先生は複雑な顔をして、そう言った。でも、それはとても優しい表情で、私は不思議で仕方なかった。先生は何を考えているのだろう。
「そろそろ帰るよ」
「はい……また」
私は迷った結果「それじゃあ」でも「さよなら」でもなく「また」と言った。
先生と喋りながら、連絡先を教えて貰った。部顧問の先生なんかは生徒にメアドとかを教えてる先生も多いから、問題は無い。きっとまだ、先生との縁は切れてないから。また、と再会を誓う。
「思うところがあったのは、きっとお前の――佐倉のおかげだな」
病室から出るときに、先生が何か言った気がしたけど、私には聞こえなかった。
***
春休みに入って、お見舞いに来てくれる友達が増えた。
頭の良い友達には休んでいた分の授業を教えて貰った。
新しいクラスが不安だ。
終業式にも出れなくて、始業式にも出られない。
途中参加のようになる新しいクラスでは、上手くやれるだろうか。
馴染めるかな。
少なくても良いから、友達できるかな。
鳴上先生に相談すればきっと、くだらんなぁ、と不安も断ち切ってくれる。
直接言って貰えないのが切なくて不安だけれど、きっと大丈夫と、自分に言い聞かせた。
始業式のクラス発表を、美香がメールで送ってくれた。同じクラスに、親友の柏木柚騎がいて、とりあえず一安心だ。
病室の窓から見える、中庭の桜の木。入院した時は蕾だったのが、もう満開だ。時間の経過を感じて、学校を意識する。病院に居る私は、学校の時間から取り残されてしまいそうで、少し焦る。
それに、最近は足の痛みが不定期にやって来る。四月に入って落ち着いていたのに、これでは退院が延期するのではないかと不安だ。痛みが早めに引けば、離任式に出れるかもしれないと、淡い期待をしていたのに。――離任式まで、あと一週間。
夜に眠れなくなった。月の光で目が冴えた日があった。曇りの日には寝れるかと思ったが、そんな日に限って足が痛んだ。――離任式まであと五日。
春の陽ざしを浴びながら、満開の桜を見るのは好きだった。けれど、曇りが続いてそれも楽しめないでいる。雨の降りそうな雲がくすぶっている。今雨が降ったら、折角の満開の桜が散ってしまう。早く晴れないかと願う日々だ。――離任式まであと三日。
雨が降った。桜が散ってしまうのは悲しい。病院ではどうせ暇だから、この日は散りゆく桜を眺めていた。――離任式まであと一日。
離任式当日。やっぱり私は退院できなかった。心のどこかではわかっていたのだけれど、やっぱり悔しい。
その日は一日中、時計を気にしていた。三時間目が終わった。お昼休み。五時間目が終わった。離任式。
――ぎしりと、足が痛んだ。
昨日の雨が嘘のように、今日は一日晴れていた。
離任式が雨に降られなくて良かったと思う。
今夜も眠れなくて、月の光を浴びていた。
消灯後の病室に月光は随分明るいと、約一か月の入院生活でもう知っていた。
今日の月は、まるでスポットライトのように、私の右足をくっきりと宵闇に浮かび上がらせる。
もう、鳴上先生に会えないんだなぁ。
離任式に出られなかったやるせなさで、それを実感して、涙が出た。
今までと違って、初めて悲しくて泣いた気がする。
自分や、足を責めるのではなく、先生が居なくることが悲しくて泣いた。
その日は酷く足が痛んで、動けなかった。
――一睡も、出来なかった。
次の日は暖かな春の陽ざしが病室に差し込んで、寝不足の私には昼寝の誘いでしかなかった。
足は昨日の夜から痛むままだが、まるで春の陽ざしが痛みを和らげてくれたようだった。
私はこっくり、こっくりと舟を漕ぎ始め、重い瞼を閉じて――意識を手放した。
* * *
目を覚ますと、そこは見慣れない場所だった。
まるで這いつくばっているかのように、体の、視線のすぐ先にコンクリートがあった。
背が縮んだどころの騒ぎじゃない。
今までにないほど低い。
景色も見慣れない。
ここはどこだろう。
夢でも見ているのだろうか。
相変わらず右足だけが痛み、その痛みだけが現実とつないでくれているようだった。
歩こうと思うと、自然と右手が前に出た。そして、視界には黒い毛玉が現れた。
――ん!?
何かおかしい。何が、とはまだはっきり言えない。得体のしれない違和感だけが、しっかりと感じられる。
鏡を探すが、夢とはいえそう都合よくは無い。
とりあえず、地面のコンクリートからここが屋外で道路だとわかる。周りは見たことのない景色だが、自然豊かで緑が多い。
日本家屋の一軒家と、マンション、スーパー、コンビニ、コインパーキング。
とりあえず、一軒家の庭先にお邪魔する。ここで鏡じゃなく水たまりを探す私はきっと賢い。
けれど――ない。
水たまりなんて無かった。考えてみれば、昨日も今日も晴天で、水たまりは蒸発してしまっているはずだった。無駄に現実とリンクしている夢だ。
ここまできて、足の痛みがひどいので一旦休むことにする。
「猫か?」
そこに、聞きなれた声。見上げると、良く知った顔だった。
――鳴上先生!?
「にゃー!?」
私の出した声に驚く。日本語じゃない。でも、私が喋ろうとすると、猫が鳴く。その声は随分近くから。近すぎるくらい近く――自分の喉から聞こえた。
「どうした?」
鳴上先生は恐る恐る私に手を伸ばし、やっと届いたという感じで私の頭を撫でた。
「おぉ! 俺、犬にも猫にも懐かれないのに! 触らせてくれたの、お前だけだぞ!」
――いやいや、私先生のこと知ってるし。触らせないも何にも。嫌じゃないし……。あと、足が痛くて動けない。
そう思っていると、お前!! と鳴上先生が急に声を上げるものだから、私は飛び上がってしまった。ビクッとして、毛が逆立つ感覚。
――あ、体が勝手に威嚇してる。
「お前! 怪我してるじゃないか! 手当してやる、こっちにこい」
先生は私を抱き上げて、家に上げてくれた。毛を逆立てられ威嚇されていることには気づかない。鳴上先生が動物に懐かれないのは、威嚇に気付かないからじゃないだろうか。
「大丈夫か?」
先生は優しく手当をしてくれて、足の痛みが和らいだ。歩ける程度にはなっていた。
私は色々と諦めて、少しでも伝わるように願いながら、にゃーと鳴いた。どうせこれは夢なのだ。人の言葉を喋ろうともがいたって無駄だろう。
どうせいつかは覚める夢。それなら、折角夢で先生に会えたのだから、存分にこの夢を楽しもう。
「にゃー」
「そうか、良かった。動けるか?」
私は足を動かして見せる。
「大丈夫そうだな」
そう言って、安心したように先生は笑った。
先生が猫の私をちらちら見ながら、縁側へ出た。私もそれに続くと、自分の後ろをついてくる猫に先生は顔を綻ばせていた。
なかなかな懐かない猫に付いてきて欲しかったんだなぁ。
そう思うと、なんだか可愛い。
縁側へ出る際にガラス戸があり、そこに自分の姿を映してみた。綺麗なブルーの瞳の黒猫になっていた。ピンクの首輪には桜型のワンポイントが付いている。
先生は縁側でお茶を啜っていた。
私はこの際だからと先生にすり寄り、先生の隣で丸くなった。
「ほんっと、可愛い奴だなぁ、お前」
先生は笑って、湯呑を置くと私の顎をくすぐって来た。猫にとってこれは気持ち良いらしい。今の私も思わず目を細めてしまう。
そこで、先生は私の首輪に気付いた。
「お前、飼い猫か?」
私も夢の設定なんてわからないので首を傾げつつ、先生の隣で丸くなる。先生は笑って、私の頭を撫でた。私が猫としてしばらく先生の傍にいるつもりだとわかってくれたのだろう。
「すり寄ってくるあたりが、俺の生徒に似てるな」
先生のそんな呟きに私は首を傾げた。
「お前の首輪。そのワンポイントと同じ、サクラって生徒がな。こんなじいさんに懐いてくれてな」
先生が嬉しそうに話すので、こっちまで嬉しくなってしまう。
妙に照れくさくて、私は先生から顔を隠すために丸くなっていた。
「昨日離任式でなぁ。暇になっちまったよ」
私は丸くなって春の陽ざしを受けながら、先生の独り言を聞いていた。ぽかぽかと日向ぼっこしているうちに、私はいつの間にか眠ってしまっていた。
目を覚まして周りを確認すると、隣には先生が居た。先生もまた縁側で日向ぼっこして、昼寝してしまっている。
柱に頭を預けて、気持ちよさそうに座ったまま眠っている。寝かせておいてあげたいが、このままでは風邪をひいてしまう。私は先生の服の裾を引っ張って、先生を起こした。
「ん? あぁ、寝ちまってたんだなぁオレ。お前と会ったことまで夢じゃなくてよかったよ」
先生がそう言って笑いかけてくれた。
「にゃー」
私も返事をする。
「んー、寝てばっかりもなあ。隠居生活は暇だし、散歩でも行くか」
先生が庭先に出て、私を振り返る。
「お前も来るだろ?」
――はい!
返事の代わりに、私はにゃーと鳴いた。
先生は小柄で、足が短いから、歩幅も小さい。私は先生ののんびり歩きにペースを合わせながら四足歩行していた。途中で猫としての自分の脚力に気付き、ジャンプを繰り返して、塀の上を歩いたりもした。
「おい、こっちに行こう」
そう言って、先生は何かを見つけたのか少し歩くペースを早めた。私もついて行く。
「ナー」
私は思わず、そう鳴き声を上げた。
そこは並木道だった。満開の桜が道の両端に続いている。昨日の雨で散っていないのにも驚いたが、何より絶景だった。
「ここらの桜は咲くのが遅かったからなぁ。満開の前の雨っつーのは、桜を咲かせる雨らしいぞ」
先生の独り言に、先生らしいと思う。教師を辞めても、独り言まで何かを誰かに教えるような内容ばかりだ。
私は先生の言葉を聞きながら、納得して並木道を歩く。
――昨日の雨は、散らす雨じゃなくて、ここの桜にとっては咲かせる雨だったのね。
並木道の終わりは、小さな公園に続いていた。
公園の中央には桜の木。その木の下にベンチがある。
「一休みしていくか」
先生は猫を見下ろして、私に笑いかけてくれた。
先生がベンチに腰掛けて、足をぶらぶらさせている。
――子供みたい。
私はそっと微笑んだ。
春の風に吹かれながら、先生はどこか遠くを見つめて、ぼーっとしている。
考え込んでいるというか、物思いにふけっているようだった。
そっとしておこうと、私は先生に寄り添って黙っていた。
猫の視点になって、首が痛いくらい上を向いて、やっと桜を見上げることができる。
公園の中央の桜の木はとても大きく立派だった。春の風にそよそよと揺れる枝が、暖かい気持ちにさせてくれる。
ここに来るまでの桜並木も綺麗だったけれど、空に向かって伸びる堂々とした一本の桜の大木の方が、私は好きだった。
なんだか、明るくなれる。前を向ける気がするから。
その時、突風が吹いた。強い風だ。思わず猫の足でベンチにつかまる。そうしていないと、本当に吹き飛ばされてしまう気がした。
――あぁ。
その時ふと、気が付いた。
――先生、これでお別れですね。
吹き飛ばされるのは、意識が持っていかれるのに似ていた。
――また会える日を、楽しみにしてますから。
意識が持っていかれて、現実に引き戻されるのだろう。
――最後じゃ、ないですからね。
その発想は、すとんと胸の奥に落ち着いた。
――約束ですよ。
強い風の中、揺さぶられる体で、必死に顔だけは先生に向けた。
現実に戻るその瞬間まで、この目に先生の姿を焼き付けた。
***
「――サクラ?」
鳴上爽文は、勝手に名付けていた猫の名前を呼ぶ。この黒猫、やっぱり雰囲気が佐倉に似てるなあ。艶のある黒髪と黒い毛並み。いつもかけていた青の太いフレームの眼鏡と、綺麗で青い猫の瞳……。
そんなことを考えてぼーっとしていたら、はっとするような突風が吹いた。
気が付くと、隣のぬくもりは消えていた。
風にかき消されたような、淡い猫の記憶。
「帰るか」
ひとり呟き、爽文は帰路につく。あの猫はきっと、ふらっとどこかへ帰ったのだ。飼い猫のようでもあったし。
公園を出る前に爽文は振り返り、
「またな」