「起きて、彩音」
利香の声で、彩音はうっすらと目を開けた。
水の中から外を見ていたようになっていた世界が徐々に形を取り戻して、ゆっくりと馴染みの世界になった。
「ん?」
意図せずにそう声を上げた。自分がどうしてここにいるのかを忘れてしまった彩音は、周囲を見渡してから、やっとのことで全てを把握した。
「え、あれ?寝てたの、私」
「うん、ぐっすりと」
「ごっ、ごめん!」
起き上がって頭を下げると、利香はその頭を抱いた。
「大丈夫だよ、逆に自然な姿が描けてよかった。最初のほうはガチガチだったからどうしようかと思ったけど、寝息が聞こえ始めてからはなんだか自然な感じで仰向けになってたから、すごく描きやすかった。何枚か描いてみたんだけど、見る?」
「うん」
脇にある開かれたスケッチブックを渡され、中身を確認すると、この前よりもはっきりとしたものが描かれていた。
しかし、顔だけは十字の線が描かれているだけで、表情が描かれていなかった。
「これ、なんで顔が描かれてないの?」
「今回はさ、とりあえずポージングとか決めたかっただけだし、ほら、この前言ってたセーラー服も、貸してないでしょ?」
「あ、そういえば」
「うん、だから、今回はここまで。それにほら、時間」
部屋の隅にあるデジタル表示の時計を指差された。十八時数分前を表示しているそれを見ながら、彩音は、そっか、と呟いた。
「とりあえず今日見た感じでまた詰めてさ、今度は本格的にキャンバスに描くから。長時間になると思うんだよね。だから、今日はこれで終わり。今度は髪の毛濡らすから、ちょっと大変だと思うけど、悪いけど協力よろしく」
「うん、わかった」
ベッドから降りて、脇に置いてある鞄を肩にかける。
「ねえ、今日のことなんだけど」
急に、冷静になった自分がその言葉を発した。
「勿論、黙ってるよ。私も邪魔されたくないし」
「ありがと」
「玄関まで送るよ」
他愛の無い会話をしながら、階段を下りていく。上っている時も感じたが、ここの家の階段は少し急だ。降りる時にはそれがよくわかる。前を行く利香のつむじを見て、急斜面であることを認識しないようにしていると、恐怖心が和らいだ。
あっという間に玄関に着いてしまい、帰りたくなくなった。けれど、そんなわがままを言えるわけもなく、靴をゆっくりと履きながら、少しだけ留まる時間を増やした。
「じゃあ、また」
「うん、また」
明日、とは言わない。
明日、水槽の中に帰れば、自分たちは赤の他人に戻る。否が応でもそうしなければいけない。
それに、そうしてくれと言ったのは、彩音だ。
水槽に帰ることで、自分が自分でいられると信じてた。だけど、この数日で変わってしまった。
あの水槽への違和感が拭えなくなっている。
いっそのこと、水槽を飛び出して……そう考えると、心の底から恐怖が浮かんできて、冷たい血を血管の中に送り込んだ。
玄関を開けると、風が入り込んだ。
「涼しい……もう、秋の気配って感じだね。昨日までは、夏休みだったのに」
その言葉に、少しだけ頷いて、彩音は外へと出て行った。
涼しくなんてない。
血管を巡る冷たい血が体の感覚を奪っていて、それどころではなかった。だけど、彼女といたいと思った。
だって、自分を曝け出せるから。
彩音は風に乗るように早足で歩き出した。背にした夕日が道路の影に異形の化け物のような影を作り出している。
手と足の長い、人間のような人間でない何か。
それを見ながら、自分もいつか、水槽の中で腐っていったら、養分にもならずにこんな風に化け物になるんじゃないか、と彩音は心配になった。
もう一度、風が吹いた。
そんな心配を少しだけ和らげるような温かい風。
少しだけほっとしながら、前を向いて歩き出すと、遠くに見える工場で鉄と鉄のぶつかる大きな音がした。
利香の声で、彩音はうっすらと目を開けた。
水の中から外を見ていたようになっていた世界が徐々に形を取り戻して、ゆっくりと馴染みの世界になった。
「ん?」
意図せずにそう声を上げた。自分がどうしてここにいるのかを忘れてしまった彩音は、周囲を見渡してから、やっとのことで全てを把握した。
「え、あれ?寝てたの、私」
「うん、ぐっすりと」
「ごっ、ごめん!」
起き上がって頭を下げると、利香はその頭を抱いた。
「大丈夫だよ、逆に自然な姿が描けてよかった。最初のほうはガチガチだったからどうしようかと思ったけど、寝息が聞こえ始めてからはなんだか自然な感じで仰向けになってたから、すごく描きやすかった。何枚か描いてみたんだけど、見る?」
「うん」
脇にある開かれたスケッチブックを渡され、中身を確認すると、この前よりもはっきりとしたものが描かれていた。
しかし、顔だけは十字の線が描かれているだけで、表情が描かれていなかった。
「これ、なんで顔が描かれてないの?」
「今回はさ、とりあえずポージングとか決めたかっただけだし、ほら、この前言ってたセーラー服も、貸してないでしょ?」
「あ、そういえば」
「うん、だから、今回はここまで。それにほら、時間」
部屋の隅にあるデジタル表示の時計を指差された。十八時数分前を表示しているそれを見ながら、彩音は、そっか、と呟いた。
「とりあえず今日見た感じでまた詰めてさ、今度は本格的にキャンバスに描くから。長時間になると思うんだよね。だから、今日はこれで終わり。今度は髪の毛濡らすから、ちょっと大変だと思うけど、悪いけど協力よろしく」
「うん、わかった」
ベッドから降りて、脇に置いてある鞄を肩にかける。
「ねえ、今日のことなんだけど」
急に、冷静になった自分がその言葉を発した。
「勿論、黙ってるよ。私も邪魔されたくないし」
「ありがと」
「玄関まで送るよ」
他愛の無い会話をしながら、階段を下りていく。上っている時も感じたが、ここの家の階段は少し急だ。降りる時にはそれがよくわかる。前を行く利香のつむじを見て、急斜面であることを認識しないようにしていると、恐怖心が和らいだ。
あっという間に玄関に着いてしまい、帰りたくなくなった。けれど、そんなわがままを言えるわけもなく、靴をゆっくりと履きながら、少しだけ留まる時間を増やした。
「じゃあ、また」
「うん、また」
明日、とは言わない。
明日、水槽の中に帰れば、自分たちは赤の他人に戻る。否が応でもそうしなければいけない。
それに、そうしてくれと言ったのは、彩音だ。
水槽に帰ることで、自分が自分でいられると信じてた。だけど、この数日で変わってしまった。
あの水槽への違和感が拭えなくなっている。
いっそのこと、水槽を飛び出して……そう考えると、心の底から恐怖が浮かんできて、冷たい血を血管の中に送り込んだ。
玄関を開けると、風が入り込んだ。
「涼しい……もう、秋の気配って感じだね。昨日までは、夏休みだったのに」
その言葉に、少しだけ頷いて、彩音は外へと出て行った。
涼しくなんてない。
血管を巡る冷たい血が体の感覚を奪っていて、それどころではなかった。だけど、彼女といたいと思った。
だって、自分を曝け出せるから。
彩音は風に乗るように早足で歩き出した。背にした夕日が道路の影に異形の化け物のような影を作り出している。
手と足の長い、人間のような人間でない何か。
それを見ながら、自分もいつか、水槽の中で腐っていったら、養分にもならずにこんな風に化け物になるんじゃないか、と彩音は心配になった。
もう一度、風が吹いた。
そんな心配を少しだけ和らげるような温かい風。
少しだけほっとしながら、前を向いて歩き出すと、遠くに見える工場で鉄と鉄のぶつかる大きな音がした。