市内では大き目の建物。道の駅の、その向こうに、海面に近づいていく光を見つけた。
「綺麗」
 思わず、息が洩れていた。
 街の中心部から離れた場所だから、だろうか。深紅と琥珀色を掻き混ぜたような色が広がる空。時間をかけて姿を変えた夕日。照らされた海は、夜を待ち構えているみたいに、静かにそこにいた。
「花火大会の日は、もっと綺麗なんだよ」
 切なさが交じった声が、誠実に響く。隣にいる宗太先輩を振り向いた。
 瞬間、宗太先輩の目が見開いた。遅れて、背後から砂利がぶつかり合う音がする。
「……宗太」
 振り返るよりも早く、宗太先輩の手が解けて、体温だけが残る。目が、好きな人に向いて。それから、もう忘れることも出来ない声を見た。
「澪」
 大切な人を呼ぶ声。温かく、切なく揺れていた。胸の辺りが、暗く深く曇っていく。
 思わず、と言った様子で澪の右足が後退る。砂利がまた擦れて、鈍い音が皮膚を通り過ぎて、心臓に鋭く突き刺さる。
 暗い海に沈んだように、身体が重くて、痛くて。指先が凍てついたように熱を失っていく。
「七瀬、ごめん。邪魔しちゃったね。じゃ、また」
「……」
 一瞬前髪に伸びた手を小さく振って、素早く背を向けて、迷いなく大股で歩き出す。視界の端で動いた影が、夕日を遮った。
「自分で誘った子を放置しちゃだめだよ」
 澪は何もかも見えているように、宗太先輩を見ないで言う。引き留めようとした宗太先輩の手が空気を掴んだ時、澪は小走りで平らな坂に足を進めて、すぐにその小さな姿を消した。
 じくじくと骨に隠れた内臓に傷がついたように痛んで、骨が軋んだみたいに息が苦しい。
 目の前が、世界が、真っ暗になりそうになる。だけど、先輩の大きな背中が、普段からは想像がつかない程に弱々しく見えて、上手く力の入らない足を一歩踏み出した。
「先輩」
 辛うじて、声が出る。震えて、情けない声。迷いながら、先輩の背中にそっと手を当てた。
 呼吸は、していた。手の中で、先輩の背中はちゃんと一定に動いていた
「俺にもあるんだ」
 囁くように言って、先輩は深く息を吐く。無意識なのか、お腹に押し当てた手を握り締めて。
「戻れない時間を想うこと」
 手の甲に筋が浮かんでいる。まだ知らない彼みたいに手を繋いで、せめて体温を分け合うことが出来ればいいのに、指先から奪わた熱はまだ戻らない。
「この場所から三人で花火を見ていた時間は、もう戻らない」
 私の目が、澪が消えていった先を見つめて、先輩の横顔を眺める。先輩の瞳は、どこに置いてきたのかも分からない、ただ失くしたものを必死に探し求める悲しさと、部屋で一人高熱に耐えるような深い寂しさに染まっていた。
 戻れない時間を想う苦しさを、出口のない深い暗がりの中にいるような孤独感を、私はよく知っている。
 じんわりと傷口に沁みて、また胸が鋭く痛んだ。
「先輩にとって、その時間は本当に大切なんですね」
 結局、優しい先輩がくれた言葉を、返すしか出来ない。それに、駄目だと分かっているのに、止まってくれそうにない。ポツリと濡れた唇を噛んで声を抑え、きつく瞼を閉じて耐える。
 薄暗がりな世界の中で、頬に落ちていく雫は流れ続けて。私はただ、先輩の背中を撫でた。
 ふいに、目の下に触れる。優しくいぬくもりが誰のものかすぐに分かって、だけど、本当は良くないのに、ゆっくり目を開ける。
「ごめんね、泣かせるつもりはなかったんだ」
「……」
 何度も、首を横に振る。勝手に泣いてしまったのは、私だ。だから泣いて、甘えるような真似をしたくはなかった。先輩の目に映るのは、先輩の大切な人は、私じゃないから。
 もう何が理由で苦しいのか、分からない。
「本当に、大切なんだ」
 先輩の声は、沈んでいるのに温かくて。会いたい人に、会ってほしいのに。
 涙を掬ってくれるその手を払うことが出来なくて。そんな勇気も、一人でいられる自信も、残ってなくて。
来羽(こう)と、幼馴染の澪と。三人でいた時間は、本当に大切なんだ」
 少し遅れて、気付く。え、と耳を疑った声が出そうになって、咄嗟に飲み込んだ。
 先輩の指先が離れて、「赤くなっちゃったね」と鞄からペットボトルを取り出して、そっと頬に当てる。ひんやりして、熱が引いていくのが、やけに現実味が薄く感じた。
「こう、って。誰なんですか?」
 嫌だ。もう一人の私が、聞きたくないと臆病に耳を塞ぐ。
 だけど私は、先輩を見つめて耳を傾ける。先輩は私を真っ直ぐに見つめて、唇を開いた。
「俺の双子の弟」
 息を、呑んだ。瞬きをやめた視界の中で、先輩の瞳に一層深い悲しみが広がった。
「三年前の梅雨が明ける頃、亡くなったんだ」