小指の爪に塗ったマニキュアを落とし忘れていると気がついたのは、朝のホームルームが始まる前だった。
 気づいた瞬間に白いマニキュアと同じように血の気が引くのが分かった。
 どうしよう、ということだけが頭を占めた。気づかれないだろうか、今日一日。手を握っていれば、大丈夫だろうか。いやでも、今日は体育がある。バドミントンのラケットを振らなければならないし、体育教師はかなり厳しい。気づかれないのは無理だろう、どうしよう。
 うちの学校はすごく校則に厳しいわけではないけど、緩いわけでもないが、マニキュアを塗っているとバレたらどの教師でもそれなりの説教くらいはあるはずだ。
 それだけならいい、それだけなら。もし、もしも、家に連絡があってお母さんに知られてしまったらどうしよう。
 また「卒業」させられてしまうかもしれない。そう思ったら大人しく座っていることなどできなかった。
 水で擦るくらいでは落ちないと頭ではわかっているのに何もしないではいられなくて、トイレに向かおうと足早に教室を出た。
 急いでいたから廊下で人にぶつかりそうになって、慌てて一歩下がりながら頭を下げる。


「ご、ごめん」


 ぶつかりそうになったのはクラスメイトの佐久間くんだった。怖い先輩じゃなかったことに少しほっとする。佐久間くんとはあまり話したことはないけど、よく挨拶してくれる優しい人だから。


「それ」


 急いでいるから、と横を通り抜けようとしたその時、佐久間くんは真っ直ぐに私の手を指差した。


「落とし忘れ?」


 マニキュアを塗った指のことを指しているのだと、すぐには気づかなかった。
 数秒遅れてから、パッと手を隠す。ほんの一瞬だったはずなのに、小指一本爪一つのことなのに、どうして気づいたのだろう。


「ちょっと待ってて」


 私の混乱など気にも留めず、佐久間くんはそう言い残して教室に入ってしまった。
 これは、私はどうすれば……と迷っている間にも佐久間くんはすぐに教室から出てきた。


「はい、除光液。すぐ落とせばホームルームには間に合うと思うよ」


 佐久間くんはそう言って私の手に滑り込ませてきた。
 咄嗟に返事ができなくて、中途半端に口を開けて佐久間くんを見上げてしまう。
 あ、とようやく声が出た時、佐久間くんは小さく笑った。


「なんでこんなの持ってるの? って言いたい?」

「え?」

「違った?」


 諦めたみたいに笑うんだな、と何故か思った。どうしてこんな風に笑うのだろう。いつもの柔らかな笑い方とは違う。
 そして言われてみて初めて、確かになんで持っているんだろうと思った。たまたま持っていた、というものではないだろう。でもそれを問い正したいわけじゃない。


「え、あ、いや……お、お礼を、言いたかった、だけで」


 もごもごと口にすると、佐久間くんは軽く首を振った。


「ああ、いいよ、そんなの。俺もたまに塗るから、持ってただけ。落とし忘れると困るよね。気持ちわかるから渡した、それだけだよ。ま、あんまり言いふらしてほしくはないけど」

「い、言わないよ」

「そう。ありがとう」


 じゃあ、と言って佐久間くんは教室に入ってしまった。
 私は少しの間ぼうっとして、それから急がないと、と慌ててトイレに向かった。
 マニキュアは問題なく落とすことができて、ホームルームにも間に合ったけど、その日のうちに佐久間くんに除光液を返すことはできなかった。