その時、突風が吹いた。強い風だ。思わず猫の足でベンチにつかまる。そうしていないと、本当に吹き飛ばされてしまう気がした。
――あぁ。
その時ふと、気が付いた。
――先生、これでお別れですね。
吹き飛ばされるのは、意識が持っていかれるのに似ていた。
――また会える日を、楽しみにしてますから。
意識が持っていかれて、現実に引き戻されるのだろう。
――最後じゃ、ないですからね。
その発想は、すとんと胸の奥に落ち着いた。
――約束ですよ。
強い風の中、揺さぶられる体で、必死に顔だけは先生に向けた。
現実に戻るその瞬間まで、この目に先生の姿を焼き付けた。
***
「――サクラ?」
鳴上爽文は、勝手に名付けていた猫の名前を呼ぶ。この黒猫、やっぱり雰囲気が佐倉に似てるなあ。艶のある黒髪と黒い毛並み。いつもかけていた青の太いフレームの眼鏡と、綺麗で青い猫の瞳……。
そんなことを考えてぼーっとしていたら、はっとするような突風が吹いた。
気が付くと、隣のぬくもりは消えていた。
風にかき消されたような、淡い猫の記憶。
「帰るか」
ひとり呟き、爽文は帰路につく。あの猫はきっと、ふらっとどこかへ帰ったのだ。飼い猫のようでもあったし。
公園を出る前に爽文は振り返り、
「またな」
と言った。姿の無い、淡い猫の面影に向かって。姿は無くても、届くように。なぜだかここに来ればまた、会える気がしていた。
***
目を覚ますと、優衣はここ一か月弱で過ごしなれた病室のベッドにいた。陽は大分傾いて、病室はオレンジ色に染まっている。
――そっか、昼寝しちゃったんだっけ。
意識を手放す、猫になる直前の記憶を私は辿った。
ガラケーを開き、メール機能を開く。
先生の夢を見ました。
そんな文面を打って、慌てて消した。連絡先を交換してから、連絡がしてみたくてたまらなかった。きっかけを探していた。
――いやいや! でもこの文面は危ない!
やばい奴だ。
そもそも、本当に夢だったのだろうか。随分とリアルで、時間まで現実とリンクしていた。
――でも、猫になるなんて……。
それもまた信じられない話だ。
ヴヴヴヴヴヴ……!
その時、マナーモードの携帯が私の手の中で震えた。
「あわわわわっ!」
私は驚いて、携帯を落としそうになりながら慌てて画面を見る。新着メールを知らせる画面。
「わぁっ」
思わずため息のような呟きが漏れた。メールを開くとまず、携帯の画面いっぱいに桜が広がっていたのだ。メール内に、大きな桜の木を、見上げる形のアングルで撮った写真が添付されていた。
それと同時に、その桜の大木には見覚えがあった。夢で先生と見上げた公園の桜だ。そのことに驚いて、息を呑む。
『今日お前に雰囲気の似た黒猫と散歩で来た公園で見つけた』
本文はそれだけ。よく見ると、タイトルに『並木道より綺麗だろ?』とある。
「なんだ、先生も同じこと考えてた」
私は笑う。
あれは夢だったのだろうか。でも、猫になるなんて非現実的だ。もしかしたら、先生と同時に、同じ夢を見ていたのかも知れない。それはそれで運命みたいで良いな。
私は少しだけ返信するのをを待った。
夜になって、私は病室の窓際まで行った。月明かりに照らされた、綺麗な桜を写真に撮る。
その写真をメールに添付する。少し考えて、タイトルに『月が綺麗ですね』と添えて返信を送った。
きっと今の私はいつかの先生みたいに、いたずらっ子のような顔で笑っているに違いない。
その日、足の痛みはほとんど無かった。窓際まで動ける程だ。鳴上先生の、優しい手当のおかげかも知れない。
――久々にゆっくり眠れた。
あれから私は退院して、新しいクラスでも頑張って過ごしている。お昼休みには柚騎と他クラスから美香も合流して一緒にお弁当を食べていた。
ガラケーの待ち受けは先生からの桜の写真。お守り代わりにして、勇気を貰っている。
やっぱり鳴上先生は、いつでも私を支えてくれる、偉大な先生だと思う。
いつか、あの桜並木を見つけて。
その並木道に誘われるように、あの公園へもう一度行きたいと思う。
そこで先生と再会を果たせたら、今度こそ。
離任式で伝えられなかった沢山の、
――感謝を伝えよう。
完