階段を上がると、彼女は屋上の扉のそばで、体育座りの膝に頭を乗せていた。
近づいて足を止めた瞬間、勢いよく顔を持ち上げた彼女の鋭い目が頬に刺さった。何故か痛みはなく、ただ息が詰まった。
「あたしの名前は?」
ふいに投げられた問いに、思わず不安になった。迷いながら、口を開く。
「志倉澪さん」
「あたしがした自己紹介は?」
「え」
「いいから答えて」
「……好きな食べ物は、花屋っていうパン屋のあんぱんとメロンパン。合っていますか?」
彼女は鋭い目で、私をじっと見つめる。しばらくして、それから顎を掴んで首を傾げた。
「全然いい質問じゃなかった」
「え?」
「あ、気にしないで。ひとり言だから」
真剣な空気を一気に解けて、作り物だと気付く。おかげで、肩から力が抜けた。浅く息を吐くと、あっ、と思いついたような声が響いた。
彼女は膝に顎を凭れさせて、穏やかな目で私を見る。その瞳の奥がやけに冷静で、冷たく見えて、そっと背中が寒くなる。
「あたし達が出会った場所は?」
面白がっているような、試すような、そんな声音。
答えようとして、何故か声帯がひくつく。話すという行為に、緊張感みたいなものを覚えるのは初めてだった。
「異界駅です」
ふっと、彼女の唇の端がゆるやかに動く。悪戯が成功した子どもみたいな顔をした。
「ごーかく」
間延びした口調とは裏腹に、猫のように軽やかに、そして素早く立ち上がった。今気付いた、彼女の隣にいたビニール袋が存在を知らせるように音を鳴らす。
「じゃ、行こっか」
「え?」
「屋上って、結構人がいるんだよね。聞こえたとしても、別にに信じないだろうけど。ま、念のため。待ち合わせ場所としては、分かりやすいから選んだの」
「そう、なんですね」
スタスタと迷いなく進む彼女の後ろを歩く。
疑問はあった。どうして名前と出会った場所を問われたのか。どうして近づいた私に鋭い目を――見極めるような目を向けたのか。考えながら足を動かした。
どんどん明るい声から離れて、殆ど足音だけになったところで、彼女はガラガラと音を立てて扉を開けた。立っていれば、向かいに第一体育館が見える、非常階段だった。
「ここ、秘密の話をするのにおすすめ。滅多に人来ないし」
どう動けばいいか分からなくて棒立ちになっていた私を、彼女は隣の地面を叩いて、座るように促した。
「じゃ、改めて。説明ね」
座るなり、彼女は袋からコッペパンを出して、包装を引っぺがした。白いホイップクリームと、抹茶のような色のクリームがたっぷり挟んである。大きな口で噛みつくと、口の端にクリームが残る。指先で拭って唇で舐めて、彼女は食べながら説明を始めた。
昨夜、話したこと。【怪物】や番人の仕事。過去や未来、並行世界に行ける【切符】。
それから、初めて教えてくれた。
夜明けに扉を開くと、住む世界に帰れること。住む世界と担当する異界駅を繋ぐ【定期券】。 乗車前にネットに書き込んだことに従い、住む世界に残った自分が行動すること。迷い込んだ人は、ただ家に帰って眠りに入ること。異界駅にいるのは、あくまで意識だけ。けれど身体は、住む世界に残った身体と繋がっている。
ライターの火は、真実を見せ、息を吹きかけて消せば、夜明けを待たずに世界に帰れること。
音の出ない鈴がついたチョーカーは、番人など、異界駅の関係者の証。
軽やかな声で説明を終えると、私が抱いた疑問の半分を教えてくれた。
「異界駅に迷い込んだ人で、そのことを覚えている人は少ないの。だから、さっきの質問」
「名前と自己紹介、出会った場所。ですか?」
「うん、そ。好きな食べ物だけだけど。いやぁ、クラス変わるたびにさせられるの忘れてた」
「……」
「覚えてるのは、屋上に来てくれたので分かったんだ。でも一応、ほら、念のため? 他人に従順な子だったら、困るでしょ? っていうか、あたしが痛い人? みたいな」
痛い人、と思う。覚えていて、夢だと思わなかった私は、痛い人になるのだろうか。分からなくて、開けずに両手で持ったままのあんぱんの袋の端を、指先でいじる。「んー」と籠った声が上がった。
「食べないの? ちゃんと食べなよー」
もごもごと大きな欠片を頬に詰め込みながら喋った台詞は、辛うじて聞き取れた。気遣いの視線まで向けられて、封を破る。
「それね、美味しいよ」
空になった口ではっきりと伝え、ウィンクを投げる。有名なのだろうか、と思った。
「これをくれた親切な人も言ってました。美味しいからって」
「あんぱんをくれた人が、いるの? 親切な人?」
「一緒に食べようって言われたので、購買部で買おうとしていたら、渡してくれました。得意じゃないのに、間違えて買った。多分、嘘を吐いて」
「へぇー、よく分かんない親切な人もいるもんだね」
疑問形で聞いたわりに無感動な声で言って、けれどその目は、あんぱんに熱い視線を注いでいる。
数秒悩んで、半分に割った。重量を裏切らないくらい、あんこがぎっしり詰まっていた。
「半分、食べますか?」
「いいの?」
「はい」
わーい、と幼い子どもみたいに素直に喜んで、彼女は有難そうに両手で受け取った。
齧りついて、美味しいと思った。お腹と一緒に、胸の奥が満たされていくような気がした。
「んんー、やっぱうんまい! 七瀬に親切にしてくれた人にも感謝しなきゃね」
せめて写真に残して置こうと、ポケットから取り出したスマホはそのまま、彼女を見る。
「どんな人だった?」
「ネクタイが青色で、二年生ということしか」
「んー、特徴は?」
片手にはあんぱん、人差し指で鼻先を擦る姿は、未熟な新人刑事みたいだ。新人刑事に情報を乞われた私は目を閉じて、昨夜出会った時とは服装が違った青年の姿を思い浮かべる。
「――きっと青い空がよく似合う、爽やかな空気を纏っていました」
ゆっくり目を開けると、きょとんとした顔が見えた。あっと思うものの、弁解する言葉は用意出来ない。
「あたしたちの年代じゃ、大体はそうじゃないかな? じゃあ、とりあえず」
何が、じゃあ、になるのか分からなかった。だから何も言わずに、続く言葉を待った。
「あんぱん先輩ってことで。七瀬にとっては、一応? 先輩なわけだし」
「……あんぱん、先輩」
国内外で有名なキャラクターみたいな響きは、記憶の中の青年には似合わなくて、幼稚で、上手く馴染まない口にあんぱんを押し込める。
あんぱん先輩。味わうために、普段より遅い速度の咀嚼をして、胃袋に落としていく。
「あたしのことは、澪って呼ぶこと」
私の膝の上に、苺大福と書かれたそれを置きながら、彼女は言った。「あんぱんの代わりになるか分かんないけど」と続けて、真面目な顔をする。今度は、作り物、には見えなかった。
「それが一つ目の条件」
「何の条件ですか?」
「番人であるあたしの助手になる条件」
「……」
「七瀬が助手をしてくれる代わりに、あたしは必ず七瀬を守るし、あたしの報酬を半分あげる。お金も、【切符】は二枚手に入れるまで続ける。口約束の契約だけど、それでも契約だから条件はつける」
異界駅にいた時には、条件とは一言も言わなかった。多分、私が昨夜のことを忘れる可能性があったから、言わなかったのだと思う。
「他の条件は何ですか?」
「まずは、澪って言って」
一つ目の条件は、思うより重要らしかった。躊躇した唇を一度噛んで、はっきり開く。
「澪」
ゆら以外の名前を、それも先輩の名前を呼ぶのは慣れていない。
一瞬で真面目な顔を崩して、ふんわりとした笑みを浮かべる。満足気に、深く頷く。
「よしっ」
歯を見せてはにかみ、それからまた、さっきよりも真剣な表情をする。周りの空気が止まったような錯覚を感じて、呼吸を忘れた。
彼女は、――澪は、それでもその姿勢を崩さない。昨夜みたいな余裕は、全く見えない。
「【切符】を手に入れたい理由は、お互い秘密にすること」
それは、どうして。質問することも、許されていない気がした。
忘れていた呼吸をして、咳き込みかけながら、詰まりそうな程に薄い空気を吸った。
「分かりました」
どうにか、辛うじて、答える。
澪はすぐに明るい顔を取り戻して、苺大福を置いたその手を、迷うことなく差し出した。
「これから【切符】が手に入るまで、よろしくね」
「よろしくお願いします」
【切符】が見つかるまで。
いつか必ずが、いつになるのか分からない。それでも願いが叶うなら、そのいつかを選ぶ。
私は、【切符】を手に入れたい。
その先、【切符】を手に入れた先、私達の関係は、どうなっているのだろう。
何事もなかったかのように、コンビニの袋からまた新たな和の菓子パンを引き抜く澪の横顔を眺めながら、私は見えない未来を想像した。
近づいて足を止めた瞬間、勢いよく顔を持ち上げた彼女の鋭い目が頬に刺さった。何故か痛みはなく、ただ息が詰まった。
「あたしの名前は?」
ふいに投げられた問いに、思わず不安になった。迷いながら、口を開く。
「志倉澪さん」
「あたしがした自己紹介は?」
「え」
「いいから答えて」
「……好きな食べ物は、花屋っていうパン屋のあんぱんとメロンパン。合っていますか?」
彼女は鋭い目で、私をじっと見つめる。しばらくして、それから顎を掴んで首を傾げた。
「全然いい質問じゃなかった」
「え?」
「あ、気にしないで。ひとり言だから」
真剣な空気を一気に解けて、作り物だと気付く。おかげで、肩から力が抜けた。浅く息を吐くと、あっ、と思いついたような声が響いた。
彼女は膝に顎を凭れさせて、穏やかな目で私を見る。その瞳の奥がやけに冷静で、冷たく見えて、そっと背中が寒くなる。
「あたし達が出会った場所は?」
面白がっているような、試すような、そんな声音。
答えようとして、何故か声帯がひくつく。話すという行為に、緊張感みたいなものを覚えるのは初めてだった。
「異界駅です」
ふっと、彼女の唇の端がゆるやかに動く。悪戯が成功した子どもみたいな顔をした。
「ごーかく」
間延びした口調とは裏腹に、猫のように軽やかに、そして素早く立ち上がった。今気付いた、彼女の隣にいたビニール袋が存在を知らせるように音を鳴らす。
「じゃ、行こっか」
「え?」
「屋上って、結構人がいるんだよね。聞こえたとしても、別にに信じないだろうけど。ま、念のため。待ち合わせ場所としては、分かりやすいから選んだの」
「そう、なんですね」
スタスタと迷いなく進む彼女の後ろを歩く。
疑問はあった。どうして名前と出会った場所を問われたのか。どうして近づいた私に鋭い目を――見極めるような目を向けたのか。考えながら足を動かした。
どんどん明るい声から離れて、殆ど足音だけになったところで、彼女はガラガラと音を立てて扉を開けた。立っていれば、向かいに第一体育館が見える、非常階段だった。
「ここ、秘密の話をするのにおすすめ。滅多に人来ないし」
どう動けばいいか分からなくて棒立ちになっていた私を、彼女は隣の地面を叩いて、座るように促した。
「じゃ、改めて。説明ね」
座るなり、彼女は袋からコッペパンを出して、包装を引っぺがした。白いホイップクリームと、抹茶のような色のクリームがたっぷり挟んである。大きな口で噛みつくと、口の端にクリームが残る。指先で拭って唇で舐めて、彼女は食べながら説明を始めた。
昨夜、話したこと。【怪物】や番人の仕事。過去や未来、並行世界に行ける【切符】。
それから、初めて教えてくれた。
夜明けに扉を開くと、住む世界に帰れること。住む世界と担当する異界駅を繋ぐ【定期券】。 乗車前にネットに書き込んだことに従い、住む世界に残った自分が行動すること。迷い込んだ人は、ただ家に帰って眠りに入ること。異界駅にいるのは、あくまで意識だけ。けれど身体は、住む世界に残った身体と繋がっている。
ライターの火は、真実を見せ、息を吹きかけて消せば、夜明けを待たずに世界に帰れること。
音の出ない鈴がついたチョーカーは、番人など、異界駅の関係者の証。
軽やかな声で説明を終えると、私が抱いた疑問の半分を教えてくれた。
「異界駅に迷い込んだ人で、そのことを覚えている人は少ないの。だから、さっきの質問」
「名前と自己紹介、出会った場所。ですか?」
「うん、そ。好きな食べ物だけだけど。いやぁ、クラス変わるたびにさせられるの忘れてた」
「……」
「覚えてるのは、屋上に来てくれたので分かったんだ。でも一応、ほら、念のため? 他人に従順な子だったら、困るでしょ? っていうか、あたしが痛い人? みたいな」
痛い人、と思う。覚えていて、夢だと思わなかった私は、痛い人になるのだろうか。分からなくて、開けずに両手で持ったままのあんぱんの袋の端を、指先でいじる。「んー」と籠った声が上がった。
「食べないの? ちゃんと食べなよー」
もごもごと大きな欠片を頬に詰め込みながら喋った台詞は、辛うじて聞き取れた。気遣いの視線まで向けられて、封を破る。
「それね、美味しいよ」
空になった口ではっきりと伝え、ウィンクを投げる。有名なのだろうか、と思った。
「これをくれた親切な人も言ってました。美味しいからって」
「あんぱんをくれた人が、いるの? 親切な人?」
「一緒に食べようって言われたので、購買部で買おうとしていたら、渡してくれました。得意じゃないのに、間違えて買った。多分、嘘を吐いて」
「へぇー、よく分かんない親切な人もいるもんだね」
疑問形で聞いたわりに無感動な声で言って、けれどその目は、あんぱんに熱い視線を注いでいる。
数秒悩んで、半分に割った。重量を裏切らないくらい、あんこがぎっしり詰まっていた。
「半分、食べますか?」
「いいの?」
「はい」
わーい、と幼い子どもみたいに素直に喜んで、彼女は有難そうに両手で受け取った。
齧りついて、美味しいと思った。お腹と一緒に、胸の奥が満たされていくような気がした。
「んんー、やっぱうんまい! 七瀬に親切にしてくれた人にも感謝しなきゃね」
せめて写真に残して置こうと、ポケットから取り出したスマホはそのまま、彼女を見る。
「どんな人だった?」
「ネクタイが青色で、二年生ということしか」
「んー、特徴は?」
片手にはあんぱん、人差し指で鼻先を擦る姿は、未熟な新人刑事みたいだ。新人刑事に情報を乞われた私は目を閉じて、昨夜出会った時とは服装が違った青年の姿を思い浮かべる。
「――きっと青い空がよく似合う、爽やかな空気を纏っていました」
ゆっくり目を開けると、きょとんとした顔が見えた。あっと思うものの、弁解する言葉は用意出来ない。
「あたしたちの年代じゃ、大体はそうじゃないかな? じゃあ、とりあえず」
何が、じゃあ、になるのか分からなかった。だから何も言わずに、続く言葉を待った。
「あんぱん先輩ってことで。七瀬にとっては、一応? 先輩なわけだし」
「……あんぱん、先輩」
国内外で有名なキャラクターみたいな響きは、記憶の中の青年には似合わなくて、幼稚で、上手く馴染まない口にあんぱんを押し込める。
あんぱん先輩。味わうために、普段より遅い速度の咀嚼をして、胃袋に落としていく。
「あたしのことは、澪って呼ぶこと」
私の膝の上に、苺大福と書かれたそれを置きながら、彼女は言った。「あんぱんの代わりになるか分かんないけど」と続けて、真面目な顔をする。今度は、作り物、には見えなかった。
「それが一つ目の条件」
「何の条件ですか?」
「番人であるあたしの助手になる条件」
「……」
「七瀬が助手をしてくれる代わりに、あたしは必ず七瀬を守るし、あたしの報酬を半分あげる。お金も、【切符】は二枚手に入れるまで続ける。口約束の契約だけど、それでも契約だから条件はつける」
異界駅にいた時には、条件とは一言も言わなかった。多分、私が昨夜のことを忘れる可能性があったから、言わなかったのだと思う。
「他の条件は何ですか?」
「まずは、澪って言って」
一つ目の条件は、思うより重要らしかった。躊躇した唇を一度噛んで、はっきり開く。
「澪」
ゆら以外の名前を、それも先輩の名前を呼ぶのは慣れていない。
一瞬で真面目な顔を崩して、ふんわりとした笑みを浮かべる。満足気に、深く頷く。
「よしっ」
歯を見せてはにかみ、それからまた、さっきよりも真剣な表情をする。周りの空気が止まったような錯覚を感じて、呼吸を忘れた。
彼女は、――澪は、それでもその姿勢を崩さない。昨夜みたいな余裕は、全く見えない。
「【切符】を手に入れたい理由は、お互い秘密にすること」
それは、どうして。質問することも、許されていない気がした。
忘れていた呼吸をして、咳き込みかけながら、詰まりそうな程に薄い空気を吸った。
「分かりました」
どうにか、辛うじて、答える。
澪はすぐに明るい顔を取り戻して、苺大福を置いたその手を、迷うことなく差し出した。
「これから【切符】が手に入るまで、よろしくね」
「よろしくお願いします」
【切符】が見つかるまで。
いつか必ずが、いつになるのか分からない。それでも願いが叶うなら、そのいつかを選ぶ。
私は、【切符】を手に入れたい。
その先、【切符】を手に入れた先、私達の関係は、どうなっているのだろう。
何事もなかったかのように、コンビニの袋からまた新たな和の菓子パンを引き抜く澪の横顔を眺めながら、私は見えない未来を想像した。