「あの、これ、やっぱりスースーするんだけど」

「はい、入って」

 彩音の訴えはあっさりと却下された。もじもじとしていると、利香が手を引っ張った。

「ほら、早く早く」

「やっ、ちょっ、止めて!ほんと、ほら、なんか恥ずかしいし」

「駄目です、入って」

「やだー!」

「聞き分けの無い委員長さんだね、さっき何食べた?」

 先ほど、有名な洋菓子屋の一個七百円もするケーキを食べた彩音は、その言葉にたじろいだが、搾り出すように言葉を出した。

「……吐き出す」

「却下」

 説明も無しに食べさせられたケーキの味は、どこかに飛んでいってしまった。なぜ、こんなことになったのか。

 今、彩音のセーラー服とスカートの下にあるのは白いTシャツだけだった。下着という代物は、十分前に全て鞄の中に仕舞われてしまった。

 借りたセーラー服を着て、ベッドの上に寝転がるだけだった今回のスケッチは、利香の兄のせいで、大幅に変わることになった。

 利香の兄である直弘が、実家宛に一畳ほどの大きなビニールプールを送ってきたのだった。直弘曰く「遊び用で買ったのはいいけど、直ぐに飽きたから」だそうで、それを見た利香がピンと来てしまったそうだ。

「リアリティのある絵を描きたいんだよね」

 そう言って、ケーキを食べ終えた彩音に話し始めた時の利香の顔は、捕食者のように輝いていた。

 利香の家には少し高めの塀があるのが救いだった。居間と庭は大きな窓で通じており、降りるだけで直ぐに庭に行ける。そこにイーゼルを置いて描くという。

「大丈夫、濡れるって言っても私の服だけだし、シャワーも貸すし」

「いやっ……だって、ほら、あれよ、まだまだ暑いから利香だって困るでしょ?ほら、夏服ないとさ……」

「夏服は二着買うのが当然だし、家の近くにすごーくいいクリーニング屋さんがあるから、今日濡れても明日出せばその日のうちにカラッカラッに乾かしてくれるんだよ」

「いや、だけど」

 言い訳が、もう見つからなかった。

 逃げ出すことも考えたが、胃袋の中に入っている七百円の高級ケーキと、利香に抱いている親しみの気持ちが『はい』と言わせた。

 庭に出されているプールには、どこかで買ってきた睡蓮の花が五個、ところどころに浮いていた。真ん中には、彩音を受け入れるためのスペースが開いている。

 水深はあまり無く、拳を入れたら手首まで浸かるぐらいしかない。しかも水は温かく、気持ちよささえも感じる。

「さ、入ってみましょう」

 利香がそう急かすと、彩音はハイソックスを履いたままの足でその場所へと入り込んだ

 足を水につけた瞬間に、布が水を吸って重くなった。柔らかに触れていた布が足の甲にまでべったりと張り付いて不快感を覚える。水に漬けるために作られた物ではないことを否応無く感じてしまう。

「ねえ、そのスカートの真ん中の洗濯ばさみはそのままなの?」

 利香の言葉に、彩音は口を尖らせた。

「当然です。このまま入ってスカートがふわーってなったらもうお嫁に行けなくなります。なので、これは絶対に外せません、ぜったいっにっ!」

 力強くそう言うと、利香も口を尖らせた。しかし、このぐらいは許して欲しかった。不意打ちをくらっているのはこちらのなのだ。

 ビニールプールに座ると、スカートが水を吸い、解いていた長い髪の端が水に浸かった。スカートは水の中でふんわりと開くようなイメージがあったが、自分の体のラインを強く出すように、腰から下にべったりと張り付いた。

 メガネを外して、利香に渡す。

 視界がぼやけて、少し離れたものの焦点が定まらなくて、現実と空想のぼんやりとした狭間に来ている気がしてきた。

「はい、じゃあ、これ」

 利香から耳栓を受け取り、耳の中に入れた。じんわりと音が遮断されていき、世界が遠くなっていく気がした。

 体の中の音が微かに聞こえるが、それは、水の音にかき消された。水を手で少し弾くと、体の中でも水の音が弾けて、どこかに消えていった。その瞬間に、音も自分の中に飲み込まれていくのだと、彩音は思った。

「じゃあ、よろしくね」

 微かに聞こえる声に頷き、彩音はそのまま寝そべった。

 その場に寝転ぶように寝そべると、耳の穴ギリギリのところまで水がやってきた。セーラー服は水を吸って体に張り付いて、凹凸に乏しい彩音の体のラインを浮かび上がらせた。髪の毛は水に浮いて、ゆらゆらと光と一緒に揺れている。

 彩音が息を吸うと、睡蓮の匂いがした。

 その不思議な香りを吸い込みながら、雲ひとつ無い空を見上げて、彩音は右手の甲をおでこの辺りに乗せた。

 水の揺れる音を聞きながら、彩音はこの場所の心地よさに浸っていた。

 もしかしたら、ここが自分の目指している水槽の外の世界なのかもしれない。

 そんなことを思う。

 利香のいる世界。まっすぐで、邪魔するものなんて無くて、息が詰まることを知らないでいる世界。この真っ青な空のように、どこまでもどこまでもいけてしまいそうな世界に、彼女は住んでいる。

 それが羨ましかった。

 でも、それをするには水槽の中から出て行かなければいけない。そんな勇気が自分にはあるのだろうか。

 ずっと寝ていると寝てしまうのではないかと思っていたが、そんなことはなかった。こまめに休憩があり、そんな時は決まって利香が大きなバスタオルを彩音にかけた。

 太陽が真上にくる少し前、このまま太陽が昇り続ければ彩音と利香のいる場所の影がなくなって、直射日光が当たる直前に、利香が「出来た!」と叫んで腕を伸ばした。

 微かに聞こえたその声と同時に彩音は水の中から起き上がった。

「できたの?」

 耳栓を外すのを忘れてそう言ってしまって、自分の中に声が響いて酷く気持ち悪い気分を味わった。

 耳栓の端を掴んで耳から抜くと、空気が耳の中に微かな音を立てて入り込んだ。少し涼しくて、こそばゆい。

「うん、できたよ。見る?」

「うん、見せて見せて」

 メガネを受け取り、絵を見る。下描きになっているそれは、睡蓮の中に浮かび上がる少女を見事にキャンバスに封じ込めていた。

 勿論、色がまだ付いていないので、物足りなさもあるが、それを差し引いてもいい絵が描けていた。

 睡蓮の数はプールに浮いている以上に描かれていて、一瞬、睡蓮の園の中で死んでいるみたいに見えた。けれど、顔に触れている手、そして、少し口元の緩んでいる表情からは一切死のイメージが見えない。

「どうかな?」

 彩音はその言葉に答えずに、プールの中で方向転換をして、四つんばいになって絵に近寄っていく。水を吸った制服が重くて、風邪をひいた時の様に手足が重い。

 イーゼルの上に乗ったその絵を近くで見ると、愛おしさがこみ上げてきた。

 なんだか、愛情の篭ったプレゼントを貰ったかのように思えてきて、心臓が跳ねるように動き始めた。

「うん、いい。いいよ」

 何がどういいのかわからず、そう言うと、利香が弾けるような笑顔でそれに答えてくれた。

「嬉しい、ありがとう」

 利香はプールに入り込んで、彩音の前に座り込んだ。

 薄く青いジーンズが、水をあっという間に吸っていく。

「何してるのよ、利香」

「だって、嬉しかったから」

 さらに、濡れている彩音を抱きしめようと利香が犬のように突進してきたので、二人はそのままプールに倒れこむことになった。

 静かな庭に、水音が響く。

 遠くで鳴いている鳥の声も、工場の稼動音も、その音で一瞬だけかき消された後、また何事もなかったかのように、庭の中に入り込んだ。しかし、それは、二人の耳元には届いていない。

 倒れこみ、利香が彩音の胸に顔を当てていると、下で彩音がもがいた。

「ちょっ、何するのよ、利香」

「んー、嬉しかったからもうちょっとだけ」

「濡れるわよ!」

「濡れてもいいよ、ここ、私の家だし」

「とにかく、離れてよ」

「駄目?」

 胸に顔を埋めていた利香が上目遣いでそう言うと、彩音の胸の中で心臓が突き破れるぐらいに跳ねた。耳に、血が流れこんでくるのがわかる。

「駄目っ……じゃないけど」

「じゃあ、もう少しこうする」

「……はいはい」

 諦めたかのようにそう言うと、彩音は空を見上げた。微かに見える太陽が、目を刺したので手で覆った。

 指先から漏れる光を見ながら、背中にある違和感にもう片方の手を伸ばす。

 指先に触れたそれを取り出すと、自分の背中で潰れてしまった睡蓮だった。水を滴らせながら水中から上げられたそれは、花の形が潰れてはいるものの、十分な美しさを保っていた。太陽の光を反射して光るその幸福な花の死に、彩音は少しの切なさを感じていた。

 美しく咲く花が、か弱いことは知っていた。けれど、それを実感することはなかった。今実感したその死は、あまりにも呆気ない。

 胸の中で目を閉じている利香を見ると、彼女はそのまま眠ろうとしているようだった。いつものようにその頭にチョップをお見舞いしようとしたが、手を振り上げたところで止めた。彩音は目を閉じてから、太陽を塞いでいた手を下ろして、利香の背中に両手を当てた。右手に持っている睡蓮を彼女の背中において、抱きしめる。

 太陽の光のせいで赤く焼けている自分の瞼の裏側に、先ほど見た睡蓮の白さと利香の背中を重ね合わせながら、彩音は利香の心臓の音を手で感じていた。

 それは、自分と驚くぐらいに似ていて、愛おしさを覚えた。

「ねえ、彩音」

 腕の中にいた利香が動いて、瞼の色が黒くなった。

 目を開けると、目の前で利香の頭が太陽を遮っていた。光を背負いながら、水を滴らせる彼女は、さっきの睡蓮のように儚くて、すぐに崩れてしまいそうだった。

「私達、こんな風にしか会えないなんて、悲しいね」

 心臓に杭を打たれたかのような衝撃を覚えた。

 利香は、そんなことを言わないと思っていた。

 空気も読まない、人を見ない、ただ自分のためだけに動いて、何もかもを自分の中で消化する人間だと思っていた。だけど、目の前にいる利香は、ただの少女だった。背中で簡単に潰れてしまった、睡蓮のように純潔で、か弱いただの少女。

 それを守ることもできない自分が、酷く醜い気がした。

 誰のためでもない、ただ、あの水槽の中にある『正しいこと』の為に、自分で自分を削って、笑っている。

 それが、恐ろしく気持ち悪い。

 自分は、泥に塗れていると思っていた。

 水槽の中で、汚い人間関係の中で自分を埋没させて、そのまま泥に浸っていると思っていた。でも、それは違う。何も汚れてなんかいなかった。ただ、水槽の中で泳いで、外の世界を否定していただけだった。

 正義も悪も、真実も嘘も、綺麗も醜いも、集団も孤独も、何もかも水槽の中で与えられたものでしかなかった。

 自分はこのまま、泥にもなれずに中学生と言う時間を過ごすのだろうか。

 考えていなかった自分への質問が、心の奥底から現れて、彩音の心を殴った。

 でも、それは響かなかった。彩音の心の中にあるプラスチックの壁は、この中学の二年間で厚くなってしまっていた。

「うん……そうだね」

 心を殺した彩音が利香を抱いた。

 利香は彩音の拒否に気付いたかのようにまた胸に顔を沈めて、静かに泣き出した。

 その頭を抱きながら、彩音は空を見た。

 さっきまで利香が塞いでくれていた太陽の光が容赦なく彼女の目を刺してくる。彩音はしばらく太陽を見つめた。

 目が焼けるぐらいの熱さを感じ始めた後、ゆっくりと目を閉じた。

 眼球の暑さを、瞼が吸い取ってくれるような気がした。出来ることなら、今出そうになっている涙も、このまま蒸発してしまえばいい、そんな風に祈りながら、耳に聞こえる水の揺らぐ音に自分の心を寄せた。