「異界駅に着くまで、その途中で誰かに会うことはありますか?」
何気なく、問いかけたつもりだった。マスターさんは、何故か考え込むように唇に人差し指の関節を押し当てて、やがて躊躇うように答えた。
「そもそも途中で、目を覚ますことはない。いくつか停車するけど、起きるのは自分が担当する異界駅だけだよ」
スマホを落としかけて、慌てて左手で押さえる。テーブルの上に戻して、マスターさんを見上げる。マスターさんはまだ、探偵のように考える仕草を解いていない。
「その人にとって、大切な時間の夢を見ることは多い。夢とは違う場所で、あの電車のなかで、御園は誰かに会ったの? 担当駅が違う番人を見掛けたわけでもない?」
「……」
何をどう言うべきか、どう答えたら大袈裟なことにならないのか、答えが見つからない。
だから、ただ伝えられる事実を、探した。
「私は、たまに途中で目が覚めます。初めて迷い込んだときも、そこで」
言葉が、過った。
――「君はまだ、僕を知らないから」
先輩だと思っていた。先輩と同じ顔をした彼。
先輩のことを、優しくて温かな親しみが響く声で呼んでいた。
澪のことを、知っていた。
甘いものが好きで、特に和の甘いものには目がないこと。電車では一時間早く、人が少ない朝に、一人で学校の屋上にいること。
「彼は、私を助けてくれました」
彼が誰か、彼が言った通り、私は知らない。だけど、戻ってこれなくなるからと私の腕を掴んで、引き留めてくれた。良くない場所から、遠ざけてくれた。
幸せだから、辛いのだと教えてくれた。
人懐っこく笑うのに、花を見つめる横顔は綺麗で。和の甘いものが、厳しくなるくらい本当に大好きで。子どもみたいに温かい手をしていて。
時折、初めからそこにいなかったみたいに、まるで夢を見ていたみたいに、消えてしまう。
「一つだけ、言い忘れたことがあった」
ぼんやりとした意識が、現実に引き戻される。
別人だと知った今だから分かる。先輩とどこか違う、彼の姿を思い浮かべていた。
「会いたい人には、会いたいときに会いに行った方がいい」
いつかみたいに、マスターさんの声音は温かく、切なく揺れていた。
呼応するように、大切にしたい、大切な人達の姿が浮かぶ。今すぐ会いたい人は、誰だろう。すっきりした意識で、考える。だけど、何だかふわふわして現実感がなくて。
それでも、鼓膜は正常に機能していた。
――ドアにつけられたカウベルが、勢いよく音を響かせた。
「おお、七瀬おかえりぃー」
場違いな明るい声に振り返る。僅かに高い席から降りて、駆けるように近づいた。
いつも通りギャルっぽいメイクをした目が大きく見開いて、それでもそこにいてくれた。
「ただいま」
私は初めて、自分から澪に抱きついた。
思っていたより小さな身体。抱きしめる腕に力を込めると、心臓の音が聞こえてくる気がした。「苦しいよぉ」なんて文句を伸びやかな声で呟いて、背中を優しくぽんぽんと叩く。
「どうして澪がここにいるんですか。今日は休みですよね」
「えぇー、それ七瀬が言う? マスターがどうしても人手が足りないって言うからさぁ。ほんっとに、ここはブラックだよねぇ」
また、適当なことを言いながら、澪は優しく背中を撫でてくれる。子どもを慰める母親みたいに。私にも、そんな思い出があっただろうかと思うのに、今は寂しいとは感じなかった。
「嘘を言うな。志倉が来る気がするって言って、わざわざ開けさせたんだろ」
「わっ、言わない約束じゃん? てか、そうだなって心配そうな顔してたくせに」
「してない」
「してたよぉ! あ、てか、さっきからヤンキー口調じゃん。さては七瀬にひどいこと言ったな?」
いつもの、いや、いつも以上に粗くて適当な、売り言葉に買い言葉みたいなやりとりを続ける二人に、澪を見た瞬間にせり上がってきた涙がすっかり引っ込んでいた。
私は澪の背を撫でて、出来るだけ優しく肩を押す。澪はそっと静かに私を囲った手を離した。
澪の隣で、澪とマスターさんを順に見つめて、私は二人の真似をして笑った。
「私のこと、そんなに好きになってくれていたんですね」
悪戯っ子な笑顔を浮かべて、伝える。澪は前髪をくしゃっと掴んで表情を隠して、マスターさんは何も言わずにくるりと背を向けた。
二人の言葉や態度に、「いってらっしゃい」と「おかえり」に。優しく甘いものが溢れて、指先まで痺れていた。
淀んだ空気で満ちて、月が不思議な光を放つこの世界で出会った二人。
だけど私にとって、もう手遅れでどうしようもないくらい、大切な人になっていた。
何気なく、問いかけたつもりだった。マスターさんは、何故か考え込むように唇に人差し指の関節を押し当てて、やがて躊躇うように答えた。
「そもそも途中で、目を覚ますことはない。いくつか停車するけど、起きるのは自分が担当する異界駅だけだよ」
スマホを落としかけて、慌てて左手で押さえる。テーブルの上に戻して、マスターさんを見上げる。マスターさんはまだ、探偵のように考える仕草を解いていない。
「その人にとって、大切な時間の夢を見ることは多い。夢とは違う場所で、あの電車のなかで、御園は誰かに会ったの? 担当駅が違う番人を見掛けたわけでもない?」
「……」
何をどう言うべきか、どう答えたら大袈裟なことにならないのか、答えが見つからない。
だから、ただ伝えられる事実を、探した。
「私は、たまに途中で目が覚めます。初めて迷い込んだときも、そこで」
言葉が、過った。
――「君はまだ、僕を知らないから」
先輩だと思っていた。先輩と同じ顔をした彼。
先輩のことを、優しくて温かな親しみが響く声で呼んでいた。
澪のことを、知っていた。
甘いものが好きで、特に和の甘いものには目がないこと。電車では一時間早く、人が少ない朝に、一人で学校の屋上にいること。
「彼は、私を助けてくれました」
彼が誰か、彼が言った通り、私は知らない。だけど、戻ってこれなくなるからと私の腕を掴んで、引き留めてくれた。良くない場所から、遠ざけてくれた。
幸せだから、辛いのだと教えてくれた。
人懐っこく笑うのに、花を見つめる横顔は綺麗で。和の甘いものが、厳しくなるくらい本当に大好きで。子どもみたいに温かい手をしていて。
時折、初めからそこにいなかったみたいに、まるで夢を見ていたみたいに、消えてしまう。
「一つだけ、言い忘れたことがあった」
ぼんやりとした意識が、現実に引き戻される。
別人だと知った今だから分かる。先輩とどこか違う、彼の姿を思い浮かべていた。
「会いたい人には、会いたいときに会いに行った方がいい」
いつかみたいに、マスターさんの声音は温かく、切なく揺れていた。
呼応するように、大切にしたい、大切な人達の姿が浮かぶ。今すぐ会いたい人は、誰だろう。すっきりした意識で、考える。だけど、何だかふわふわして現実感がなくて。
それでも、鼓膜は正常に機能していた。
――ドアにつけられたカウベルが、勢いよく音を響かせた。
「おお、七瀬おかえりぃー」
場違いな明るい声に振り返る。僅かに高い席から降りて、駆けるように近づいた。
いつも通りギャルっぽいメイクをした目が大きく見開いて、それでもそこにいてくれた。
「ただいま」
私は初めて、自分から澪に抱きついた。
思っていたより小さな身体。抱きしめる腕に力を込めると、心臓の音が聞こえてくる気がした。「苦しいよぉ」なんて文句を伸びやかな声で呟いて、背中を優しくぽんぽんと叩く。
「どうして澪がここにいるんですか。今日は休みですよね」
「えぇー、それ七瀬が言う? マスターがどうしても人手が足りないって言うからさぁ。ほんっとに、ここはブラックだよねぇ」
また、適当なことを言いながら、澪は優しく背中を撫でてくれる。子どもを慰める母親みたいに。私にも、そんな思い出があっただろうかと思うのに、今は寂しいとは感じなかった。
「嘘を言うな。志倉が来る気がするって言って、わざわざ開けさせたんだろ」
「わっ、言わない約束じゃん? てか、そうだなって心配そうな顔してたくせに」
「してない」
「してたよぉ! あ、てか、さっきからヤンキー口調じゃん。さては七瀬にひどいこと言ったな?」
いつもの、いや、いつも以上に粗くて適当な、売り言葉に買い言葉みたいなやりとりを続ける二人に、澪を見た瞬間にせり上がってきた涙がすっかり引っ込んでいた。
私は澪の背を撫でて、出来るだけ優しく肩を押す。澪はそっと静かに私を囲った手を離した。
澪の隣で、澪とマスターさんを順に見つめて、私は二人の真似をして笑った。
「私のこと、そんなに好きになってくれていたんですね」
悪戯っ子な笑顔を浮かべて、伝える。澪は前髪をくしゃっと掴んで表情を隠して、マスターさんは何も言わずにくるりと背を向けた。
二人の言葉や態度に、「いってらっしゃい」と「おかえり」に。優しく甘いものが溢れて、指先まで痺れていた。
淀んだ空気で満ちて、月が不思議な光を放つこの世界で出会った二人。
だけど私にとって、もう手遅れでどうしようもないくらい、大切な人になっていた。