「おとうさん」
幼い少女の声がした。振り返ると、いつも静かで大人しい少女は柔らかな表情を向けていた。
「おとうさん」
呼ばれて、構えたカメラを少女に覗かせた。映る世界に、少女は幸せそうな笑顔を見せる。
「おとうさんのおしゃしん、だいすき」
父親は、何も言わずに静かな微笑みを浮かべて、少女の指先をシャッターボタンに乗せた。
父と娘。二人から視線を逸らして、広場の真ん中にある大きな木に目を向ける。
木漏れ日が落ちる場所に、母親が座っていた。
眩しそうに目を細めて、二人を見守っている。緑の芝生にレジャーシートを敷いて、その上に体育座りをして。隣に、プリンセスが描かれた水筒と麦わら素材のかごバックがある。
家族三人の幸せな時間がそこにはあった。
本当は、広場だから他にも人がいたはずで、けれど映る世界には三人だけがいた。その世界の端っこで、日の光が当たらない境界線の先に、一人で蹲る子どもがいた。子どもだけど、幼い少女より大人に近い姿。
迷わず、私は足を進めた。本当はまだまだ子どもな、白いセーラー服の彼女に近づいた。
彼女の前で、しゃがむ。視界の端から、心地いい光が消えて、世界が人工的な白に包まれる。
彼女の周りだけ、深い闇のような影があった。
「御園七瀬」
あの日。何も言わずに玄関で父親と別れた彼女は、身長は二センチしか変わらないのに幼く見えて。あの日の姿のままの彼女は、一人でずっと蹲って、身動きが取れずにいた。
「私は、本当は一人でいることが寂しくて。全然、平気なんかじゃなかった」
「……」
「ドラマで見るような家族に憧れて。小言がうるさいくらいに感じて。学校はどうだったのかとか、そういう会話をしながら一緒にご飯を食べて。朝は二度寝を叩き起こされたり、忘れ物がないか心配されて」
「……」
「でも、それは本当に憧れに過ぎなくて。寂しかったけど、憧れ以上に、家族三人で過ごす時間が大切だった。お父さんとお母さんが、本当に大好きだった」
目を背けて、閉じ続けた彼女。
今はもう何も言わない彼女が、きつく握り締めた手にそっと触れる。
「貴方のせいにして、貴方だけに大切な時間を押しつけて、ごめんなさい。無理やり仕舞い込んで、ごめんなさい。辛い想いをさせて、ごめんなさい」
ずっと触れられなかった手は、堪えらえないように震えていて。私は泣きそうになりがなら、その手を掴んだ。
「私が選んできた貴方を、もう一人にはしたくない」
空いた方の手を彼女の背に伸ばして、抱きしめる。
腕の中の彼女は、泣いていた。噛んだ唇から、堪え切れず洩れたような息は湿っていて。
「私、大切な人が出来た。それも、一人じゃない」
「……」
少しずつ、彼女の周りの深い闇のような影が薄れていく。元々そんなものはなかったように、白くなっていく。
「もう、いいよ」
思ってばっかりで口ばっかり。意気地なし。そう思っていたのは、本当は私だった。
ずっと、彼女を許せなかった。許したくなかった。
思い出を封じ込めて、あの日に彼女を置き去りにすることで、日常を過ごそうとした。
大切で幸せな時間を失ったことが悲しくて、辛くて。彼女だけのせいにした。
だからきっと、世界から輝きが消えた。
だけど本当は、世界の輝きとか関係なくて。
ただ、確かにそこにあった大切な時間を取り戻したかった。
「貴方がそばにいてくれたから、大切な時間があったことを忘れなかった」
ふいに、今よりも長かった黒い髪が動いた。
少し幼い顔が、躊躇うように私を見上げる。
「今まで、ありがとう」
泣きそうな顔で、彼女は幸せそうに笑った。それから、彼女は――
『いつでも、いつまでも。そばにいる』
不思議と大人びた声で告げて、眩い光に包まれ、消えていった。
失くしてから、気付く。彼女のぬくもりが残った胸に、手を当てる。その手に、降り落ちた。
瞬間、さっきよりも強い光が世界を覆いつくして、意識がぼんやりして、遠ざかっていく。
「……」
がたんごとん。いつも通りの振動に揺られながら、ふっと息を吐く。
胸の奥に、温かい光が灯っている。私の中には、ようやく自由になった彼女と、これまで一緒に過ごしてきた彼女たちがいる。
マスターさんは言っていた。その人にとって、大切な時間の夢を見ることは多い。と。
彼の言う通り、幸せだから辛かった。けれど、受け入れた今はもう、すっきりとした心地だけがある。
静かに一定に揺れる電車。窓の外は、相変わらず不思議な暗がりがあった。
そもそも途中で、目を覚ますことはない。マスターさんが教えてくれたことと、違うことが起きている。マスターさんが知らないことも、あるかもしれない。
けれど、だからこそ、その異変は何かに必要なことだと思った。
足元に視線を落とし、瞼を閉じる。唇を動かした。
幼い少女の声がした。振り返ると、いつも静かで大人しい少女は柔らかな表情を向けていた。
「おとうさん」
呼ばれて、構えたカメラを少女に覗かせた。映る世界に、少女は幸せそうな笑顔を見せる。
「おとうさんのおしゃしん、だいすき」
父親は、何も言わずに静かな微笑みを浮かべて、少女の指先をシャッターボタンに乗せた。
父と娘。二人から視線を逸らして、広場の真ん中にある大きな木に目を向ける。
木漏れ日が落ちる場所に、母親が座っていた。
眩しそうに目を細めて、二人を見守っている。緑の芝生にレジャーシートを敷いて、その上に体育座りをして。隣に、プリンセスが描かれた水筒と麦わら素材のかごバックがある。
家族三人の幸せな時間がそこにはあった。
本当は、広場だから他にも人がいたはずで、けれど映る世界には三人だけがいた。その世界の端っこで、日の光が当たらない境界線の先に、一人で蹲る子どもがいた。子どもだけど、幼い少女より大人に近い姿。
迷わず、私は足を進めた。本当はまだまだ子どもな、白いセーラー服の彼女に近づいた。
彼女の前で、しゃがむ。視界の端から、心地いい光が消えて、世界が人工的な白に包まれる。
彼女の周りだけ、深い闇のような影があった。
「御園七瀬」
あの日。何も言わずに玄関で父親と別れた彼女は、身長は二センチしか変わらないのに幼く見えて。あの日の姿のままの彼女は、一人でずっと蹲って、身動きが取れずにいた。
「私は、本当は一人でいることが寂しくて。全然、平気なんかじゃなかった」
「……」
「ドラマで見るような家族に憧れて。小言がうるさいくらいに感じて。学校はどうだったのかとか、そういう会話をしながら一緒にご飯を食べて。朝は二度寝を叩き起こされたり、忘れ物がないか心配されて」
「……」
「でも、それは本当に憧れに過ぎなくて。寂しかったけど、憧れ以上に、家族三人で過ごす時間が大切だった。お父さんとお母さんが、本当に大好きだった」
目を背けて、閉じ続けた彼女。
今はもう何も言わない彼女が、きつく握り締めた手にそっと触れる。
「貴方のせいにして、貴方だけに大切な時間を押しつけて、ごめんなさい。無理やり仕舞い込んで、ごめんなさい。辛い想いをさせて、ごめんなさい」
ずっと触れられなかった手は、堪えらえないように震えていて。私は泣きそうになりがなら、その手を掴んだ。
「私が選んできた貴方を、もう一人にはしたくない」
空いた方の手を彼女の背に伸ばして、抱きしめる。
腕の中の彼女は、泣いていた。噛んだ唇から、堪え切れず洩れたような息は湿っていて。
「私、大切な人が出来た。それも、一人じゃない」
「……」
少しずつ、彼女の周りの深い闇のような影が薄れていく。元々そんなものはなかったように、白くなっていく。
「もう、いいよ」
思ってばっかりで口ばっかり。意気地なし。そう思っていたのは、本当は私だった。
ずっと、彼女を許せなかった。許したくなかった。
思い出を封じ込めて、あの日に彼女を置き去りにすることで、日常を過ごそうとした。
大切で幸せな時間を失ったことが悲しくて、辛くて。彼女だけのせいにした。
だからきっと、世界から輝きが消えた。
だけど本当は、世界の輝きとか関係なくて。
ただ、確かにそこにあった大切な時間を取り戻したかった。
「貴方がそばにいてくれたから、大切な時間があったことを忘れなかった」
ふいに、今よりも長かった黒い髪が動いた。
少し幼い顔が、躊躇うように私を見上げる。
「今まで、ありがとう」
泣きそうな顔で、彼女は幸せそうに笑った。それから、彼女は――
『いつでも、いつまでも。そばにいる』
不思議と大人びた声で告げて、眩い光に包まれ、消えていった。
失くしてから、気付く。彼女のぬくもりが残った胸に、手を当てる。その手に、降り落ちた。
瞬間、さっきよりも強い光が世界を覆いつくして、意識がぼんやりして、遠ざかっていく。
「……」
がたんごとん。いつも通りの振動に揺られながら、ふっと息を吐く。
胸の奥に、温かい光が灯っている。私の中には、ようやく自由になった彼女と、これまで一緒に過ごしてきた彼女たちがいる。
マスターさんは言っていた。その人にとって、大切な時間の夢を見ることは多い。と。
彼の言う通り、幸せだから辛かった。けれど、受け入れた今はもう、すっきりとした心地だけがある。
静かに一定に揺れる電車。窓の外は、相変わらず不思議な暗がりがあった。
そもそも途中で、目を覚ますことはない。マスターさんが教えてくれたことと、違うことが起きている。マスターさんが知らないことも、あるかもしれない。
けれど、だからこそ、その異変は何かに必要なことだと思った。
足元に視線を落とし、瞼を閉じる。唇を動かした。