誰よりも早く教室を出て、昇降口で口を履き替える。一度辺りを見渡して、それから、普段とは違う方向に足を向けた。
自転車置き場を通り過ぎて、少し肌寒いくらいの木陰の下を小走りで通る。アスファルトの光と影の境目を飛び越えようとして、突然、背中に何かがぶつかった。地面に落ちた何かに振り向いたのと、躊躇いない声が聞こえたのは、殆ど同時だった。
「やっぱ、避けてるよね」
答えず生徒手帳を拾い上げれば、固い足音が近づいてくる。まだ異界駅に行く準備をする前の、黒色のローファーを見つめたまま、生徒手帳を差し出す。
「昨日も、裏門から出たの?」
「……」
苛立たし気に生徒手帳を奪い取る。一歩だけ、黒い靴が近づく。私は顔を上げなかった。
「澪には会えません。今は」
「は?」
「少し、距離を置いて考えたいんです」
「簡単に言いなよ。会いたくないんでしょ?」
「そうは、言ってないです」
我慢しようと左手に伸ばそうとした右手を、澪が素早く引っ張り上げた。思わず、目を上げて、容易く視線が絡み合う。瞳に濁った色を宿して、澪は私を睨みつけていた。
態度もその表情も、ひどく尖って荒々しいのに。何故か、今にも泣きそうな子供に見えた。
「はっきり言って。あたし分かるから、そういうの」
「そういうのって、何ですか」
「恨んでるんでしょ。一昨日、邪魔したから。好きな人との時間」
「そんな、単純なことじゃないです」
「じゃあ何? 言ってくんなきゃ、分かんないんだけど」
眉間に刻まれた深い皺に、手を握り締める力の強さに、澪の中には何の躊躇いもないのだと知る。土足で踏み込んで、私が距離置きたい理由を知ろうと、暴こうとしていた。
私は、唇を噛んだ。一度でも口を開けば、取り返しがつかないことを言ってしまうと思った。
「何、答えないの? それとも、あたしと話すのも嫌?」
「……」
きつく、噛み締める。息が上手く吐き出せなくて、真っ暗なものに溺れそうになる。
「あたしは、何言われても平気だよ」
知らない。澪は、私が知っていることを。私が澪に向けて、抱いている感情の危うさを。
だから、そんなことが言える。私は言って、澪をこれ以上傷つけたくなかった。
もうずっと前から傷つくことに慣れたような、そんな表情をする澪を、私は話さないことでしか守れそうにない。
「何も知らないで、避けられる方が嫌なんだけど」
「…………ごめんなさい」
辛うじて、それだけ。息が洩れるように呟く。
私は、澪を理由にして、澪のせいにしていた。澪を傷つけたくない想いと同じくらい、吐き出したら惨めになる言葉を口から出したくなかった。
じっと私を見つめていた澪が、唐突に、払うように手を離した。強い力に、一歩後退る。
「もう、辞めよ」
告げられた言葉の意味を、理解するまでに時間が掛かる。え、と吐息が零れた。
「正直に言うよ。七瀬を助手に誘った理由」
さすがにマスターも話してないでしょ。他人事みたいに澪は笑う。口元だけで、まだ薄いメイクの目は笑ってない。
「早く【切符】を手に入れたかったから。七瀬は人より少し生命力が強くて、その分だけ丁度いい感じに【怪物】が集まってくる。多くもなく少なくもない、ね。あたしには集まってこないから。だから、七瀬を誘ったの。囮にするために」
息を、止めているのか分からない。重い身体が切り離されたように、痛みさえ薄れていた。
ふいに、いつかのマスターさんの声を思い出す。
私は澪の目的と、【切符】を手に入れたい理由は同じだと考えてた。だけど、違ったんだ。
「あたしは、あたしの目的のために七瀬を利用した。どう、裏切られた気分?」
「……」
何か、言わなければいけないと思うのに、身体は自由に動いてくれない。
「でも、七瀬も同じだよね。番人になる覚悟はないけど、助手になって守ってもらって。報酬は山分けのいいとこどり」
「……」
「七瀬も、あたしを利用してた。だからあたしは、悪いことしたとは思ってない」
その通りだと思う。むしろ私は、澪より残酷なことをしていた。命を懸けるのは澪で、命を預けるというのは随分と耳障りがいい。結局、願いを叶えることすら、人任せにしていた。
「それでも、勝手に七瀬の命を利用したあたしを、もう信じることは出来ないでしょ?」
「……そんな、ことは」
「じゃあ、言葉を変えるよ。七瀬があたしを利用する理由を、あたしはもう受け入れられない。七瀬も、あたしの理由を肯定出来ないでしょ?」
答えられなかった。その通りだから。だけどそれ以上に、私の理由は澪のものより普通で、正しいと思ってしまった。
「ね、答えは出たでしょ」
潮が交ざって柔らかい、場違いな風が澪と私の髪を揺らす。澪はその中で、笑っていた。
「あたしは異常者で、七瀬が普通なんだ」
「……」
「前から思ってた。普通の七瀬は、あの場所には向いてない」
いってらっしゃい。おかえり。そう言ってくれた口が、私を突き放していた。見えない分厚い壁を、飛び越えられない一線を作って。
澪が平然と背を向ける。薄く暗い木陰の下を歩いていく。
「どうして」
叫ぶような、だけど掠れた声を吐き出した。澪は、ゆっくりと軽やかに足を止めた。
「どうして、並行世界の自分を殺したいんですか」
澪は振り向かなかった。風に揺られ、緑の葉の隙間から漏れた光は、澪の身体に触れない。
「宗太の弟を、あたしが殺したから」
どの感情も捨ててきたような声で答えて、澪は再び歩き出す。固いローファーの音を覆うみたいに、遠くから勇ましい掛け声が聞こえた。
晴れ間が落ちるように、どこかから反射した光が瞼にぶつかって、思わず目を閉じる。次に瞼を持ち上げた時には、もう小さな背中は消えていた。
今起きたことも、二人で遠出したことも、異界駅で出会ったことさえ、夢みたいに思えた。
だけど、残された言葉が、伝えられなかった言葉が、胸を締め付けて離さなかった。
自転車置き場を通り過ぎて、少し肌寒いくらいの木陰の下を小走りで通る。アスファルトの光と影の境目を飛び越えようとして、突然、背中に何かがぶつかった。地面に落ちた何かに振り向いたのと、躊躇いない声が聞こえたのは、殆ど同時だった。
「やっぱ、避けてるよね」
答えず生徒手帳を拾い上げれば、固い足音が近づいてくる。まだ異界駅に行く準備をする前の、黒色のローファーを見つめたまま、生徒手帳を差し出す。
「昨日も、裏門から出たの?」
「……」
苛立たし気に生徒手帳を奪い取る。一歩だけ、黒い靴が近づく。私は顔を上げなかった。
「澪には会えません。今は」
「は?」
「少し、距離を置いて考えたいんです」
「簡単に言いなよ。会いたくないんでしょ?」
「そうは、言ってないです」
我慢しようと左手に伸ばそうとした右手を、澪が素早く引っ張り上げた。思わず、目を上げて、容易く視線が絡み合う。瞳に濁った色を宿して、澪は私を睨みつけていた。
態度もその表情も、ひどく尖って荒々しいのに。何故か、今にも泣きそうな子供に見えた。
「はっきり言って。あたし分かるから、そういうの」
「そういうのって、何ですか」
「恨んでるんでしょ。一昨日、邪魔したから。好きな人との時間」
「そんな、単純なことじゃないです」
「じゃあ何? 言ってくんなきゃ、分かんないんだけど」
眉間に刻まれた深い皺に、手を握り締める力の強さに、澪の中には何の躊躇いもないのだと知る。土足で踏み込んで、私が距離置きたい理由を知ろうと、暴こうとしていた。
私は、唇を噛んだ。一度でも口を開けば、取り返しがつかないことを言ってしまうと思った。
「何、答えないの? それとも、あたしと話すのも嫌?」
「……」
きつく、噛み締める。息が上手く吐き出せなくて、真っ暗なものに溺れそうになる。
「あたしは、何言われても平気だよ」
知らない。澪は、私が知っていることを。私が澪に向けて、抱いている感情の危うさを。
だから、そんなことが言える。私は言って、澪をこれ以上傷つけたくなかった。
もうずっと前から傷つくことに慣れたような、そんな表情をする澪を、私は話さないことでしか守れそうにない。
「何も知らないで、避けられる方が嫌なんだけど」
「…………ごめんなさい」
辛うじて、それだけ。息が洩れるように呟く。
私は、澪を理由にして、澪のせいにしていた。澪を傷つけたくない想いと同じくらい、吐き出したら惨めになる言葉を口から出したくなかった。
じっと私を見つめていた澪が、唐突に、払うように手を離した。強い力に、一歩後退る。
「もう、辞めよ」
告げられた言葉の意味を、理解するまでに時間が掛かる。え、と吐息が零れた。
「正直に言うよ。七瀬を助手に誘った理由」
さすがにマスターも話してないでしょ。他人事みたいに澪は笑う。口元だけで、まだ薄いメイクの目は笑ってない。
「早く【切符】を手に入れたかったから。七瀬は人より少し生命力が強くて、その分だけ丁度いい感じに【怪物】が集まってくる。多くもなく少なくもない、ね。あたしには集まってこないから。だから、七瀬を誘ったの。囮にするために」
息を、止めているのか分からない。重い身体が切り離されたように、痛みさえ薄れていた。
ふいに、いつかのマスターさんの声を思い出す。
私は澪の目的と、【切符】を手に入れたい理由は同じだと考えてた。だけど、違ったんだ。
「あたしは、あたしの目的のために七瀬を利用した。どう、裏切られた気分?」
「……」
何か、言わなければいけないと思うのに、身体は自由に動いてくれない。
「でも、七瀬も同じだよね。番人になる覚悟はないけど、助手になって守ってもらって。報酬は山分けのいいとこどり」
「……」
「七瀬も、あたしを利用してた。だからあたしは、悪いことしたとは思ってない」
その通りだと思う。むしろ私は、澪より残酷なことをしていた。命を懸けるのは澪で、命を預けるというのは随分と耳障りがいい。結局、願いを叶えることすら、人任せにしていた。
「それでも、勝手に七瀬の命を利用したあたしを、もう信じることは出来ないでしょ?」
「……そんな、ことは」
「じゃあ、言葉を変えるよ。七瀬があたしを利用する理由を、あたしはもう受け入れられない。七瀬も、あたしの理由を肯定出来ないでしょ?」
答えられなかった。その通りだから。だけどそれ以上に、私の理由は澪のものより普通で、正しいと思ってしまった。
「ね、答えは出たでしょ」
潮が交ざって柔らかい、場違いな風が澪と私の髪を揺らす。澪はその中で、笑っていた。
「あたしは異常者で、七瀬が普通なんだ」
「……」
「前から思ってた。普通の七瀬は、あの場所には向いてない」
いってらっしゃい。おかえり。そう言ってくれた口が、私を突き放していた。見えない分厚い壁を、飛び越えられない一線を作って。
澪が平然と背を向ける。薄く暗い木陰の下を歩いていく。
「どうして」
叫ぶような、だけど掠れた声を吐き出した。澪は、ゆっくりと軽やかに足を止めた。
「どうして、並行世界の自分を殺したいんですか」
澪は振り向かなかった。風に揺られ、緑の葉の隙間から漏れた光は、澪の身体に触れない。
「宗太の弟を、あたしが殺したから」
どの感情も捨ててきたような声で答えて、澪は再び歩き出す。固いローファーの音を覆うみたいに、遠くから勇ましい掛け声が聞こえた。
晴れ間が落ちるように、どこかから反射した光が瞼にぶつかって、思わず目を閉じる。次に瞼を持ち上げた時には、もう小さな背中は消えていた。
今起きたことも、二人で遠出したことも、異界駅で出会ったことさえ、夢みたいに思えた。
だけど、残された言葉が、伝えられなかった言葉が、胸を締め付けて離さなかった。