一時間早い電車に乗った。揺られて、十九分。扉のすぐそばに立っていた。ロボットみたいなアナウンスに続いて電車が止まって、外に飛び出した。
 階段を駆け下りて、走った。
 微かな潮風が心地良く頬を撫でて、背中を押してくれる。すぐに、喉はじんと熱くて痛くて、苦しくなる。溺れそうなくらい胸は温かくて、何だか澄んだ心地で。乱れる呼吸と、綿あめみたいに軽い身体は、ちぐはぐで。
 心が弾んで、一歩一歩進む度に、走っているのか宙に浮かんでいるのか分からなくなる。
 人にぶつからないように、広い道を選んで遠回りをする。狭い道と繋がって、すぐに正門が見えてきた。横断歩道を渡って、正門でようやく足を止める。
 右手で胸を押さえて、不規則な呼吸を整える。
 助手を続けて、体力がついたと勘違いしていた。額から流れる汗をハンカチで拭ってから、前髪を整えていると、ふいに、世界が晴れた。
「深水先輩!」
 耐えきれず、叫んでいた。
 俯いていた顔をゆっくり上げて、ぼんやりとした眼差しが真っ直ぐに私を捉える。瞬間、驚いたように瞬いた。小走りになる速度に、私は待ちきれず駆け寄った。
「おはよう、七瀬さん。どうしたの?」
 鼓膜を揺らした声は、やっぱりまだ知らない彼と同じで、だけど消えない力強さがあった。
「ただ、会いたくて」
 両手の指先を、この胸から溢れて、また叫んで先輩を困らせないように掴む。
 昨日、マスターさんの言葉に考えた。今すぐ会いたい人は、誰なのか。考えて、もう一人の私がポツリと囁いた。
「本当は、会いたくて」
 先輩と知らない彼。別人だとは思わなくて、知らなくて。だから、私が避けた。
 先輩を避けたのは私で、だけどいつも正しい私の中の私が、曖昧な正体とか誰かなのかとか、そんなこと関係なく、「会いたい」と囁いた。私と私は、初めて同じ想いを分かち合っていた。
「宗太先輩って、呼んでもいいですか?」 
 彼が言っていた。まだ先輩と呼んでほしい。それは口実で、私がずっと名前を呼びたかった。
「うん、いいよ。七瀬さんの好きなように呼んで」
 きっと大丈夫、優しいから。彼の声が過る。そんな心配はしていなかったはずなのに、ホッとして、同時に嬉しくて、日の光に包まれたみたいに胸が心地良く熱を帯びる。
「久しぶりだね。コンビニで会って以来、だよね?」
「はい。その節は、ありがとうございました。たい焼きも美味しくて、好きになりました」
「どういたしまして。でも、良かった。また会えて」
 上品に優しく笑みが浮かぶ。まるでつられたように、私も柔らかに頬が緩んだ。
「丁度、よかった」
 え、と開いた口から声が出てこない。ふいに、前触れもなく、先輩の瞳に色が降り落ちた。
「放課後、空いてるかな?」
「……」
 色に目を奪われて、どうやって声を出して言葉を繋ぎ合わせるのか、数秒分からなくなった。先輩を困惑させたくなくて、掴んでいた指先に爪を突き立てて、意識を引き戻す。
「大丈夫です。空いてます」
「じゃあ、放課後。少し付き合ってくれるかな?」
「……え?」
 一拍遅れて、声が出る。どうして、どこに。勝手に巡り始める頭の隅の声がやけに遠く響いていた。「七瀬さんを」宗太先輩が続けた、ひどく柔らかな声に何故か、ジクリと血が滲んだように胸が痛くなる。
「連れていきたい場所があるんだ」
 夕日が沈んでいくのをただ見送るような、そんな寂しさに似た色がまた、胸の奥を締め付ける。浮かんだばかりの嬉しさが、かき消されていくような気配があって、私は思わずビニール袋を宗太先輩の胸に押しつけながら、深く頷いた。
「あの夜、送ってくれたお礼です」
「ふふっ、やっぱり鶴の恩返しだ」
 宗太先輩の大きな手が掴んで、私は素早く手を引っ込める。「お昼、一緒に食べよう」誘ってくれる宗太先輩の笑顔は華やかな向日葵みたいで、ふっと肩の強張りが解けた。
「七瀬さんだから、連れていきたいんだ」
 純粋で温かな瞳で真っ直ぐに見つめて告げると、青空に負けない晴れやかな笑顔を咲かせた。
 私はきっと自分で思ってるより単純で。見えない傷口が癒えていく。昔いちごのパフェを食べた時みたいに、苦しいくらい、ふわふわと甘いものが広がって、満たされていく。
 だからまた、大切にしたいと思った。
 知らない彼に似た、悲しくて寂しくて、切ない色が瞳に落ちた。その理由を知りたいと思うよりも、ただ宗太先輩が私にしてくれたように、私も宗太先輩の心に寄り添いたいと思った。
 宗太先輩が、好きだから。