ピンと張りつめた夕方の風が髪をなでる。ふっと、柔らかに。このままずっと、春なんて来なければいいのに。静かに夕焼けを睨む。

ねえ、先輩。

目の前で揺れる大きな背中にそっと心で語り掛ける。

 私、去年までは春が一番好きだったの。3月生まれだし、桜とか、あたたかい風とか、柔らかい陽射しに安心していたの。でもね、これからは春なんて来なくていいと思っています。なぜって? そんなの、全部あなたのせいに決まっているでしょう。

 声にならない想いたちは、胸に冷たい水のようにすっと広がって、私の体温を下げる。そっと吐いた息だけがもやもやと白く濁った。

「寒いー。ちーちゃん何とかしてよー」
不意に小さな影が視界に飛び込み、先輩の背中を大きく揺らした。あ、愛だ。そう認識した瞬間、胸が冷たく、鋭く痛む。
「そんなのどうしようもないだろ。でも、今日はまだマシなほうだよ」
な、二宮。先輩がおひさまみたいな笑顔でこちら向いた。
「そ、そうですね。ほら、愛はちゃんとマフラー巻きなさい」
おひさまに燃やし尽くされてしまわないように、私は愛のやけに長いマフラーをぐるぐると巻き直す。
「二宮ちゃんは、器用だねー」
愛は笑う。このままマフラーをぎゅっと締めてみたらどうなるだろう。私は先輩の隣を歩ける? 
「浅井は不器用すぎだからな」
けれど先輩は笑うから。その笑顔を曇らせたくないから、マフラーは締められない。

 「心の内は、筆が全て知っている」
先輩の口癖が本当ならば、私のこの想いは、心は、あなたに伝わるのでしょうか。この絵を通して。それはとてもうれしくて、すこし、こわい。この絵を見たあなたはどんな顔をするのだろう。そんなことばかり考えてしまいます。
「二宮ちゃん、一番乗りだー」
ガラガラと扉が開き、静かだった教室に元気な声が響く。あわててキャンバスの絵を差し替えながら
「愛も早いね。先輩はまだ来ていないよ」
なんてことないように話す。そんな私にはお構いなしに愛は
「もうすぐ3月なのに寒いねー。桜もタンポポも泣いているぞー」
歌うようにキャンバスに絵の具を散らす。ピンク色や赤色、黄色たちがまるで愛と一緒に歌っているかのように鮮やかに広がっていく。『真面目』で『いい子』の私には絶対に描けない世界たち。
 けど、私にだって「想い」はあるから。そっと自分自身に言い聞かせる。実は今、もうすぐ卒業してしまう先輩へ贈る絵を描いているのだ。たった一人で美術部を存続させ、私と愛、絵画のイロハも知らなかった二人の後輩を立派に、とはいってもコンクールの常連は愛だけだけれど、とにかくまあ、育ててくれた先輩に感謝の意を込めて。
 なんて。そんなの嘘だけれど。本当は伝えたいのだ、今にも爆発しそうなこの想いを。

 「おお、浅井はこれまたすごい絵を描いているな」
そんな時、先輩の声がして私ははっと振り向いた。やっぱり先輩の視線は愛のほうを向いていて、分かってはいるのにそんな些細なことで気持ちは深く沈んでしまう。
「これはねー、早く春になってーって花たちが叫んでいる絵。いいでしょー」
すげー。先輩は無邪気に笑う。それから私のほうに視線を向けると
「二宮はちゃんとデッサンからやっているな。えらいぞ。おい、浅井も基礎は大切にしろよ」
またすぐにむこうを向いた。ほめてくれたのに、こっちも見てくれたのに、うれしいはずなのに。先輩との距離はよっぽど愛のほうが近いように思えて、私の胸にはしんしんと冷たい雪が降り積もる。どうせ、必死に頑張っても愛みたいな『自由』な子には敵わないのだ。
 私たちの様子を一通り確認した先輩は、少し真面目な顏をして言った。
「二人とも、来年からの部長についての話があるから聞いてほしい」
私と愛はそっと先輩のもとに足を向けた。
「俺としては、部長は、真面目でしっかり者の二宮に部長を任せたいと思っていた。ただ、顧問の古川先生が、その、浅井を推薦したいそうだ。浅井はこの前のコンクールでも入賞したし、良い広告塔になるって」
 いつもなら、
「えー」
とか
「やだー」
とかいちいち口をはさみそうな愛も、神妙な顔で話を聞いている。
「この部活、俺が卒業したら二人になっちゃうからな。とにかく新入部員が必要なんだとさ。それで部長を浅井に、それを補佐する副部長を二宮にお願いしたいと思うが、二人はそれで大丈夫か?」
二人は、そう言いつつもほとんど私のほうを向いて先輩は聞いた。
 
 うれしかったのだ、実は。今までことあるごとに時期部長扱いされていたことが。先輩の肩書を引き継ぐのは私って、そう思えたから。
 でも、私は『良い子』だから。だから、だから、笑え。
「それ、良いと思います。私、人前に立つのは苦手だし、裏できっちり愛をサポートします」
心の冷たい空気が溢れないように、スカートをぎゅっと握った。それとは裏腹に、教室の空気はほっと緩んで
「二宮ちゃんが良いならあたしはオッケー」
「浅井は適当すぎ」
二人は笑い、ああ、私の判断は間違っていなかったと思い知らされる。

その後、先輩と愛は部長引継ぎ内容について確認に職員室に向かい、私は一人部室に残された。そっと隠した絵を取り出し、筆を躍らせる。今まで描いてきた絵は、すべてお手本をなぞったかのようなものだった。だってそれしか絵を描くすべを知らなかった。それでもみんなは私のことを『絵の得意な二宮さん』と認識してくれていた。いや、昼休みもひとりぼっちでスケッチブックを開く、口数の少ない少女にはそうして認識付けをするより他なかったのかもしれないけれど。
でも、高校生になって世界が一変した。子供が描いたようにまっすぐな、それでいて何かを切実に訴える絵画たち。愛が描くのはただの絵ではなく、ひとつひとつがすでに作品だった。デッサンも
「なんか、面倒くさいー」
なんて言ってろくに行わないのに。子供みたいに騒いで歌って、ちっとも集中できないのに。それでも愛の絵は私が描くお手本の真似なんかより、よっぽど『優れている』ことをこの二年で痛いほど思い知らされた。
 でも、この絵だけは違う。だって初めて心から描きたいと思ったのだ。伝えたいと思ったのだから。それを教えてくれたのは、まぎれもない、千秋先輩だ。世界で一番大好きな、先輩。その想いをためらうことなくぶつけて描いた絵は、初めて『真面目』でも『良い子』でもなく、一つの作品としてそこにあった。

 裸だった校庭の木々には、あせって花開いてしまったつぼみの姿がちらほら見えるようになっていた。
「おーい、二宮」
おひさまみたいな、あたたかい声。振り向けば、いつもの笑顔。去年までの私なら、この笑顔だけで光を浴びたつぼみみたいに幸せだっただろう。でも、今は。花開くことを夢見てしまった今は。
「おはようございます、先輩」
今日はいよいよ卒業式。私の想いをぶつける日が来たのだ。
「いやー、卒業なんて実感わかないな」
いつもと変わらないこの声も、しかりと耳に焼き付けておきたい。
「あらー。ちーちゃんと二宮ちゃんったら、おそろいで登校ですか」
私の腕に絡みついてくるのは、もちろん愛。そっとこちらに笑いかけるので、私もアイコンタクトを返しておく。実は、卒業式の後にささやかな送別会を開くことにしたのだ。部室は昨日のうちにすっかり飾り付けてあるし、お菓子やジュースも買い出しに行った。そしてその後、私はこの気持ちを伝える気でいる。愛には知られたくないから、すべて終わったその後で、だ。

 形式通りの卒業式が終わり、私と愛は部室で先ほど呼び出した先輩を待っていた。
「あーあ。ちーちゃん遅いね」
「寄せ書きしたり、写真撮ったり、いろいろ忙しそうだったからね」
「そっかあ」
「うん。多分だけど」
 愛と二人きりになると、なんとなく会話は弾まない。来年から大丈夫かな。早くも不安になる私に、愛はそうだと画用紙を引っ張り出した。
「これってさ、二宮ちゃんが描いた絵?」
「え?」
頭が真っ白になる。それは、私の想い。
「昨日、部室の飾りつけをしている時に見つけちゃったの。すごくきれいな絵だね。でも、何かさみしそうだったから、ちょっと書き足してみたの」
あはは、良くない? 無邪気に笑う愛。

 ああ、あの時にマフラーをきつく締めておくべきだった。

 私は無言で絵をひったくると、それをびりびりと破きました。
「え? 二宮ちゃん、どうしたの?」
愛の言葉なんか無視して破き続ける絵。こんなもの、消えてしまえ。

 「遅くなってごめん。急に呼び出して、何かあったか?」
タイミング悪く先輩が教室に入ってきました。カラフルな飾りつけ、愛の凍った顔、先輩の息をのむ音、すべてがやけに、鮮明。
「あ。ちーちゃん、二宮ちゃんがおかしいの」
半泣きの、甘ったれた、愛の声。
「おかしいのは愛のほうでしょ!」
 突然、爆音が響き、それが私自身の発したものだと認識するまでにはしばらく時間がかかった。唖然とする先輩と愛。
 ああ、私、『良い子』ですらいられなくなってしまった。いたたまれなくなり、教室を飛び出した私は、階段を駆け下り、校庭の奥へ奥へと逃げだした。世界が全部消えて、無くなればいいのに。

 「二宮」
うずくまる私に降り注ぐ声は、あいかわらずあたたかくて優しくて、それだけで泣きたくなる。
「先輩に」
「ん?」
「先輩に渡したかったのに、愛が愛の想いまで加えてしまったから、もうあの絵は破りました。私の想いだったのに」
「うん。ありがとう、二宮」
先輩の顔は、優しい。だから分かる、想いが伝わらなかったこと。だってあなたの顔は、あくまで先輩で、三笠千秋のものではないのだから。だから、私の胸ははちきれそうに冷たくなり、やがてやがて

「え、雪?」
ちらちらと、だんだん強く降るのは3月の雪。
 ああ、私の想いはちゃんと形になっていた。降りしきる雪は、冷えて固まった私の胸から溢れ出し、先輩の足元を固めていく。
「あなたが好きです。大好きです。このままずっと、私のそばにいて」
あんなに伝えられなかった思いも、沸点を越えたのか、さらさらと溢れて止まらない。
「え、二宮、急にどうしたの」
「先輩」
「それよりどうしよう、この雪、身動きが取れない。二宮、寒くないか?」
私の想いの重さに戸惑う姿も、それでもなおこちらを心配してくれる姿も、愛おしくてたまらない。思いが募れば募るほど、雪は強さを増して積もっていく。
 
 この純白の世界の永遠を祈り、私は先輩に微笑みかけた。