四階にある美術室に差し込む夕日は、部屋の中にハッキリとした明暗を作り出していた。十月の文化祭を明日に控えたこの部屋の中には、展示品が綺麗に揃えてあり、準備万端の状態にあった。そんな中、一人で利香は自分の絵を見ていた。
あの時、彩音が何か言ってくれたら……。
自分の描いた絵の前で、利香はふとそんなことを思っていた。
この絵の下絵を描いたあの日から、彩音とは一言もしゃべっていない。
元々仲が良かったわけでもないので、メールアドレスも、SNSのアカウントも知らなかった。だから、連絡をとることもなかった。
教室でしゃべることができたらどんなに気楽だっただろうか。
だけど、それは彩音が一番嫌がったことだった。水槽の中を荒らしてしまうような行為は、彼女にとって致命的なことになりかねない。だから、話しかけることは出来ない。
図書室に行けば、簡単に会えることもわかっていた。だけど、そこで拒否されるような態度を示されたら、それこそ自分は、この絵を描けなくなるだろう。
全てが仕上がったこの絵を、彼女に見せたい。だけど、それをすることは酷く恐ろしかった。
それに、もしか自分達が仲良くしていたのがばれてしまったら、彩音はもう、あの教室の中で孤立しか出来ない。そうなったら、自分のところに彼女の恨みの矛先が向かってくるかもしれないのだ。
そんなのは嫌だった。
油絵で描かれた睡蓮と彩音の絵にそっと触れる。水面に浮かんでいる睡蓮と、半分沈んでしまって水を吸ったセーラー服が体にまとわり付いて、体のラインを露にしている彩音。セーラー服の白さよりも、睡蓮の白さのほうが目立っている。水の底には茶色で表現してある泥がところどころに入っている。
浮かんでいる睡蓮に人差し指で触れると、少しだけ色が付いた。親指でそれをこすったけれど、それは消えない。そのまま彩音の腹の辺りに触れた。そこには、体に張り付いたセーラー服があった。
夏のセーラー服を仕舞う際に、背中にセーラー服の白さとは違う白さがあることに気付いたのは、あのスケッチの日から数日経ってからだった。
彩音が背中で潰した睡蓮の色が少しだけではあるが、制服を汚していたのだ。よく見なければわからないぐらいに微細な違いではあったが、確かに、付いている。
それは、睡蓮の形をしていた。
匂いを嗅いだが、そこには洗剤の匂いしか残っていなかった。本当にほんの少しだけ、彩音の匂いが残っていて、利香は悲しさを覚えた。
なんで自分はあんな風に告白をしてしまったのだろうか。
相手はあれだけ水槽の中に拘っていた人なのに、なぜ自分の思いを告げてしまったのだろうか。
そんなのは、わかっていた。
彩音が好きだからだ。
綺麗なフリをしながら、どろどろとした自分を容認している彩音。睡蓮みたいに病的なほどの純潔さだけを周囲に見せながら、たった一人でその孤独と向き合っている彼女が、少し寂しそうに見えたからだ。
もっと心の奥深くで繋がりたい。
そんなことを思って、自分は彩音に思いを告げようとした。
だって、あのまま彩音を放っておいたら、彼女は多分、水槽の中で溺死していただろう。空気がないことはわかっているのに、逃げない。そんなのは間違っている。だから、彼女のいる場所を壊すために、告白をした。
二人でなら、逃げられる。
二人でなら、水槽の外でもやっていける。
それを彼女に伝えたかった。
だけど、彼女はそれを拒絶したのだ。
水槽の中で死んでいくのを、彼女は選んだ。仲間同士で空気を奪い合って生きていく、そんな生き方を。
簡単に壊せると思った水槽の壁は、かなり厚くて、それ以上は何もできなかった。だから、利香は彼女に会いに行くことをやめた。
これ以上、外の世界を見せるのは酷だと思ったからだ。
水槽なんてない、と教えてあげたかったけれど、もうそれは叶わない。教えるだけで、彼女も自分も苦しむことになる。
利香はそっと背中に触れる。
夏服の、睡蓮の染みのあったその場所に。
何も無いはずなのに、愛しいぐらいの温かさを感じる。ほんの数日だけの関係だったのに、こんなにも柔らかで温かい思いを彼女は自分に残してくれた。
そんなことを思うと、この染みが愛おしくてたまらない。
これからも、彼女とはしゃべることはないだろう。
彼女は水槽の中で大人になっていく。自分は、彼女の言う外の世界を一人で生きていくのだ。
もし、これから寂しくなった時は、こうやって背中を撫でて彼女を感じるのだろう。少しだけ分かり合えた彼女との絆。
心臓の裏を指先で軽く撫でながら、利香は目を閉じた。
明日はもう、文化祭だ。
今日はもう絵を飾ってしまったから、明日は何もすることはない。クラスの出し物も、誰かが見張りをするのがめんどくさい、何かを用意するのがめんどくさい、という理由で修学旅行の写真の展示というどうでもいいもので終わっている。
ふらふらと各教室を回ったら、美術部にずっといればいいか。
溜息をつき、帰ろうとしたその時、美術室のドアが開いた。
「何してるの!早く帰りなさい!とっくに下校時刻は過ぎてるのよ!」
金切り声に近いような声で、何も言わずにそう言ってきたのは、美術部の副顧問の伴野だった。
眉間に皺が寄るのがわかる。
めんどくさい上にうっとおしいのがやって来たな。
「もう、帰ります」
出来るだけ悪意を込めて、だけど、言葉は普通に。呪いを吐くようにそう言ったが、
「さあさあ、早く出て!すぐに閉めたいから!」
と、伴野はそう言うだけだった。
机にあるリュックと鞄を手にとると、伴野の脇を通りぬけていく。極力肌も、布ですらも合わせたくない。ましてや、彼女の吐いた空気なんか吸い込みたくもなかった利香は、息を止めて早足でその場を立ち去った。
「あら、展示は出来たのね」
先ほどの金切り声とは違う、嫌悪感を抱くような甘ったるい声でそう言うと、彼女は美術室の中に入っていってしまった。
あんな声、授業で行くのも嫌なのに。こんなところで聞くことになるなんて最悪。
悪態をつきながら、利香は早足でその場から離れ始める。
階段を二段ほど下りた所で、彼女はやっと息を吸い始めた。
あの時、彩音が何か言ってくれたら……。
自分の描いた絵の前で、利香はふとそんなことを思っていた。
この絵の下絵を描いたあの日から、彩音とは一言もしゃべっていない。
元々仲が良かったわけでもないので、メールアドレスも、SNSのアカウントも知らなかった。だから、連絡をとることもなかった。
教室でしゃべることができたらどんなに気楽だっただろうか。
だけど、それは彩音が一番嫌がったことだった。水槽の中を荒らしてしまうような行為は、彼女にとって致命的なことになりかねない。だから、話しかけることは出来ない。
図書室に行けば、簡単に会えることもわかっていた。だけど、そこで拒否されるような態度を示されたら、それこそ自分は、この絵を描けなくなるだろう。
全てが仕上がったこの絵を、彼女に見せたい。だけど、それをすることは酷く恐ろしかった。
それに、もしか自分達が仲良くしていたのがばれてしまったら、彩音はもう、あの教室の中で孤立しか出来ない。そうなったら、自分のところに彼女の恨みの矛先が向かってくるかもしれないのだ。
そんなのは嫌だった。
油絵で描かれた睡蓮と彩音の絵にそっと触れる。水面に浮かんでいる睡蓮と、半分沈んでしまって水を吸ったセーラー服が体にまとわり付いて、体のラインを露にしている彩音。セーラー服の白さよりも、睡蓮の白さのほうが目立っている。水の底には茶色で表現してある泥がところどころに入っている。
浮かんでいる睡蓮に人差し指で触れると、少しだけ色が付いた。親指でそれをこすったけれど、それは消えない。そのまま彩音の腹の辺りに触れた。そこには、体に張り付いたセーラー服があった。
夏のセーラー服を仕舞う際に、背中にセーラー服の白さとは違う白さがあることに気付いたのは、あのスケッチの日から数日経ってからだった。
彩音が背中で潰した睡蓮の色が少しだけではあるが、制服を汚していたのだ。よく見なければわからないぐらいに微細な違いではあったが、確かに、付いている。
それは、睡蓮の形をしていた。
匂いを嗅いだが、そこには洗剤の匂いしか残っていなかった。本当にほんの少しだけ、彩音の匂いが残っていて、利香は悲しさを覚えた。
なんで自分はあんな風に告白をしてしまったのだろうか。
相手はあれだけ水槽の中に拘っていた人なのに、なぜ自分の思いを告げてしまったのだろうか。
そんなのは、わかっていた。
彩音が好きだからだ。
綺麗なフリをしながら、どろどろとした自分を容認している彩音。睡蓮みたいに病的なほどの純潔さだけを周囲に見せながら、たった一人でその孤独と向き合っている彼女が、少し寂しそうに見えたからだ。
もっと心の奥深くで繋がりたい。
そんなことを思って、自分は彩音に思いを告げようとした。
だって、あのまま彩音を放っておいたら、彼女は多分、水槽の中で溺死していただろう。空気がないことはわかっているのに、逃げない。そんなのは間違っている。だから、彼女のいる場所を壊すために、告白をした。
二人でなら、逃げられる。
二人でなら、水槽の外でもやっていける。
それを彼女に伝えたかった。
だけど、彼女はそれを拒絶したのだ。
水槽の中で死んでいくのを、彼女は選んだ。仲間同士で空気を奪い合って生きていく、そんな生き方を。
簡単に壊せると思った水槽の壁は、かなり厚くて、それ以上は何もできなかった。だから、利香は彼女に会いに行くことをやめた。
これ以上、外の世界を見せるのは酷だと思ったからだ。
水槽なんてない、と教えてあげたかったけれど、もうそれは叶わない。教えるだけで、彼女も自分も苦しむことになる。
利香はそっと背中に触れる。
夏服の、睡蓮の染みのあったその場所に。
何も無いはずなのに、愛しいぐらいの温かさを感じる。ほんの数日だけの関係だったのに、こんなにも柔らかで温かい思いを彼女は自分に残してくれた。
そんなことを思うと、この染みが愛おしくてたまらない。
これからも、彼女とはしゃべることはないだろう。
彼女は水槽の中で大人になっていく。自分は、彼女の言う外の世界を一人で生きていくのだ。
もし、これから寂しくなった時は、こうやって背中を撫でて彼女を感じるのだろう。少しだけ分かり合えた彼女との絆。
心臓の裏を指先で軽く撫でながら、利香は目を閉じた。
明日はもう、文化祭だ。
今日はもう絵を飾ってしまったから、明日は何もすることはない。クラスの出し物も、誰かが見張りをするのがめんどくさい、何かを用意するのがめんどくさい、という理由で修学旅行の写真の展示というどうでもいいもので終わっている。
ふらふらと各教室を回ったら、美術部にずっといればいいか。
溜息をつき、帰ろうとしたその時、美術室のドアが開いた。
「何してるの!早く帰りなさい!とっくに下校時刻は過ぎてるのよ!」
金切り声に近いような声で、何も言わずにそう言ってきたのは、美術部の副顧問の伴野だった。
眉間に皺が寄るのがわかる。
めんどくさい上にうっとおしいのがやって来たな。
「もう、帰ります」
出来るだけ悪意を込めて、だけど、言葉は普通に。呪いを吐くようにそう言ったが、
「さあさあ、早く出て!すぐに閉めたいから!」
と、伴野はそう言うだけだった。
机にあるリュックと鞄を手にとると、伴野の脇を通りぬけていく。極力肌も、布ですらも合わせたくない。ましてや、彼女の吐いた空気なんか吸い込みたくもなかった利香は、息を止めて早足でその場を立ち去った。
「あら、展示は出来たのね」
先ほどの金切り声とは違う、嫌悪感を抱くような甘ったるい声でそう言うと、彼女は美術室の中に入っていってしまった。
あんな声、授業で行くのも嫌なのに。こんなところで聞くことになるなんて最悪。
悪態をつきながら、利香は早足でその場から離れ始める。
階段を二段ほど下りた所で、彼女はやっと息を吸い始めた。