初めて放り投げたリュックが重たげにベッドに沈み込む。
 私は、薄いカーペットを敷いただけの床に蹲るように寝転がる。
 もう一人の私は、一昨日から黙り込んでいた。知ってしまったことに、傷つけられたように。
 ずっと傷ついていたのは、澪なのに。澪を傷つけていたのは、私なのに。
 私は、澪を追いかけなかった。学校中を走って、探さなかった。
 先輩に、澪のそばにいてほしいと伝えなかった。
 出来ることは、やるべきことは、分かっていた。
 澪を一人にしてはいけなかった。
 それなのに、私は選ぶことすら手放して、全てから逃げ出した。
 嫉妬した。先輩の心には、もう割り込む隙間すらないくらい澪がいて。先輩は何度も助けてくれて、寄り添ってくれて、涙も拭ってくれて。先輩と、手を繋いだ。だけど、私を呼ぶ声に、澪の名前を呟いた声にはあった、温かく切なく揺れるものはなかった。
 先輩は、大切な時間と場所を教えてくれた。それだけで十分だと思おうとしたのに、出来なかった。
 恨んだ。先輩から大切な時間と場所を奪った誰かを、何かを。見えない運命みたいなものを。
 溺れた。いなくなった人を想う悲しみに。何かが欠けて満ちない、飢えるような孤独感に。
 願った。元には戻れなくても、先輩と澪がまた、話せるように。あんな風に、澪が先輩を遠ざけなくてもいいように。
 本音が重なり合って、胸が軋んで。暴こうとした澪に、ひどい言葉をぶつけようとした。
『澪には分からない。初めて人を好きになって、叶わないって分かって。だけど、どうしても残る想いなんて』
 そんな身勝手で、思いやりの欠片もない、取り返しのつかない言葉で澪を傷つけようとした。
 叶わないから。先輩が好きだから。そんな、そんなものは免罪符にはならないのに。
 最悪な私に、澪に関わる資格なんてもうない。澪の助手にも戻れない。せめて、先輩に澪を助けてほしいと伝えられたら、最後くらいは澪を救えたのかもしれない。
 可能性に過ぎなくて。それが後悔だとも分かっている。後悔なら、今からでも晴らすべきなのだろうか。私が身勝手に、【怪物】と呼ばれる死者達にしたように。
 だけどもう、関わるべきじゃない。澪と私は、お互いの理由を受け入れられない。
 これ以上、一緒にいても、幸せにはなれない。
 思って、渇いた声が漏れた。口の周りの筋肉だけが、情けなく笑みを浮かべた。
 不思議な光りを放つ月の下で、死の空気に溢れた場所で、幸せになれないことは、初めから分かっていた。だからこそ魔が差して、願った。昔のままでいられた方法を知りたかった。
 本当は、【怪物】と呼ばれる死者を成仏させるだけで良かった。
 本来の、ただそれだけの関係であれば、澪と私は近づき過ぎなかったのだろうか。
 願いを、受け入れてもらえなかった。そんな、無意識に勝手に期待して、突き放されてから傷つくこともなかったのだろうか。
 選んで、繋いできた道を、私は否定しようとした。全て夢だったんだと、手放そうとした。
 ――『あの子のそばにいてあげて』
 身体が、勝手に動いていた。突然飛び起きたせいで、視界が白く霞んで、重力を見失う。背中を、ベッドの下の引き出しの出っ張りにぶつける。鈍い痛みに、少しずつ現実を取り戻す。
 夏木が遺してくれた。忘れてはいけない大切な言葉まで、私は手放そうとしていた。
 ぎゅっと、手を強く握り締める。線香の甘い香りを、強い光の中に消えた熱を。引き留めると、皮膚の下がジリリと火傷したように痛くなった。
 夏木は、託してくれた。自分と重ねた澪のことを。
 死んだことを後悔していた。夏木の想いを、生きている私はちゃんと大切にしたい。
 握り締めた手を強く瞼に擦りつけて、私は自分の意思で、立ち上がった。机の上の小さなケースに手を伸ばす。
 ふいに目に入ったものに、手が動くことを止めた。
 躊躇った手で、私は拾い取ることを選んだ。
 写真展のチケットを眺めて、指先が冷たくなっていく。私の手は、まだ少し震えていた。
 私は一度目を瞑って、クローゼットに近づくことを選んだ。
 クローゼットの引き手に触れる。
 変わりたくないのか、変わりたいのか分からない。気持ちはまだ、整理がついてない。簡単に、切り離せてなんかいない。無理やり前に進もうとしているのかも分からない。
 だけど今を、逃したくない。
 指先に力を込めて、引き手を引っ張った。軋む音もなく、容易く開いた。
 隅っこ木製の踏み段を引き摺るようにして、移動させる。手を握りしめたまま、片足を乗せて、もう一歩の足も置く。
 黒い蓋に閉じ込めた白い箱。
 唾を、飲み込んでいた。はく、と空気が肺の中に戻っていくような感覚があった。浅く息を吐いて、片手に込めた力を出来るだけ解く。 
 両手を伸ばして、持ち上げる。どうやって置いたのか覚えていないそれは、思っていたよりも重く、両腕で抱え直した。それから慎重に、踏み台から降りる。
 机の上に置くと、ぽっかりとまた、欠けた何かが胸の奥で触れた。
 黒い蓋を、両手で持ち上げて箱の横に置く。
 ずっと閉じ込めていた。それらは、ぎっしりと隙間もなく並んで、ただ息を潜めていた。
 一番左のアルバムの背を撫でる。そして、指を引っ掛けて、取り出した。
 卒業アルバムくらいの大きさはあるそれは、予想した通りにずっしりとした重さがあった。
 一冊だけ、腕に抱える。喉の奥がひんやりとしたものに詰まって、塞がれて、息が苦しくなる。また、指先の熱がなくなっていく。
 大丈夫。いつもの発作。
 深く深く息を吐いて、一度だけ、夏木の姿を思い浮かべる。
 すると、不思議な心地がした。強い光の中に消えていった夏木が、隣にいてくれている気がした。
 ――記憶と同じ夏木の手が、大切そうにアルバムを開いた。