バタバタという音に似た足音が、しんと静かな沈黙を切り裂いていく。
 ホームとホームを繋ぐ、歩道橋みたいな場所を初めて渡る。ただ願っていた。
 億劫な段数の多い階段を駆け下りた先に、反対側から見える時と変わらない景色があった。
 行儀よく並んだベンチが数台。自販機や物珍しいものはない。
 大股でホームの奥まで歩いて、体ごと辺りを探すも、誰もいない。思わず、舌打ちが洩れる。振り返って、駆け下りた階段のすぐそばに待合室らしき小屋があった。
 また大股で足を踏み出して、短い距離を駆けた。
 固く閉ざされたような扉を、力任せに右に押しやる。建て付けが悪いのか、一度どこかに引っ掛かるようにして、開いた。
「……澪」
 そこには、誰もいなかった。誰かがいた気配だけが残っていた。
 無意識に、バッグの留め具に触れていた。熱のないそれに、一瞬息を呑んで、捻る。ここではおよそ頼りにならないスマホを取り出して、最近増えたばかりの連絡先を選ぶ。
 耳に押し当てて、だけど繋がろうとする音も鳴らない。
 どこか、少しの間だけいいでから。せめて。頭では分かっているのに。諦められない。
 探しながら、待合室の奥に進む。入ってきた扉とは反対側の扉に、手を掛ける。
 特に引っ掛かりもなく、すんなりと押した方へ動いていく。だけど静寂には、少し大きな音。
 ――振り返って、茶髪がふわりと揺れた。
 ネイビーのジャケットとスカート。ストライプ柄の紺に似た青色のネクタイ。
「……なんで」 
 息が洩れただけのような声が落ちて、薄いメイクの見開いた目が逸れる。
 どこか、ゆっくり流れているように見える時間の中で、私は迷わず駆け寄った。怯えるように後退った澪が、何かに躓いて、細い身体がぐらりと揺れる。
 咄嗟にスマホを投げ捨てて、澪の手を掴んだ。
「離して」
 引き寄せようとすると、澪は反対に振り払おうとする。番人をしているからか、私よりも強い力で。負けずに精一杯の力を込める。
「嫌です」
「もう関係ないじゃん」
「関係なくなんかないです」
「あたしは、もう辞めようって言った。関係ないんだよ」
「書類上ではまだ、私は助手です」
 途端に、澪の手が、ぴたりと動きを止める。だけどまだ、澪は私の方を見てはくれない。
「だから?」
「……」
「それって、書類上なだけでしょ。あたしたちは、それ以外の関係はない。そんなんで関係あるって言える?」
 まただ。無視するよりも冷たい声。それが心からの本音で、一滴も嘘なんかないように。
 澪はもう、手を振り払おうとはしていなかった。だから私が勝手に、掴んでいた。澪の言葉を借りるなら、関係のない他人の私が。
「馬鹿なんじゃないですか?」
 重たげに澪は顔を上げて、私を見る。信じられないように、だけど眉を顰めて。
「私、友達はゆらしかいませんでした。友達のゆらと、よく遊びに行きます。文房具買いに行ったり、カフェで美味しいもの食べて」
「それが何?」
「私達は友達じゃないけど。そういうことをしたじゃないですか」
「……」
「一緒に作った思い出は消えない。それなのに、もう関係ないとか馬鹿じゃないですか?」
 言葉が汚くなる。粗くて、尖った声になる。傷つけるつもりはないのに、ぶつけていた。初めての友達が、仲直りの仕方を教えてくれたのに。思い浮かんだことだけを伝えていた。
 普段の澪なら、目を逸らしていたさっきまでの澪なら、私なんかに負けない言葉を吐くと思った。だけど眉間に深く皺を刻んだまま、澪は唇をきつく噛みしめて黙り込んでいた。
「関係ないなんてもう思えない。関係ないなんて、言わないで下さい」
 私は最悪で。謝ることも出来ずにいるのに。
 今なら、今の私なら、伝えたいことを伝えられる気がした。
 あの時みたいには、今までみたいには、なれない。何も言わずに別れたお父さんのことをただ思うだけで、お母さんにもお父さんにも何も聞けなかった私は、まだ私の中にいるけれど。
 そんな私がそばにいてくれるから、夏木がどこかで見守っていてくれている気がするから。
 もう、私は一人じゃないと知った。
「それにまだ、聞いてないです」
 澪が投げ出すように力を解いた手を、そっと両手で包む。私より少しだけ身長の低い澪と目線を合わせて、見つめ合う。
「どうして、澪が並行世界の自分を殺そうとしているのか」 
「……」
 世界に私達だけ。そう思うくらい静かな場所だから、聞こえた。
 澪の喉が、ぐっと唾を飲み込む音。
「先輩は、宗太先輩は言ってました。澪は自分を責めてるって。ずっとずっと、来羽先輩が亡くなってから」
 マスカラもなく長い澪の睫毛が、震えて俯く。両手の中の澪の指先が、冷たくなっていく。
「だけど、それは、宗太先輩の言葉です。澪の言葉で聞いてないです。どうして澪が、『殺した』なんて言葉を選んだのか」
「……」
「私は、考えても分からなくて。分からない私は、きっと澪の話を聞くにふさわしい相手なんかじゃないって、分かります。よく、分かってます」 
 触れているのに、目の前にいる澪が消えていってしまうんじゃないか、怖くなった。
 あまりにも手が冷たくて。何も、話さないから。
 普段騒がしい程に明るい声を出すから気付きにくいけど。本当は繊細な声が聞こえないから。
「でも、私は、澪に自分を殺してほしくない。澪が選ばなかった澪は、きっと私には会ってないけど。でも、それでも澪だから。澪に死んでほしくない」
 聞きたいことがあった。だけどそれ以上に、ただそれだけ伝えたかった。
 それだけだったのに、ずっと躊躇ってきた。言葉にすることで、変えようとして、また何か失敗したら。澪との関係が壊れて、また一人になることが怖かった。
「私は、身勝手なんです。澪やマスターさんが言うような、いい子じゃないから、こうして身勝手に踏み込んでいるんです」
 何一つ、澪のためじゃない。伝えたいことも聞きたいことも。全て私の勝手な想い。
「澪のことを、私に教えてもらえませんか?」
 私は、口を閉じた。震えるように動く睫毛ををじっと見つめて、待つことにした。
 救いたい。
 今、勝手に手を繋いでいる澪のことも。私が出会った澪が選んでこなかった、どこかの澪も。
 何も知らないけれど、何も知らないから、助けたい。そう思うことは、澪からしたら、幸せな夢に怯えていた私なら、偽善だと思う。
 偽善でも、やらないよりいい。何もしないで、変わっていく方が嫌だった。
 ふいに、長い睫毛が重なる。
 きつく閉じた瞼を、まるで眩いものでも見上げるように、ひどくゆっくり持ち上げた。