日曜日、佐久間くんの家に行こうと、少し気に入っている服を着て、家を出ようとしたその時だった。
「沙織」
お母さんに声を掛けられ、嫌な予感がした。体が少し強張る。別に怒っている声でもなんでもないのに、ただ怖いと思う。これは刷り込みだ。
なに、と頑張って普通の顔をして振り返る。お母さんはいつも通り優しい顔で私の格好を上から下までじっくりと見ていた。背中にじわりと汗をかく。
「その服、いつから着てる?」
「……あー、長いかも」
「やっぱり? そういえばって思ったのよ。そろそろ沙織にはちょっと幼いかもね」
もう高校生なんだから、とお母さんが優しい笑みと共に言う。
「……そうだね、今度捨てとく」
「もうちょっと大人っぽいの、今度買いに行こうか」
「うん」
私は上手く笑えているだろうか。まだこの服が着たい、と駄々をこねる子どものようになっていないだろうか。上手くお母さんを騙せているだろうか。
いってきます、と敢えて大きな声で言って家を出る。お母さんが見てないと確信するまで歩いてから深く深く息を吐いた。
教えてもらった住所をアプリに入れ、佐久間くんの家に辿り着いた。
初めての家って緊張するな、と思いながらインターホンを押すと佐久間くんはすぐに出てきてくれた。
本当に来てくれた、と嬉しそうな顔をしてくれる。
「上がって上がって」
お邪魔します、と頭を下げて佐久間くんに促されるままに階段を上がろうとした時、リビングと思わしき部屋から女の人が出てきた。
私たちより年上に見える、佐久間くんによく似た目をしていたその人に私は慌てて会釈をする。きっと佐久間くんのお姉さんだろう。
「あ、練習台になってくれるって子? うちの弟がわがまま言ってごめんねー」
「い、いえ」
「姉ちゃん、やめろって」
佐久間くんがお姉さんに向けて顔を顰めながら、上がっていいよと私に優しく言ってくれる。
お邪魔してます、ともう一度頭を下げてから二階に上がらせてもらう。
佐久間くんの部屋は私の部屋と違ってベッドや勉強机が置いてあって、真ん中に置かれたテーブルにはもうネイル道具と思われるものが並べられていた。
佐久間くんが少し遅れてジュースの入ったペットボトルとコップを持って部屋に入ってくる。
カーペットの上に座らせてもらうと、佐久間くんは楽しそうな様子で尋ねてきた。
「さっそくなんだけど、どんなのがいいとかある?」
「え、あ、お任せで……」
「おっけー」
おずおず、と指を多少広げて両手を差し出すと、クッションのようなものを下に置いてくれた。
こんなものが……そういえば、私はあのマニキュアを綺麗だと思って購入して使ってはいるけど、正しい使い方とか全然知らないな。
「爪のケアからしていきますねー」
「わ、ネイリストっぽい……あ、や、行ったことないんだけど」
「はは、わかる。ていうか、実は俺も。行ったことないんだよね、行きたいけど。一人じゃ、ちょっと……」
佐久間くんに最初に除光液を貸してもらった時、佐久間くんは言いふらしてほしくないと言っていた。
それはつまり、身近な人もきっと佐久間くんがネイリストになりたいと思っていることを知らないのだ。知られたくないのかもしれない。
だからきっと学校で仲良くしている友達のことも誘えないのだろう。
「いつも一緒にいる友達には言ってないんだ」
ほら、やっぱりそうだ。何を言っていいかわからなくて黙ってしまう。
佐久間くんが私の爪にオイルを塗るために下を向きながら話す。
「昔さ、可愛いものが好きって友達に言ったら、男なのに変って言われて……それからなんとなく、家族以外に話せなくてさ」
「……うん」
「田城さんがそういうの、言わないでくれて安心した。気にしてないフリしてたけど、心のどっかでずっと怯えてたから。俺、怖がりなんだ」
すごいな、と素直に思った。この人はそんな風に怯えていても、私を助けてくれたのか。私が誰かに言うかもしれないのに。嫌な思いをするかもしれないと思いながらも、この人は手を差し伸べてくれた。
私にできるだろうか。自分が大切にしているものをお母さんに気づかれてしまうかもと思いながら、誰かを助けることなんて。
「誰かに言わないでいてくれたのも、なんていうか、ありがたい。あ、別に良いふらすって思ってたわけじゃなくて」
「ううん、大丈夫」
佐久間くんはほっとしたように表情を緩めた。私までほっとする顔だった。
それから佐久間くんは肩の力が抜けたように、今度あるテストの話や体育祭の話で笑わせてくれた。その間も手が止まらないのだからすごい。
棚に並べてある道具の説明も面白いし、びっくりするくらい種類のあるマニキュアの便も眺めているだけで楽しい。
時間をかけて私の爪が彩られる。青に近い紺色に金色のラメが散りばめられていて、指ごとに少しずつ色合いが違う。
「綺麗……写真撮ってもいい?」
「もちろん。あ、俺もいい?」
「うん」
二人で写真を撮り合い、顔を見合わせて少し笑った。温くなったジュースを飲んでほっと息を吐く。
「田城さんの服に合わせてみた。素敵だなーって思って」
確かに私が着ている服は紺色のワンピースだ。白い襟は星の形を模してある。捨てようと決めたこの服がその言葉で惜しくなった。
「私も、気に入ってたの」
そうだ、本当は気に入ってた。何年も着るくらいには。たまに取り出して汚したくないから今日はやめようかと真剣に考えるくらいには。そして今日、本当に楽しみにしていたから着てきた。捨てたくなんてなかった。捨てたくなんてない。そんな簡単なことも私は言えなかった。
「ネイルサロン、私も行ってみたいな」
いつもなら言えないことも、佐久間くん相手なら言えた。
「一緒に行ってくれるってこと?」
「うん、行きたい」
「まじ? 俺が行きたいところ、何箇所か見繕ってるんだけど、見る?」
嬉しそうに見せてくれるスマホを覗き込む。ここ素敵、このデザインいいね、なんて言い合っているうちに時間は瞬く間に過ぎて、私は初めて門限ギリギリの時間に帰宅した。
「沙織」
お母さんに声を掛けられ、嫌な予感がした。体が少し強張る。別に怒っている声でもなんでもないのに、ただ怖いと思う。これは刷り込みだ。
なに、と頑張って普通の顔をして振り返る。お母さんはいつも通り優しい顔で私の格好を上から下までじっくりと見ていた。背中にじわりと汗をかく。
「その服、いつから着てる?」
「……あー、長いかも」
「やっぱり? そういえばって思ったのよ。そろそろ沙織にはちょっと幼いかもね」
もう高校生なんだから、とお母さんが優しい笑みと共に言う。
「……そうだね、今度捨てとく」
「もうちょっと大人っぽいの、今度買いに行こうか」
「うん」
私は上手く笑えているだろうか。まだこの服が着たい、と駄々をこねる子どものようになっていないだろうか。上手くお母さんを騙せているだろうか。
いってきます、と敢えて大きな声で言って家を出る。お母さんが見てないと確信するまで歩いてから深く深く息を吐いた。
教えてもらった住所をアプリに入れ、佐久間くんの家に辿り着いた。
初めての家って緊張するな、と思いながらインターホンを押すと佐久間くんはすぐに出てきてくれた。
本当に来てくれた、と嬉しそうな顔をしてくれる。
「上がって上がって」
お邪魔します、と頭を下げて佐久間くんに促されるままに階段を上がろうとした時、リビングと思わしき部屋から女の人が出てきた。
私たちより年上に見える、佐久間くんによく似た目をしていたその人に私は慌てて会釈をする。きっと佐久間くんのお姉さんだろう。
「あ、練習台になってくれるって子? うちの弟がわがまま言ってごめんねー」
「い、いえ」
「姉ちゃん、やめろって」
佐久間くんがお姉さんに向けて顔を顰めながら、上がっていいよと私に優しく言ってくれる。
お邪魔してます、ともう一度頭を下げてから二階に上がらせてもらう。
佐久間くんの部屋は私の部屋と違ってベッドや勉強机が置いてあって、真ん中に置かれたテーブルにはもうネイル道具と思われるものが並べられていた。
佐久間くんが少し遅れてジュースの入ったペットボトルとコップを持って部屋に入ってくる。
カーペットの上に座らせてもらうと、佐久間くんは楽しそうな様子で尋ねてきた。
「さっそくなんだけど、どんなのがいいとかある?」
「え、あ、お任せで……」
「おっけー」
おずおず、と指を多少広げて両手を差し出すと、クッションのようなものを下に置いてくれた。
こんなものが……そういえば、私はあのマニキュアを綺麗だと思って購入して使ってはいるけど、正しい使い方とか全然知らないな。
「爪のケアからしていきますねー」
「わ、ネイリストっぽい……あ、や、行ったことないんだけど」
「はは、わかる。ていうか、実は俺も。行ったことないんだよね、行きたいけど。一人じゃ、ちょっと……」
佐久間くんに最初に除光液を貸してもらった時、佐久間くんは言いふらしてほしくないと言っていた。
それはつまり、身近な人もきっと佐久間くんがネイリストになりたいと思っていることを知らないのだ。知られたくないのかもしれない。
だからきっと学校で仲良くしている友達のことも誘えないのだろう。
「いつも一緒にいる友達には言ってないんだ」
ほら、やっぱりそうだ。何を言っていいかわからなくて黙ってしまう。
佐久間くんが私の爪にオイルを塗るために下を向きながら話す。
「昔さ、可愛いものが好きって友達に言ったら、男なのに変って言われて……それからなんとなく、家族以外に話せなくてさ」
「……うん」
「田城さんがそういうの、言わないでくれて安心した。気にしてないフリしてたけど、心のどっかでずっと怯えてたから。俺、怖がりなんだ」
すごいな、と素直に思った。この人はそんな風に怯えていても、私を助けてくれたのか。私が誰かに言うかもしれないのに。嫌な思いをするかもしれないと思いながらも、この人は手を差し伸べてくれた。
私にできるだろうか。自分が大切にしているものをお母さんに気づかれてしまうかもと思いながら、誰かを助けることなんて。
「誰かに言わないでいてくれたのも、なんていうか、ありがたい。あ、別に良いふらすって思ってたわけじゃなくて」
「ううん、大丈夫」
佐久間くんはほっとしたように表情を緩めた。私までほっとする顔だった。
それから佐久間くんは肩の力が抜けたように、今度あるテストの話や体育祭の話で笑わせてくれた。その間も手が止まらないのだからすごい。
棚に並べてある道具の説明も面白いし、びっくりするくらい種類のあるマニキュアの便も眺めているだけで楽しい。
時間をかけて私の爪が彩られる。青に近い紺色に金色のラメが散りばめられていて、指ごとに少しずつ色合いが違う。
「綺麗……写真撮ってもいい?」
「もちろん。あ、俺もいい?」
「うん」
二人で写真を撮り合い、顔を見合わせて少し笑った。温くなったジュースを飲んでほっと息を吐く。
「田城さんの服に合わせてみた。素敵だなーって思って」
確かに私が着ている服は紺色のワンピースだ。白い襟は星の形を模してある。捨てようと決めたこの服がその言葉で惜しくなった。
「私も、気に入ってたの」
そうだ、本当は気に入ってた。何年も着るくらいには。たまに取り出して汚したくないから今日はやめようかと真剣に考えるくらいには。そして今日、本当に楽しみにしていたから着てきた。捨てたくなんてなかった。捨てたくなんてない。そんな簡単なことも私は言えなかった。
「ネイルサロン、私も行ってみたいな」
いつもなら言えないことも、佐久間くん相手なら言えた。
「一緒に行ってくれるってこと?」
「うん、行きたい」
「まじ? 俺が行きたいところ、何箇所か見繕ってるんだけど、見る?」
嬉しそうに見せてくれるスマホを覗き込む。ここ素敵、このデザインいいね、なんて言い合っているうちに時間は瞬く間に過ぎて、私は初めて門限ギリギリの時間に帰宅した。