静かに開いたはずなのに、ドアにつけられたカウベルの音が鳴り響いた。ついさっきまで、和太鼓も鐘の音もなく、本当に静かだったから、それはやけに大きく聞こえた。
「いらっしゃい」
 思いもよらない声に、顔を上げる。マスターさんは、当然のようにカウンターの中にいた。
「……今日は、休みでは」
「うん、休みだよ。見張る必要のある御園と志倉が休みだから、僕も本当は休み」
 マスターさんは「まぁ座って」初めて会った時と変わりない、優しい声で言った。だから、考えることを手放したかった私は、言われるままにいつもの席に座った。
「何となく、今日は御園がここに来る気がしたんだ」
「……」
「いや、嘘だね。何となくじゃない。今日、行けたら行くって言ってたから」
 マスターさんは、写真展、とは言わなかった。それなのに、夢の中で海に落ちて、置いてきたはずのものが胸の辺りで膨らみ続けるのをやめない。重たくて冷たくて、固くて。気が遠くなる程ごちゃごちゃした感覚が堂々とそこにあるのに、どこか遠くの出来事にさえ感じる。
 ふいに視界の端から現れた手が、テーブルの上に立派な湯呑みを置いた。
「何かあった?」
 今日は澪の席には座らず、定位置のカウンターの中に戻って、マスターさんは静かに問いかけた。話すことも、話さないことも。選んでいいというような優しさが込められていた。
 私は、両手をゆっくり湯呑みに伸ばした。やっぱり、熱いくらいに温かい。
「受付に、父親がいて。母親と離婚していて。二年半ぶりに会って。声を、聞いて」
「うん」
「咄嗟に、飛び出したのは覚えてます。どうやって歩いたのか、どんな道を通ったのか覚えがなくて。ただ気付いたら、電車に乗ってました」
 ふいに、悩んだ。黙々とその場で立ち上がる白い空気に、ふぅとどうにか息を吹きかける。
「父親とは、もう会えないと思っていました。だけど、声を聞いて飛び出すまでの一瞬で、色んなことを考えてました。どうしてお母さんと離婚したのか、どうして私を置いていったのか、どうして何も言ってくれなかったのか。何か言ってくれたら、力になれたのに」
「……」
「私のせいだって、ずっと思ってました。私が無口で静かだから。明るく笑わないから。感情もはっきりしてなくてぼんやりしてて、家の中を暗くしてたからじゃないかって。私のせいで、二人は家に帰りたくなくて、それで別れたんじゃないかって」
「……」
「全部、私のせいだって思ってたはずなのに。会ったら全然違うことを考えて、いて。分からなく、なりました」
 ゆらにも澪にも、誰にも言えなかったことが、ボロボロと剥がれて、落ちて、口から溢れ出していった。こんな惨めな弱音は、誰にも話すつもりはなかったのに、隠し通すつもりだったのに。一度緩んで切れた糸を、もう一度結んでピンと伸ばすことは、もう出来そうになかった。
「前に進まなきゃって、思ったんです。写真展のチケットは、きっと、そういうきっかけを作ってくれてるって。いい加減、いつまでも立ち止っていないで。過去の大切な時間として、切り離さないとって、思っているんです」
「……」
 私の中の私は、いつだって正しい。私はいつも思ってばかりで、口ばっかりで、意気地なしで。私は、そんなもう一人の私に手を差し伸べて、助け出すことも出来ずにいた。
「ここで出会った死者達に、身勝手に踏み込んで心残りを聞いて。少しでも晴らしてるつもりで。なのに私が一番、生きている私が、自分のことを解決してないなんて、全く笑えません」
 馬鹿みたいだ。ずっと取り繕って、どうにか日常を送っていたのに。澪がどんな姿を見せたのか知らないけれど、澪と同じになった。
 どうしようもない姿を見せてしまった。冗談だなんて誤魔化せない。もう、手遅れだ。
「御園は、賢い子だと思ってた」
 湯呑みを握り締めていた両手の指先が、僅かに力を緩めたのが分かった。
「志倉以上に、危ないこと始めるし、不用心で無防備で人を疑わないし。正直、優し過ぎて甘すぎて、番人の助手には向いてないって思ってる。でも、賢い子だとは思ってた。分からないことはちゃんと素直に聞くし、報告書も真面目に書く。咄嗟の判断で動いて、怪我も最小限に留めた。迷い込んだ時、初めて遭遇した【怪物】を前に、諦めず頭を使って逃げようとした」
「……」
 隠そうとする色さえない、迷いなく告げられた言葉の数々に、唇が薄く開いたまま動かない。
「どうして御園は、前に進もうとしてるの?」
「……え」
「そういう時期が来たからだっけ? 二年半の時が経ったから、そろそろ?」
「……」
「俺はどこまで行っても他人で、多分悪い大人だから、無責任なことを言う。前に進んで、変わることが必ずしもいいこととは限らない」
 私の目は、どこか乱暴な目つきに変わった、マスターさんの丸眼鏡の奥の瞳から離れない。
 俺とか、冷たく突き放すような言葉の切り方とか、頭の隅では引っ掛かっているのに、結局はどうでも良かった。今はただ、マスターさんの鋭くて真っ直ぐな声を聞いていたかった。
「本音が変わりたくないって言ってるなら、変わらなければいい。変わりたいなら、変わればいい。一般的な世の中の考え方に、自分を当て嵌めようとしなくていい」
「……」
「七年間、俺はここで恋人を待ち続けてる」
 息を、呑んだ。ひやりとしたものが、喉を塞いで息が苦しい。
 どこかで死んでいるのか、本当は生きているのかどうかも、何も分からない恋人を、マスターさんはずっと待ち続けて。それはあまりにも悲しくて寂して、救われ、なくて。
 けれど、マスターさんは傷ついたような様子もなく、また薄い唇を開いた。
「どんなに時間が経っても、整理がつかない気持ちがあるのは当然だ。そんな簡単に切り離せないのは、それだけ大切ってことだろ」
「……」
「俺はまだ前に進むつもりはないし、別にそれでいいと思ってる。今は、それがいい」
 堂々と言い切るその声に、初めて見せる、重たい風邪の熱みたいな瞳に、私まで移ってしまったように胸も目の奥も熱くてなって、じりじりする。飲み込んだ唾が、熱に驚いたみたいにしこりのように喉の奥に沈んで、すぐに溶けていく。
 こんな時に、と思うのに。澪とマスターさんの本当の関係を、ようやく知れた気がした。
 こじれていて、もう手遅れで、どうしようもない。悪い熱を、共有してしまったんだ。
「色々言ったけど」
 ほんの少しだけ、声音に柔らかさが戻っていた。ふわりと、足の爪先まで強張りが解ける。
「頑張ることと無理することは違う。無理やり前に進もうとするのは、俺はおすすめしない」
 最後に咳ばらいをして、マスターさんは一度カウンターに姿を隠した。再び立ち上がると、歩いてきてテーブルの上に置いた。カチャン、と小さな音を鳴らして、さっさと戻ってしまう。
「来ると思って、作り置きしてたやつだけど。よかったら、どうぞ」
 どこか、その横顔が赤らんでいる気がした。乱暴に言い放った手前、今までの温厚な姿に戻るのは照れくさいのかもしれない。
「ありがとうございます」
「僕は喫茶店のマスターだから、お礼はいらない」
「そうでは、なくて。弱音を聞いて、励ましてくれて」
「監視役として、やるべきことをしただけだよ。それに、言いたいことを言っただけ。励ましたつもりはないよ」
「それでも、本当に助かりました。ありがとうございます」
 見張り役とすら繕わなくなった。だけど、監視役としての範疇を超えていたと思う。身勝手で個人的な隠していた感情に、マスターさんは自分の言葉で答えてくれた。
 他の監視役だったら、私は話すことすらなかったと思う。傷ついて、傷が剥き出しになったからって、別に誰でもいいわけではない。
「本当に、素直というか誠実というか」
 澪に向ける、どこか棘があるような声。そこにいたのかと思う程、前よりずっと、マスターさんが近い場所にいるような気がした。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
 両手を合わせたまま、一度少し頭を下げてから、ナプキンに置かれたフォークを手に取る。
「写真はいいの?」
「今は、もったいない気分で。早く優しい味を食べたいんです」
「……そう」
 丸眼鏡の奥の目を優しく細めて、今日初めて、柔らかな微笑を浮かべた。
 深い緑色にフォークを押し入れて、一口だけ切り分け、口に運ぶ。瞬間、目を見開いた。自ずと見上げた先で、マスターさんは意地悪く笑っていた。
「抹茶のアイスチーズケーキ」
 今更、料理名を告げる。冷蔵庫から出したばかりだから、冷気が浮かんでいると思っていた。 数秒前の自分を恨みながら、熱ののせいかひどく冷たく感じるそれは、やっぱり相変わらず優しい味をしていて、切り分けていく手が止まらない。
 だから普段より素早く食べ終えて、おかわりを注文した。容赦なくカウンターから手渡されたお皿を、今度はテーブルに置いて、スマホを構える。
 カシャと渇いた音。唐突に、一度は悩んで聞かなかったことを、聞いてみようと思った。