誰もいなくなった。
 森の小屋みたいな待合室の中で、隣に置いた真新しい鞄を撫でる。さっきまでラジオ体操か何か踊っていた彼女が、私の前を通り過ぎて扉を開けた。
「自由だぁぁぁぁ」
 駅の裏山にではなく、降りていく階段に向けて、やまびこをするように叫ぶ。私は何も言わなかったのに、すぐに帰ってきて、大雑把に鞄のない隣の椅子に座った。
「驚いた?」
「まぁ、繕わないな、とは」
「えぇー、それだけぇ? 七瀬の前では、ふつう、じゃん?」
 澪はつまらなそうに頬を膨らませて、唐突に立ち上がる。私の手を引いて、ホームまで連れ出した。今度は黙って、遠くの景色を指差した。
 変わらない青い海があった。微かな潮風が、湿った首の後ろをふっと優しく撫でる。
「海、撮ったら? あれで」
 小屋に置いてきた真新しい鞄にウィンクを投げる。そこで、まだ言っていないことに気付く。
「最初に、澪をモデルに撮ると決めていました」
 少しだけマスカラを付け足した睫毛が、ふいに動きを止める。思うより驚かれたことをいいことに、終業式から時間が経ち、誰もいない待合室に先に戻った。すぐに、ドタバタと慌ただしい足音がする。
「まじで? カメラ試すの付き合って、とは聞いてたけどさぁ」
「まじです。言い忘れてました」
 何も嘘はない。澪は疑ったような目を一度両手で覆って、それから急いだようにスクールバッグを開いて、淡い水玉模様のポーチを引っこ抜いた。ポーチから、まずは鏡を取り出す。
 目を細めて、入念に自分の顔を見つめて、澪が思うらしい足りないアイテムを、再度選んだ。
「そういうのは早く言いなさいな。あたしもね、準備が必要なんだよ」
 どこかのバラエティ番組に出てくる、おばあちゃんみたいな早口で言って、手を止めない。
「にしても、まさか夏休みの二日前に入部届を出すとは」
「思い立ったが吉日です」
「いや、ほんとに吉日なん? 担任も顧問もびっくりしてたでしょ、絶対」
 澪は人をよく見ている。多分、狡賢く。だからそれは、その通りだった。
「お母さんは? 一眼レフ買えた理由、納得してくれた?」
「はい。バイトしてたことを隠してたのは、少し、珍しく、注意されました」
 お母さんとは少しずつ、話せるようになっていた。接し方は相変わらず分からなくて、まだ親子としてはぎこちないけれど。それでも、少しずつ、今までの時間を取り戻すように。
 離婚した理由。大人の二人の夏休みに、お父さんを家に呼んで、教えてくれることになった。
 写真展は、だから行かなかった。
「そりゃそうだ。税金とか、面倒なんだから」
 でもそのバイトが嘘だったとは、もっと言えないね。澪は器用にアイシャドウを塗り重ねながら、他人事のように言う。
 澪と私は、番人とその助手を辞めた。証のチョーカーと【定期券】、二人分の【切符】。澪と二人で、監視役のマスターさんに返した。来羽くんとお別れしたその足で、喫茶店に戻って。
 辞めると告げた私達を、マスターさんは引き留めなかった。むしろ「面倒な子どもの面倒を見なくてよくなる」とまで隠さず言って、けれど丸眼鏡の奥の目に、安堵の色が浮かんでいた。
 大人として、子どもの私達が異界駅にいることに、多分思うところがあったのかもしれない。
 優しいマスターさんの、こちらの世界での仕事先。パンが多く売ってある、花屋というカフェでバイトを始めた。一眼レフを買っても、怪しく思われないように。
 バイトを募集していないか確認すると、マスターさんの叔父さん、つまり店主さんが喜んで、「丁度募集しようと思ってた」と言ってくれた。マスターさんは苦い顔をしていた。
「んー、でも」
 前触れなく、天井に向けて伸びをした澪の手には、アイシャドウのブラシがあった。
「分かんないなぁ」
「夏休みの課題が、ですか?」
「そうじゃなくって。むしろそこは全く問題じゃないよ」
 ブラシを私に突き付けて、「頭悪くないからね?」と半ば睨みつけるように目を細める。
 私は、構わずに澪を見つめ返した。さすがに唐突のことで、分からないことの心辺りがない。
「夏休み。どうやって過ごせばいいのか、何すればいいか分かんない。昼もあっちにいたし」
 あっち。と言われて意味が分かるのは、多分、学校では澪と私くらいだと思う。
「何でも出来ますよ」
「カメラ買う。部活始める。みたいな?」
 頷けば、澪はおかしそうに笑う。日焼け止めに守られた顔に、浮かんだ笑みは健やかで。作ったような、無理したような色は、スプーン一杯分も見えない。
 あれから、澪が先輩とどう関わっているのか、私は知らない。ただ、『王子』と『騎士様』が話しているのを初めて見た、という話題があることをゆらから聞いた。
 私はまだ先輩を好きなまま、来羽くんがいた時のようにはならなくても、澪と先輩が、それでも普通に話せる日が来ることを願った。
 私が先輩に好きと伝えるのは、それからでいい。それまでは、ただ好きでいさせてほしい。
 答えずに、穏やかな口元を見つめていた。だから、思ってもいなかった。澪が続けた言葉は。
「ねぇ、本当に番人の助手辞めてよかったの?」