走る。
 咄嗟に乱れて、喉の奥で詰まりそうな息を必死に吸った。
「澪!」
 耐えきれず叫んだ。年上を敬うさん付けなんて、もうどうでも良かった。
「はーい、よっ!」
 歩道橋の欄干の上から澪は飛び降りた。ウエストで折って短くした制服のスカートを翻し、堂々とスパンツを見せつけながら、アスファルトに着地する。
 そして、あの固くて暗い銃を迷わず、真っ直ぐに【怪物】に向けた。
 顔のない【怪物】が、どこからどうやって発しているのか、「カエシテ」とうわ言のように繰り返す。自由自在な伸縮のない両手をこちらに伸ばして、私達に、【怪物】にとって忌まわしいはずの銃を突き付ける澪に、近づいていく。
 隠しているだけで、あの時の男性のみたいに腕が伸縮したら、確実に危うい位置に澪がいる。
「澪」
「大丈夫」
 思わず出た声を遮って、澪は告げる。【怪物】が一歩、二歩、のろそうに見えて早い速度で歩き進めて、――澪の持つ銃が、【怪物】の額に押し当った。
 瞬間、耳を劈くような銃声が二発響いた。
 咄嗟に耳を塞いだ両手の隙間から届いたそれに、心臓が一層どくりと音を立てた。
「はい、三体目終わり」
「……」
 線香の甘い香りを残して一瞬で消えた、【怪物】が居た場所を見てから、澪の隣に立った。
「澪」
「なぁに、かな?」
 余裕そうな横顔がこちらを向く。向かい合った澪の顔は、やはり余裕たっぷりで。恐怖や焦り、不安、およそ異界駅に似つかわしい感情が一切ない。
「どうしてもっと早く撃たなかったんですか」
 責めるようになってしまった声を、私は否定して誤魔化そうとは思わなかった。変わらず澪は、まるで公園で遊んでる子どもみたいな顔のまま、ただ肩を竦める。
「だいじょーぶだって。全然倒せたんだし? 確実に仕留めたかったの」
「ですが、もし――」
「もしもはなかったでしょ。なんなかったことで怒んないで」
「……」
 怒っているわけではない。その言葉を信じてもらうには、今の私はあまりにも余裕がなくて、冷静ではなかった。自分でも信じられないくらい、感情に、流され振り回されていた。
 伝わらないことが悲しくて、悔しくて、両手を握り締める。
「……ごめんって」
 ポンっと、澪が肩に手を乗せる。顔を上げると、言葉通り申し訳なさそうな、それから気まずそうな顔をしていた。目が合うと同時に、静かに目を逸らす。
「あたし、ずっと一人でこのやり方だったし、癖になってんだよね。でも、危ないんだろうなってことは分かってる。まぁ、うん。……これからは気をつけるよ」
「……」
「誘っといて、七瀬を危ない目に遭わせらんないからね」
 変わらない軽い口調で言って、さっと手を離す。両手を頭の後ろで組んで、来た道に足を踏み出す。銃は、いつの間にか仕舞っていた。「きゅーけい、しよ」とまた自由に誘う。
「私は」
 今度は自分の意思で、感情に少しだけ流されて、伝えることを選んだ。
 澪はぴたりと足を止めて、迷いなくくるりと振り返る。学校に居た時とは違って、緩く着崩した姿が、番人をしている時の澪にはよく似合っていた。
「私がどうとかではなくて。澪自身に、澪を大切にしてほしいんです」
 放課後、駅のトイレでマスカラを乗せた澪の長い睫毛が俯いて、ゆっくりと瞬く。
「【怪物】に喰われてほしくないです」
 昨夜、契約を持ち掛けた時に教えてくれた。
 ――『【怪物】は、喰った人に成り代わって、現実世界で生活するの』
 自然な薄桃色の唇には不釣り合いな言葉を、澪はその唇で紡いだ。
「最初は、何の害もなさそうな顔をして近づいて。油断させたところを、喰らう。腕を自由に伸縮させたり、手を巨大化させたり。変化するのは、喰うための力のようなもの。みたいな」
 つまりは、番人であっても、番人の助手であっても、異界駅にいること自体、危険なことなのだと私は受け取った。
「確かに、訓練もせず番人の助手としてこの場所にいる私は、澪にとって足手纏いにしかなりません。だからこそ、澪には少しでも安全な方法で、番人をしてほしいんです」
 矛盾した本音は、けれど否定できない。最悪なもしもは、起きてほしく欲しくなかった。
 戸惑ったみたいに澪の睫毛が上下して、前髪をくしゃっと掴んだ。
「あー、昨日出会ったばっかなのに、あたしのこと大事に思ってくれてるんだ?」
 からかうような言葉とは裏腹に、そっと向けられた瞳は、どこか慎重な色が潜んでいた。
「大事です」
 迷わず答えれば、澪は目を丸くして、ぱちくりさせて、前髪を何度か指先で払って。
 やがて、ふっと鼻で笑った。思わず眉を顰めると、澪は大袈裟な程に右手を振って否定する。
「そんな、ストレートに答えてくれるなんて、思わなくって」
 続けた理由は、やっぱり分からなくて首を傾げる。澪は心底おかしそうに笑い続ける。
「困ったなぁ。そこまでいい子だと、尚更言うこと聞かなきゃ」
「……私は、いい子ではありません」
 気がついた時には、ひどく冷めきった声で否定していた。澪の笑い声もピタリと止んで、しまった、と思っても遅かった。誤魔化す言葉も、浮かばない。
「七瀬は、いい子だよ」
 澪は囁くような声で言って、銃を持っていた手で、私の頭に手を置いた。
「いい子で、おもしろい子だよ」 
 明るい調子と穏やかな大人びた微笑みに、思いがけず胸の奥底に陽光が降り注いだようだった。けれど、何と言ったらいいのか、答えられずにいると、澪は堪らなそうに両手でめちゃくちゃに髪を掻きむしった。私の髪を、ぼさぼさにした。
「交友関係ひろーいあたしが言うんだから、信じなよ」
 何度も適当に頷いて、ようやく澪は手を離した。いくら引き剥がそうとしても動かなかった手を。急いでポケットのポーチから櫛を取って、毛先を撫でさせる。
「では改めて、きゅーけーい」
 容赦なく、澪は髪を整える私の背中を押して、休憩に、美味しいぜんざいのある、喫茶店の名前を挙げた。仕方なく、というよりは少し前向きな気分で、私は自分の足で歩き出した。
 線香の甘い香りに、また悲しい気持ちが沸き上がったことを、ぬくもりに触れた胸の中に隠して。