「どう? 番人の助手と異界駅には慣れた?」
二体を、少しでも安全な方法で倒して、休憩に喫茶店に帰った。ここ数日で、澪が必ず喫茶店で休むことを知った。
数分前。ちょっとした見回りだけだから、と澪は一人で店を出て行った。見回りは、迷い込んだ人がいないか確認するためのもの。【怪物】を倒すことが目的ではない。
澪に残された私は、お皿洗いを申し出た。「ありがとう、助かる」とマスターさんは、カウンターの中に入れてくれた。
「非日常だとは思わないくらいには、慣れたと思います」
「ふふっ、それは心強いね」
少しだけ離れた隣で、マスターさんは和のものをふんだんに使ったパフェを作っていた。和のものが大好きな澪が、お店を出る前に注文していたものだろうかと思う。
「……心強い、ですか」
「志倉は自由奔放で、危ないことばっかりするからね。冷静で度胸のある君が、少しは制御役になってくれてると思うよ。見張り役の僕としては、すごく助かってる」
「……」
「いおかげで、前より安心出来てるよ」
横目で見ると、マスターさんは穏やかな顔で手元に集中しているようだった。グラスを落とさないために、私も手元に目を落とした。
マスターさんは、澪が私に契約を持ち掛けあらかた説明を終えた後、柔らかな笑みのまま優しい声で、はっきり反対した。聞き間違いだと勘違いしてしまうくらい、自然な息の吐き方で。
「番人の助手なんて、やめといた方がいいよ」
お洒落な丸眼鏡の奥の瞳だけが、それまでとどこか違って見えた。
「ちょっとー、桐ケ谷柊咲さんには関係ないじゃないですかー」
「マスターって呼んで。いつもそう言ってるよね。それから、僕は関係あるよ」
澪は、うげ、というような面倒そうな顔をして、マスターさんから顔を逸した。
「君の見張り役が誰か、忘れてないかな?」
「もちろん、分かってるよ。番人や助手をスカウトするのは各々番人の自由でしょ?」
「諸々の手続き、僕に押し付けるんでしょ?」
「だって、あたしが作ったやつっていつも返されるじゃん。色々修正して大変な目にあってるのマスターでしょ? 書類関係やってくれる子がいたら、すっごく助かるよ」
しばらく、犬を飼う飼わないと言い合う親子に似たやりとりを続けて、最終的に折れたのは大人のマスターだった。
澪は、「助手をやりたい」と私が口を挟んだことが決め手だったとは言っていた。
だから、分からなかった。
助手になって数日、もう反対の言葉を口にしない。それどころか、澪が異界駅のことで伝え忘れた不足分を、丁寧に教えてくれた。
諦めたのか、ただ応援してくれているのか、分からない。分からないから気になって、けれど、反対されても諦めることは出来ないから、結局聞くことを選ばなかった。
「あの」
ふいに、澪には話せていないことを、聞いてみようという気になった。
「ん? どうしたの?」
「異界駅に関することで、聞いてもいいですか? 私の気のせいかもしれないのですが」
「いいよ、話して。異界駅のことなら、大体は教えられるよ」
熱い水で洗い終えたばかりのびしょ濡れのお皿を手に取って、清潔な白い布で拭き取る。
「【怪物】を倒した後、いつも線香の甘い香りがするんです。あの銃の性質なのか、【怪物】が消える時のものなのか。考えていて」
「……」
「私の気のせい、でしょうか?」
その線香の甘い香りに、悲しい気持ちが沸き上がってくる。
香りもその気持ちも気のせいかもしれない。それでも気のせいだと割り切れないくらいには、訳も分からず胸が痛くて、慣れない。少しでも気を緩めれば、涙が出ると嫌な確信まであった。
それが、慣れない場所で精神が不安定な証拠だと思うと、余計に不安になった。
「正しいよ」
水滴を拭った透明なグラスの汚れをチェックしていると、マスターさんは断定的に答えた。
「大丈夫。気のせいじゃない。君は正しい」
「……」
正しい。気付かないなら間違いなのか。柔らかな言葉遣いで丁寧に言葉を選ぶマスターさんには珍しくて、グラスからマスターさんに視線を移す。
「悲しくなったり、苦しくなったりするでしょ?」
「はい」
よくあることなのだろうか。私が隠し、見せないようにしていたことを簡単に言葉にする。
「【怪物】は、ちゃんと死にきれなかった死者」
ガシャンと激しい音がした。鈍い動きで床を見ると、一瞬震えた指から擦り抜けたグラスが砕けて、元の形に戻せない破片が広がっていた。
「住んでいた世界で悪さをする前に払われて、異界駅に流れてきた死者。志倉は倒すなんて言い方をしてるけど、【番人】は【怪物】を強引に成仏させてる。生者には何の害もない、あの銃で」
「……」
一息に、かなり苦労する。どうにか身体を動かし、破片を拾う。二つ目で、不用意に指を切った。照明に照らされた一線から、赤い血が滲み出てくるのがやけに現実を帯びていた。
「大丈夫?」
呆然と血を眺めていた私の手首を掴んで、マスターさんが立ち上がる。すぐそばの蛇口を捻り、冷たい水を浴びせた。感覚が離れているみたいに、後から特有の痛みが襲う。
慣れた手つきで手当てを終えると、マスターさんは箒でガラスを集め始めた。
箒で払うみたいに、簡単に払われているのだろうかとぼんやりと考えた。
「すみません」
「大丈夫。僕がやるから、席に戻ってて」
「でも、私がやったことです。私が責任もってやります」
伸ばした私の手を掴んで、反対の手で箒を遠ざけ、マスターさんは真剣な目で私を見つめた。
「君の感覚は正しい」
瞬きも許されず、動揺を逃す方法を見失った。苦しくて、呼吸すら忘れてしまう。
「【怪物】の正体を知って、勝手に溢れる胸の痛みも甘受して。強引な成仏を、番人を続ける方がどうかしてる」
見えない誰かを責めるように吐いた言葉に、胸が呑まれていく。圧迫されながら逃げる方法も分からなくて、マスターさんを見つめていると、丸眼鏡の奥の目に翳りが射した。
思わず開いた唇を、もう一度閉じさせるように、マスターさんは私の手を離して背を向けた。
前触れなく訪れた静寂は、息をするのも躊躇う程に重たく冷たくて、代わりに聴覚が鋭くなる。箒が床に擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
――ドアにつけられたカウベルの音と、勢いよく開かれて軋んだドアの音がした。
「マスター、パフェ出来てる?」
明るい声と顔で問いかけた澪は、マスターさんの言う、どうかしている【番人】だとは思えなかった。
ごく一般の、平和を願う、それこそ『騎士様』と呼ばれるにふさわしい正義感を持っていそうな、けれど着崩した制服が気だるげな印象を持たせる、普通の女子高生にしか見えなかった。
二体を、少しでも安全な方法で倒して、休憩に喫茶店に帰った。ここ数日で、澪が必ず喫茶店で休むことを知った。
数分前。ちょっとした見回りだけだから、と澪は一人で店を出て行った。見回りは、迷い込んだ人がいないか確認するためのもの。【怪物】を倒すことが目的ではない。
澪に残された私は、お皿洗いを申し出た。「ありがとう、助かる」とマスターさんは、カウンターの中に入れてくれた。
「非日常だとは思わないくらいには、慣れたと思います」
「ふふっ、それは心強いね」
少しだけ離れた隣で、マスターさんは和のものをふんだんに使ったパフェを作っていた。和のものが大好きな澪が、お店を出る前に注文していたものだろうかと思う。
「……心強い、ですか」
「志倉は自由奔放で、危ないことばっかりするからね。冷静で度胸のある君が、少しは制御役になってくれてると思うよ。見張り役の僕としては、すごく助かってる」
「……」
「いおかげで、前より安心出来てるよ」
横目で見ると、マスターさんは穏やかな顔で手元に集中しているようだった。グラスを落とさないために、私も手元に目を落とした。
マスターさんは、澪が私に契約を持ち掛けあらかた説明を終えた後、柔らかな笑みのまま優しい声で、はっきり反対した。聞き間違いだと勘違いしてしまうくらい、自然な息の吐き方で。
「番人の助手なんて、やめといた方がいいよ」
お洒落な丸眼鏡の奥の瞳だけが、それまでとどこか違って見えた。
「ちょっとー、桐ケ谷柊咲さんには関係ないじゃないですかー」
「マスターって呼んで。いつもそう言ってるよね。それから、僕は関係あるよ」
澪は、うげ、というような面倒そうな顔をして、マスターさんから顔を逸した。
「君の見張り役が誰か、忘れてないかな?」
「もちろん、分かってるよ。番人や助手をスカウトするのは各々番人の自由でしょ?」
「諸々の手続き、僕に押し付けるんでしょ?」
「だって、あたしが作ったやつっていつも返されるじゃん。色々修正して大変な目にあってるのマスターでしょ? 書類関係やってくれる子がいたら、すっごく助かるよ」
しばらく、犬を飼う飼わないと言い合う親子に似たやりとりを続けて、最終的に折れたのは大人のマスターだった。
澪は、「助手をやりたい」と私が口を挟んだことが決め手だったとは言っていた。
だから、分からなかった。
助手になって数日、もう反対の言葉を口にしない。それどころか、澪が異界駅のことで伝え忘れた不足分を、丁寧に教えてくれた。
諦めたのか、ただ応援してくれているのか、分からない。分からないから気になって、けれど、反対されても諦めることは出来ないから、結局聞くことを選ばなかった。
「あの」
ふいに、澪には話せていないことを、聞いてみようという気になった。
「ん? どうしたの?」
「異界駅に関することで、聞いてもいいですか? 私の気のせいかもしれないのですが」
「いいよ、話して。異界駅のことなら、大体は教えられるよ」
熱い水で洗い終えたばかりのびしょ濡れのお皿を手に取って、清潔な白い布で拭き取る。
「【怪物】を倒した後、いつも線香の甘い香りがするんです。あの銃の性質なのか、【怪物】が消える時のものなのか。考えていて」
「……」
「私の気のせい、でしょうか?」
その線香の甘い香りに、悲しい気持ちが沸き上がってくる。
香りもその気持ちも気のせいかもしれない。それでも気のせいだと割り切れないくらいには、訳も分からず胸が痛くて、慣れない。少しでも気を緩めれば、涙が出ると嫌な確信まであった。
それが、慣れない場所で精神が不安定な証拠だと思うと、余計に不安になった。
「正しいよ」
水滴を拭った透明なグラスの汚れをチェックしていると、マスターさんは断定的に答えた。
「大丈夫。気のせいじゃない。君は正しい」
「……」
正しい。気付かないなら間違いなのか。柔らかな言葉遣いで丁寧に言葉を選ぶマスターさんには珍しくて、グラスからマスターさんに視線を移す。
「悲しくなったり、苦しくなったりするでしょ?」
「はい」
よくあることなのだろうか。私が隠し、見せないようにしていたことを簡単に言葉にする。
「【怪物】は、ちゃんと死にきれなかった死者」
ガシャンと激しい音がした。鈍い動きで床を見ると、一瞬震えた指から擦り抜けたグラスが砕けて、元の形に戻せない破片が広がっていた。
「住んでいた世界で悪さをする前に払われて、異界駅に流れてきた死者。志倉は倒すなんて言い方をしてるけど、【番人】は【怪物】を強引に成仏させてる。生者には何の害もない、あの銃で」
「……」
一息に、かなり苦労する。どうにか身体を動かし、破片を拾う。二つ目で、不用意に指を切った。照明に照らされた一線から、赤い血が滲み出てくるのがやけに現実を帯びていた。
「大丈夫?」
呆然と血を眺めていた私の手首を掴んで、マスターさんが立ち上がる。すぐそばの蛇口を捻り、冷たい水を浴びせた。感覚が離れているみたいに、後から特有の痛みが襲う。
慣れた手つきで手当てを終えると、マスターさんは箒でガラスを集め始めた。
箒で払うみたいに、簡単に払われているのだろうかとぼんやりと考えた。
「すみません」
「大丈夫。僕がやるから、席に戻ってて」
「でも、私がやったことです。私が責任もってやります」
伸ばした私の手を掴んで、反対の手で箒を遠ざけ、マスターさんは真剣な目で私を見つめた。
「君の感覚は正しい」
瞬きも許されず、動揺を逃す方法を見失った。苦しくて、呼吸すら忘れてしまう。
「【怪物】の正体を知って、勝手に溢れる胸の痛みも甘受して。強引な成仏を、番人を続ける方がどうかしてる」
見えない誰かを責めるように吐いた言葉に、胸が呑まれていく。圧迫されながら逃げる方法も分からなくて、マスターさんを見つめていると、丸眼鏡の奥の目に翳りが射した。
思わず開いた唇を、もう一度閉じさせるように、マスターさんは私の手を離して背を向けた。
前触れなく訪れた静寂は、息をするのも躊躇う程に重たく冷たくて、代わりに聴覚が鋭くなる。箒が床に擦れる音が、やけに大きく聞こえる。
――ドアにつけられたカウベルの音と、勢いよく開かれて軋んだドアの音がした。
「マスター、パフェ出来てる?」
明るい声と顔で問いかけた澪は、マスターさんの言う、どうかしている【番人】だとは思えなかった。
ごく一般の、平和を願う、それこそ『騎士様』と呼ばれるにふさわしい正義感を持っていそうな、けれど着崩した制服が気だるげな印象を持たせる、普通の女子高生にしか見えなかった。