「宗太が言った通りだよ」
 深い海の底みたいに暗くて、どうやっても満たされない、渇きを覚える目。尖った爪で掻きむしったような声に、触れたところから皮膚がひりついていくようだった。
「あたしは、来羽が死んでから、ずっとずっと自分を責めてる。来羽が死んだ後、線路に飛び込んで死のうとした。偶然、宗太に止められて、それから宗太を避けてる」
 まるで他人事のように言う。だから、私は胸が締め付けられるように痛くなった。
「七瀬も宗太も、分かんないと思う。皆、あたしのせいじゃないって言うと思う。あたしだって、他人事だったら言えるよ。あんたのせいじゃないって。来羽も別に、あたしを責めてないって分かる。来羽は、そういう奴だから」
 人懐っこく笑い、透明感のある涼やかな表情をする彼は、澪の言う通り、澪のことを責めてはいなかった。責める必要がなかったから。きっと、誰もがそう思う。それも澪の思う通りで。
「でもさ、思うんだよ。直接、来羽を殺してなくても、間接的には来羽を殺したって」
「……」
「あの日、もっと早く待ち合わせに着いていたらって。遅れなかったら、来羽が名前も知らない誰かを助けることをもなかったんじゃないかって。選んで、死ぬこともなかったんじゃないかって」
 唐突に、澪がぎゅっと手を握り締めて、私の手を払う。叩き付けるようにお腹に拳を当てる。その手が震えているのを、ただ見ているのが辛かった。
「あたしがあの日選んだことで、ヘアアイロンで前髪整えるとかメイク粘るとか、そんなくだらない小さなことで少し遅れて。あたしが、来羽を追い込んで、死ぬ道を選ばせたんじゃないかって。あたしが、来羽が生きる道を壊したんじゃないかって」
「……」
「誰が否定しても、あたしはそう思うんだ」
 息を吐く。息を吸う。ごく自然な行為が、今は難しくて。澪がずっと、自分を傷つけてしまうような自責の念に囚われて。後悔だけでは言い表せない感情を、一人で抱えてきたのかと思うと、胸の奥が、心臓が押し潰されるように苦しくなった。
 どうすれば、救われるんだろう。どんな言葉があれば、澪は自分を許せるんだろう。
 過去を許してほしいとは、口が裂けても言えない。そんなものは、他人事だから言えるんだ。
「あたしはあたしが憎い。そう思う自分が嫌い。だから、あたしのせいじゃなかったって、あたしが存在しなくても、来羽はあの日死ぬ運命にあったんだって確かめたい」
 分からなかった。だけど、私にとって悲しいことでも、そう思わないと、それに縋りついていないと、日常を生きていられない気持ちはよく分かった。
 突然失ったものに対して、人はどうしようもなく弱い。弱くなる。
「あたし達の住む世界によく似た並行世界の、その過去に行けば、それが分かるんだよ」
 それが、澪のやりたいこと。私には、分からない。過去は過去でも、並行世界のものなら何も変わらない。私達が生きた世界で、彼は生き返ることなく、死んだ事実はそのまま残る。
「ねぇ、それでも七瀬はあたしを止めるの?」
「……」
 すぐには答えられなかった。どう伝えたら、ちゃんと伝わってくれるのか分からない。だから言えることは――
「澪が死ぬのは嫌です」
 答えは変わらなかった。
 まるで毒物でも吐き出すように、澪は浅く開いた唇から息を洩らす。憎しみに満ちた眼差しが迷いなく目に突き刺さる。
「どうせ七瀬には分からないって、分かってたよ。でも、七瀬にあたしを引き留める権利なんてある?」
 強張った顔で、口元だけで苦く笑う。こんな時にまで、澪は自分を悪く演じようとする。
 だから私は、何も言わずに首を横に振った。
 私にも誰にも、澪の自由を奪う権利はない。
「でも、澪の本音が違うことは分かる」
「は?」
 一瞬で、瞬きもするよりも早く、澪の手が私の襟を掴んで力強く引っ張った。
「散々土足で踏み込んできて、黙って聞いてたと思ったら、分からないからってそんな答え? ふざけんなよ! あたしが言葉にしたことだけで、全部知ってるみたいな顔すんな!」
「……」
「七瀬に、あたし達幼馴染がどんだけ深くで繋がり合ってたかなんて、分かんないだろ! それが、急に引き裂かれた気持ちも! 突然奪われた気持ちも!」
 容赦なく、迷いなく両手で握り締めた襟ごと強く、頭も身体も揺さぶられる。ぐらぐらする視界は、何故かはっきりしていて、澪の顔が真っ赤に染まっているのが見える。
「まだ生きてる父親に会いにも行けない七瀬なんかに、分かるわけない!」
「……」
 ほら、と思った。だけど私は抗わずに、ただ澪を見つめていた。
 叫んで言い切ったのか、私が黙っているのが気に食わないのか、突き飛ばすように手を離す。激しく肩を上下させて、不安定に息を乱しながらも、澪の目が鋭く私を睨んでいた。
「知ってますか? 本音は一つじゃないんです」 
「それが、何? あたしの本音は、あたしにしか分かんない」
 澪の目が赤い。怒りで血走っている。余程、今まで我慢していたのだと知る。にやにやとか、ニシシとか、純粋に明るいだけの分厚い仮面の下に、ずっと隠していたのだろうと思う。
「本音は、ちぐはぐなんです。素直じゃなくて、矛盾だらけで。だけど、どれも親友みたいに隣にいて。嫌いも好きも、一緒にいる」
「……」
 澪は言葉を受け取って、だけど何かを言おうと僅かに開いた口を閉じて、きゅっと唇を噛む。
 本音は隠れているから、どれが一番に近いのか分からない。一番が二つあることも、きっとある。私は昔から気がつくのが遅いけど。誰だって自分では見抜けないこともあると思う。
「私は、二年半ぶりに思い出写真を見て、ようやく分かりました。ずっと怯えていたけど。怖くなっていただけで、本当は」
 ふいに沸き上がってきたものを、咄嗟に目の奥に隠す。言葉にすることでまた、感情に飲み込まれそうになった。
「本当はお父さんに会いたくて。ただ、家族三人でいたかった」
 たったそれだけのことを、そんな簡単なことが分かるまでに、時間が掛かってしまった。
「澪の一番の本音は、本当の願いは、もっと単純なんじゃないですか?」
 噛んでいるせいか、赤い澪の唇の端が、ひくりと動く。構わず、私は澪の震える手をまた勝手に掴んで、深く息を吸った。
「まだ生きてる父親に会いにも行けない私なんか。そんな私を憎んで、軽蔑しているのは、どうしてですか?」
 真っ直ぐ私を睨みつけていた澪の目が、やがて大きく見開いて、少しの間動かなくなる。
 ゆっくり不規則に睫毛が瞬いて、それから何度も首を横に振った。唇が薄く開いては、ぐっと押し殺すように閉まる。その一通りの最後に、手の中で、澪の両手が強く何かを掴んだ。
「……だって、そんなの。今更、都合が」
「はい。私にとって、都合がいい答えかもしれません」
「そうじゃ、なくて。あたしは、じゃあ、何のために今まで」
 声が、途切れる。一度剥がれた仮面が元に戻ることはなく、澪の表情は戸惑い、見失ったものを辿るように視線を彷徨わせる。
 信じたくなくて、受け入れたくなくて。言葉はなくても、その目が強く訴えていた。
「何のために、番人をしてきたのか。もう分かったんですよね」
「……でも。でも、だって」
 素直になるというには、聞こえが良いのだと思う。澪も私のものも、心はいつも複雑なのだ。
「…………あたし、七瀬を利用した」
 今、こんな時に。突き放すためのものでもなく、泣くことも出来ず謝る子どものように言う。
「気にしてません」
「……少しは、気にしてよ。怪我もしたじゃん」
「その話はもう、二人の責任ということにしましたよね」
「でもさ」
 私は首を横に振った。必要以上に、澪は自分を責めていた。そうすることでしか、償えないみたいに。それしか、償い方を知らないみたいに。
「澪と私は、最初からお互いを利用する契約を交わした。それでいいんです」
 澪は私を必ず守り、報酬は半分。【切符】は二枚手に入るまで。マスターさんを説得する時にに言っていた、書類関係だけなら、澪と一緒に異界駅の中を歩く必要はなかった。
 それに気付かなかったのは私で、だけど今では、澪を一人にしなくてよかったとすら思う。
「だから、教えて下さい。澪の本当の願いはなんですか?」
 溢れてくる感情を抑えるように、下唇が隙間を押しやって、瞬きが多くなる。それでも止まなかった。目を覆った涙の膜が睫毛を濡らして、頬を流れて、唇を濡らした。
 しょっぱい涙で湿った唇が、怯えるような速度で開く。