「来羽に、会いたい」
 告げた瞬間、小さな身体から力が抜けていくのが分かった。背中から、倒れていく。咄嗟に支えられない私は、囁くように唱える。
 ――音もなく、白いスニーカーがアスファルトを踏んだ。
 迷いなく大きな手が伸びて、澪の腕をしっかり掴んで、背後から支える。ぐったりした身体が、だから億劫そうにもその場で二本の足で立ったまま、澪はちゃんと振り返った。
「こう」
 時が戻ったみたいな幼い声で、名前を呼ぶ。私はそっと手を離して、自分の胸を押さえた。
「ごめん」
 彼は苦く、それでも優しく微笑みかける。一瞬だけ、呼吸すら忘れた澪の身体が素早く彼に向き直って、だけど恐る恐る彼の頬に触れた。
「どこに、行ってたの?」
「ごめんね」
 澪は嫌々と首を振る。そんな言葉は望んでいない。そう、声は上げずに訴えていた。
「あたし、探してた。来羽が死んだなんて、信じられなくて。来羽がいたクラスに行った。来羽が好きだった、学校の花壇に行った。三人で何度も遊んだ来羽の部屋で、何時間も待って」
「……うん」
「でも、どこに行っても。来羽は、いなかった。三人で通ってた道にも、三人で花火を見たあの場所にも。何度行っても、探しても。声も、聞こえなくて」
 彼は何も言わずに、澪をじっと見つめて、澪の言葉を受け止めていた。
 深くて濃い色の、悲しくて寂しくて、愛おしそうな瞳に、澪は気付いているのだろうか。
 澪は力なく、彼の頬に触れた手で、彼の胸を叩いた。何度も何度も。ずっと堪えてきたものを、抑えつけることをもう止めて。ぶつけていた。
「なんで、なんで、死んじゃったの? いっぱい約束したのに。映画も、行こうって。来羽と宗太の家族と、あたしの家族と。みんなでキャンプも計画して。スイカ割り、楽しみにしてたの来羽じゃん」
「うん」
「何があっても、ケンカしてても。毎年、あの場所で三人で花火を見るのも。言い出したのは来羽だよ」
 不安定に揺れて、熱っぽい声で。もう戻れない時間を、私が知らない三人の大切な時間を。
 澪が言葉にしていくのを、本当は十四歳で止まった時間と、それ以上の時間を過ごした彼は、涼やかな表情で見守っている。
「…………来羽がいなきゃ、いやだよ」
 片腕を支える彼の手に、澪は縋った。ひどく幼くて、悲痛な声で。
「ありがとう」
 彼は初めて、言葉らしい言葉を澪に向けた。花びらみたいな柔らかな微笑みと一緒に。そこに、覚悟に似た何かが潜んでいるように見えた。
「でも、澪のことは、もう七瀬ちゃんにお願いしたんだ」
 声を出す方法を見失った澪が、彼の視線を追いかけて、私を見る。熱に満ちた目と少しだけ見つめ合って、それから彼に目を向けた。
「純粋で繊細で、寂しがり屋な澪のそばにいます。多分、けんかはするけど」
「うん」
 彼は、――来羽くんは、私にまで微笑みを向けて、深く頷いた。
 電車の中で、彼と秘密の話をした。正確には、ある約束をした。
 心残りの澪を見守ることを、来羽は私にお願いした。来羽はどこか遠くに行って、もう会いには来てくれないと思った。だから、私は澪の本当の願いを聞くまでは待ってほしいと言った。
 本当の願いを聞いたら、来羽くんを呼ぶから来てほしい。
 それが、澪を見守る条件にした。
 しばらく考えて、悩んで。やがて来羽くんは私を真似てか、くん付け呼びを条件にした。
 来羽くんと約束をしたから、私は澪の言葉で、澪の声で、本当の願いを聞きたかった。
 どうやって、どこにいて、来羽くんがここに来てくれたのは分からない。どこまで聞いていたのかも、何も聞いていないのかも、分からない。
 ただ、約束は守ってくれた。
「七瀬ちゃんがいるから、澪はもう大丈夫だよ」
 澪はまた、嫌がる仕草を見せると思っていた。必死に、引き留めると思った。
 だけど、違った。
 私をじっと見つめていた目を、来羽くんの方へ戻して、その後握り拳で瞼を強引に擦った。
「うん」
 精一杯、湿ったものを抑えつけたような声で言った。
 思いがけず、私は呼吸と瞬きを忘れる。
 私に優しく笑いかけて、それから、澪は来羽くんに手を差し出した。
「ごめん、来羽。私が、ずっと引き留めたんだよね」
 来羽くんは首の動きだけで答えて、特別な言葉は残さなかった。
「ありがとう。あたしを見守って、見守り続けてくれて」
 凜と背筋を伸ばしたような声で告げて、差し出した手に一度だけ目を落として、真っ直ぐ来羽くんを見る。
「今度はおじいさんおばあさんになるまで、長生きできるように神様に願ってくれないと、あたしも七瀬も許さないから」
「え」
 思わず、出してしまった声に慌てて口を塞ぐ。何故か突然、私まで巻き込まれていた。
「七瀬は、あたしと宗太が好きだから。好きな人を悲しませたことは、仕方ないとは思わない子だよ」
 ね、と真剣な目に触れて、私は否定出来なくなった。誰かを恨んだのは事実だ。
 出来るだけ、二人の時間を過ごしてもらおうと、閉じていようとした口を動かす。
「どうか長生きをして、次は私ともお友達になって下さい」
 来羽くんは不思議そうに目を丸くして、そっと細めて、見た目より幼い、人懐っこい笑顔を咲かせた。
「うん、待ってて」
 青空みたいに晴れた声で答えて、来羽くんは澪の手を掴んだ。それから、小さく手招く。
 二人の最後の時間に、私が入り込んで良いのか迷っていると、澪が強引に私の手を引いた。
「じゃあ、またね」
 来羽くんが私の手を繋いで、安らかに笑った。生きている人と変わらない目から、一滴だけ静かに零れ落ちる。
 瞬きをする間もなく、来羽くんは、彼に似合う夏の日差しに似た光の中に溶けて消えた。
 もう一つ繋いだ手が私の手を強く握り締める。ぐっと喉の奥で深く息を吸い込んで、澪は声を上げて泣いた。泣いて、叫んでいた。ずっとずっと、気を張って隠してきたものが、いつもより薄い線香の甘い香りが漂う空気を、いつまでも揺らし続けた。