音の足が止まったその瞬間に、中から怒号が聞こえた。

「ふっざけんな!」

 怒りが頂点に達しているようなその声は、まぎれもなく利香の声だった。彩音は迷っている心を忘れたかのように、美術部の部室のドアを開けた。
 そこにいたのは、父母が数人、クラスメイトが二、三人に、見知らぬ生徒が何人かがおり、美術部の副顧問である伴野と利香が、彩音を描いた絵の前で睨み合っていた。

「なんでこの絵が展示禁止になるんですか」

 自分の絵を指差しながらそう言う利香を鼻で笑い、伴野は彼女の絵に手をかけた。

「これはね、卑猥なのよ。こんな風にセーラー服を濡らした女の子を描くなんていやらしい。それに、体の凹凸もはっきりでてるじゃない。こういうのは学校に飾るのは相応しくないわ」

「何もおかしくないし、いやらしくありません。おかしいのは、アンタだ!」

「教師に向かってアンタとは失礼ね。とにかく、正しくないものを学校で飾るわけにはいきません。だから、展示は中止」

「納得いきません!」

「別にアナタが納得しなくてもいいの、これはルールなのよ」

「私は、顧問の先生からその絵を飾ってもいいといわれています、それでも駄目なんですか」

「ああ、顧問の活崎先生ねえ、あの先生はなんだか美術にかかわりすぎてるから判断が鈍ってるのよね。こういうのが芸術だって言えちゃう人なのよ。何もわかってない。美術とは美しさを求めること、それは花を描いたり、人物を丁寧に描くことなのよ。女の子をいやらしく描くなんて、誰も求めないわよ」

「……バッカみたい」

 吐き捨てるように利香が言うと、伴野は眉間に皺を寄せた。

 彩音は嫌な予感がして、利香と伴野の近くまで歩み寄っていく。

「教師に向かってそういう口の聞き方は……」

「何が教師だよ!何が正しさだよ!そんなもん関係ない!私は正しさが欲しいからそういう絵を描いてるんじゃない!醜いのも、美しいのも全部飲み込んで、それを吐き出してるだけだ!それを勝手なルールで縛ってるのはそっちだ!ふざけんな!」

 飛び掛ろうとする利香を、伴野が平手打ちにすると、今までざわついてた美術室が、水を打ったかのように静かになった。

「もういいわ。なら、こういう絵は処分したほうが良さそうね」

 伴野が床で頬を押さえている利香を無視してドアへと体を向けたその瞬間に、彩音が伴野の腕を掴んだ。

「待ってください」

「なに、アナタ」

「その絵のモデルです」

「これの?ああ、これアナタだったの?良かったわねえ、こんなところで体を晒さなくて済んで」

「よくありません」

「なんでかしら」

「それは、私と相沢さんの作品です。二人で作り上げた作品なんです」

「でも、こんな風に描かれたら、飾られないことはわかるでしょ?ほら、アナタも委員長なんだし、そのぐらいわかるでしょ?正しいことはいいことなのよ。だから、そのルールから外れている正しくないことは、すべて排除するのよ」

 伴野はそういいながら彩音のセーラー服の襟に付いてる委員長を示すバッヂを指差しながら微笑んだ。

 彩音はバッヂを掴んで、窓に向かって放り投げると、伴野の手に爪を立てた。

「きゃっ」

 甲高い声でそう言って伴野が手を離した隙に、彩音が絵を奪い取り、絵を体の後ろに隠した。

「何するのよ!」

「それはこっちの台詞です、伴野先生。誰かが作った正しさの中でしか物事を図れない人に、絵なんかわかりません。水槽の中で何も出来なかった私に、外の世界を教えてくれた相沢……利香が間違っているとは、思いません。正しさも悪いことも、全部自分で判断するのが、人間です。アナタみたいに、型にはまった正義しか語れない人が、何か口を出すことが、気持ち悪いです」

 絵の淵を握っている両の手が、震えている。

 自分が今やっていることは、明らかに度を越えた行為だった。だけど、そこまでして彩音は利香を守りたかった。

 その為なら、自分が彩音と仲がいいことが誰にバレても良かった。

「気持ち悪いって……それが教師に向かって言う言葉ですか!」

 伴野が手を振りかぶった瞬間に、彩音は目を閉じた。

 平手打ちされるのなら、それでもかまわない。こんなことで、自分達の作品を汚されたくはない。何度叩かれても、この手だけは絶対に離さない。

 しかし、何秒経っても平手打ちは頬に届かず、恐る恐る目を開けると、そこでは、美術部の顧問である水木が伴野の腕を掴んでいた。

「伴野先生、もうこれ以上はやめませんか」

「しかし、水木先生、こんな絵は」

「こんな絵、とは?」

「あの絵ですよ、あの、いやらしい絵です」

 水木は溜息をついた。

「あの絵がいやらしく見えるってことは、アナタがいやらしいってことですよ、伴野先生。絵は、自分の心を映す鏡みたいなものです。あの絵、相沢が描いたあの絵は、好きが溢れている絵ですよ。相手のことを思って、相手のことを理解しようとして、そして、相手のことを解放しようとしている、そういう絵ですよ。でなければ、あんな風には描けません。睡蓮の美しさと、少女……そこにいる桜澤を美しく描きながらも、泥を描いて、そして、太陽の下に連れてこようとしている。どこかに閉じ込められていた少女を、こんな風に解放しようとしているんですよ。それが見えませんか?それなら、アナタの目は腐っているんですよ。おおいに、しかも、しっかりと」

 まくし立てるようにそう言うと、水木は伴野の手を離して「職員室に行ってください、そこで話しましょう。ゆっくりとね」と言って、顎で出入り口を指した。

 何か言いたげな表情をしていた伴野をもう一度睨むと、伴野は素直に美術室から出て行った。

「皆様、お騒がせしまして申し訳ございません。すぐに絵を飾らせますので、どうぞゆっくりご覧になって下さい」

 水木はそう言って両手を彩音に差し出した。

 震える手をゆっくりと動かして、絵を掴んで水木に渡すと、彼は微笑んだ。

「ありがとう、こんないい絵を描かせるなんて、よっぽど君は魅力的なんだろうね、相沢にとって。少し妬けてしまうくらいだよ。さあて、そこで泣いている相沢をちょっとどこかに連れて行ってやってくれないか」

「はい」

 まだ震えの残る体を動かして、しゃがみこんでいる利香の目の前に腰を下ろすと、彼女が抱きついてきた。

「よしよし」

 ゆっくりと一緒に立ち上がり、頬を押さえている手に自分の手を重ねる。

「大丈夫?利香」

「うん……ねえ、どこに行くの」

「そうだね、どこにしよっか」

 支えあいながら二人は美術室を出て行く。その後ろ姿を水木が目を細めて見ていた。
 彩音が場所として選んだのは、美術室とは真反対にある家庭科室の横にある屋上に通じる階段だった。

 踊り場より上にはロープが張ってあり、それより上には行けないのだが、二人ともそのロープを潜って階段を上がっていった。

 屋上に通じるドアはさすがに鍵が掛かっていたが、ドアの前のスペースは二人が寝転がってもいいぐらいにスペースが取ってある。

 俯いてる利香を階段に座らせると、その隣に彩音も腰を下ろした。息を吸うだけで、埃っぽい空気が鼻の中に入ってくるのがわかる。

 ドアからこぼれている光が舞い上がる埃を照らしていて、なんだか幻想的にも見える。階下から聞こえる喧騒をよそに、ここは全てのモノが死んでいるかのように静かだった。

「利香、もう誰もいないよ」

 そう言うと、利香は彩音に抱きついてきた。

「ごめん、ごめんね」

 涙声でそう言ってくる利香の頭を撫でながら、利香は微笑んだ。

「何が、利香は何も悪いことしてないじゃない。むしろ、よく戦ったよ、かっこよかったよ」

「でも、でも……」

「なあに?」

 言葉を詰まらせながら、利香が一つずつ言葉を吐き出していく。

「だっで……私のこと……あんな風に彩音がかばったら、もう……彩音は水槽の中にいられなくなっちゃう……。あんなに出て行きたくないって言ってたから、私……わだし……彩音の居場所を奪っちゃったんだよ……」

 懺悔するかのように利香は彩音を強く抱きしめた。

「ううん、いいのよ、利香。もう、水槽の中に帰ろうなんて思わないから」

 彩音もそれに答えるかのように彼女を強く抱きしめた。

 彩音の心の中は、解放感に満ちていた。今まで自分の中にあった水槽が、利香を助けた瞬間から壊れ始めていたのだ。

 外からの攻撃ではヒビすらも入らなかった自分の中の水槽は、自分が変わろうとして、中から攻撃しただけで、あっさりと壊れてしまった。

 水槽の外は怖いものだと、ずっと思っていた。

 自由がある代わりに、もの凄く恐ろしいものがいる場所なのだと。だから、安心を好む自分は水槽の中にいて、想像上の恐ろしいものを皆と共有して、安心をしていた。

 だけど、外には何もなかった。確かに、恐ろしいとは思う。何があるのかはわからないのだから。

 だけど、自分の腕の中に、この広い水槽の外を一緒に泳いでくれる愛しい人がいるのだ。だから、この先に何があっても怖くなんてない。

 二人で居れば、何も怖くなんてないのだ。

「ねえ」

 彩音は、体を離して利香を見つめた。

 涙で目を腫らした利香は、なんだかかわいく見える。

「ねえ、利香。私さ、利香のこと好き。ううん、大好き」

 真っ直ぐな瞳でそう言うと、目だけが赤くなっていた利香の顔が、みるみる真っ赤になっていく。

「いや、あの……うん、彩音、うれしいけど、何、どうしたの?」

 混乱するかのように、あわあわとしながら利香がそう言うと、彩音は利香の胸に自分のおでこを当てた。

「何って、その言葉通りだよ。私は、利香のことが好き」

「それって、どういうことだかわかってるの?」

「何が?」

「それって、前に彩音が言ってた正しいことじゃないんだよ?男子は女子に、女子は男子が好きになることが当たり前で、普通で、正しいことなんだよ?それを覆すことになるんだよ?それでもいいの?」

 正しさ。

 水槽の中にいた頃は、その言葉に振り回されて生きてきた。

 何が正しいのか、何が悪いのか、全て教えられて、それを避けてきた。だけど、何もわかっていなかった。

 正しさなんていらない。

 欲しいのは、自分で判断する心だ。

「いらない、正しさなんて」

「本当に?」

「うん、本当に」

 胸から頭を上げて微笑む。今まで自分がしたことないような笑顔が今、出来ている気がする。だって、その顔を見た利香が、本当に嬉しそうな顔をしたから、わかる。

「じゃあ、キス」

 利香は恥ずかしそうにそう言うと、口を尖らせたままそっぽを向いた。彩音はそっぽを向いた利香の顔を無理矢理自分の方に向ける。

「今、なんて言ったの、利香」

「な、なんでもないです」

「な・ん・て・言・っ・た・の?」

 力強くそう言うと、利香は俯きながら

「ちゅっ……ちゅー……したいです」

 と囁いて、顔を真っ赤にしていく。

 顔を持っていた彩音の手が火傷しそうなほどに熱くなっていくのがわかる。

「はい、よくできました」

「なんか彩音、キャラ違う」

「こういうのを隠してたのよ」

「くっろーい」

「ふーん」

 彩音が無表情になってそっぽを向くと、利香はあわあわと手をばたつかせて彩音のご機嫌を伺ってくる。それがおかしくて、無表情でいれたのはごく短時間だった。

「怒ったの?」

 利香の言葉に、頭を振った。

「大丈夫だよ。怒ってない」

「よかった」

「じゃあ……」

「うん!」

「帰ろうか」

「えっ」

 彩音が立ち上がると、利香がそれを追いかけるように遅れて立ち上がった。

「あ、利香。スカートのすそにいっぱいほこり付いてる」

「ほんとだ、ああ、もう、これだからこういう埃っぽい場所やだよ」

 スカートのすそをパンパンと叩き、利香が顔を上げる。無防備に上げたその顔に、彩音がキスをした。

 ほんの一瞬で終わったキスは、かすかに、だけど確実に二人の中に忘れられない感触を残した。

「帰ろうか」

 すぐに顔を逸らして階段を下りていく彩音に利香が声をかける。

「も、もう一回!」

 それを、彩音がいたずらっぽく笑う。

「ダーメ」

「もう、なんで」

 彩音が振り向く。屋上に通じるドアからこぼれてくる光が、眩しい。水槽の外はこんなにも美しくて、眩しかったのか。

 光が強すぎて、利香の姿がシルエットしか見えない。

 右手をおでこに乗せて、光を遮ったその瞬間に、ああ、そういえばこのポーズをしたあの時から、私達の恋は始まっていたのだと思った。

 目がゆっくりと慣れてきて、赤面しながらお預けをくらって悲しくなっている子犬みたいな目をした彼女が見えてきた。

「なんで」

 もう一度、利香が聞いてきた。

 彩音が微笑む。

「この水槽を出られる放課後まで、お預け」

 口元に人差し指を当てながら、彩音が笑うと、利香は大きく頷いて、同じようにそのポーズをとった。





 二人が階段を降りていき、屋上に静寂が訪れた。

 先ほどまで二人が座っていた場所の埃だけが取れていて、大きな穴に見える。それは、彩音が必死になって開けた水槽から外へ出る為の大きな穴に見えた。

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