口の前で両手を合わせて、私が改めて謝ろうとするより早く、紺に似た青色のネクタイの結び目に指を指し込みながら、首を振った。
「別に、謝んないで。いいよ、休もーよ」
 あっさりと言いのけて、澪はネクタイが解けると、手で隠さずに大きな欠伸をした。
「結局昨日は休日出勤になったじゃん? それに成果報酬だから自由だし」
「でも、いいんですか?」
 何が、とは言えない。澪の理由を肯定はできないけれど、澪は早く【切符】を手に入れたいはずだ。私もまだ、諦められない気持ちが残っている。
「いーの。いくら身体は休めてても、意識が続いてるから眠くなるし。今日は危うく、授業中寝るとこだった」
 優等生としてピンチ。どこかのヒーローショーの悪役みたいにゆっくり倒れて、非常階段の壁に身体を凭れさせる。私が思っているより、優等生のキャラクターを大事にしているらしい。
 数秒遅れて、移った欠伸をする。さすがに手で隠せば、澪がニシシと笑った。
「やっぱ、『お姫様』」
「……普通だと思いますけど」
 人前で口の中を見せるのは、恥ずかしくないのだろうか。そう思いつつ、澪の自由気ままな姿を見られるのは、マスターさんや私の特権だと思うと、ぬくもりが爪の隙間まで伝った。
 私が立ち上がると、澪はわざわざネクタイを丁寧に結び直して、非常階段の扉に手を掛けた。
 けれど、待っていても動かない。呼びかけようとしたところで、くるりと振り向いた。
「急なお誘いって、好きな人から?」
 唐突な問いかけに、言葉を見失った。口元だけでにやにやして、時折する癖みたいに、前髪を掴んで半分顔を隠して。だから、表情がよく分からない。
「そうです。あんぱん先輩です」
 からかおうとしているのか、単に恋バナをしたいのか分からないけど、素直に答える。さすがに照れくさくて、名前はいつか澪が作ったもので。同学年で、『王子』の呼び名を持つ有名人を、澪もきっと知っているだろうから。
「好きな人、いるんだ」
「好きって気付いたのは、最近ですけど」
 初めてだから確信がない。それでも、宗太先輩と過ごす時間は長ければ長い方がよくて、ずっと続いてほしくて、時間が止まって欲しくて。会いたいって気付いたら、抑えられなくて。
 ゆらが好きな人を話す声と同じ、甘酸っぱいものが、宗太先輩を想う度にどこからか溢れ出す。
「好きです」
 くっしゃっと前髪を掴んだ手に一度力を込めて、そしてあっけなくさっとその手を離した。
「なんだよぉ。いつの間にそんな心芽生えさせたんだよぉー。言えよなぁ」
「ちょっと、痛いです」
 どうして、やんちゃな口調を演じるのだろう。容赦なくバシバシと背中を叩く手から逃れて、どうにか掴んだ。澪は素早く手を引っこ抜めて、肩を揺らして笑いながら、扉を勢いよく開く。
「ま、一度しかない青春楽しみなよぉ」
 私に背中を向けたままひらひらと手を振って、普段通りの速度で先を歩いていく。小さな背中が廊下の角を曲がって消えた後、私は開け放たれた扉を静かに閉めた。
 気のせいだったのだろうか。掴んだ、その指先が、僅かに震えている気がした。