「おとうさん」
 少女は、笑っていた。明るい色の、柔らかな花を手に持って。
「おとうさん」
 呼ばれて、何を食べて生きているのか、細い背中が振り向いた。カメラを向ける口元には、花に負けない柔らかな笑みが咲いている。
「おとうさん、とって」
 少女は、温かな日の光に照らされていた。舞台の上で輝く女優みたいに、きらきら輝いて。
 目を逸らそうとして、出来なかった。淀んだ煙みたいな空気に、溺れてしまいそうになる。
 突然、暗い海みたいなところに落ちた。重たくて冷たくて、固い水がぶつかって、身体中に纏わりついて。逃れられなくて、痛い。苦しくて、耐えられなくて薄らと開いた唇の隙間から、ボコボコと白い泡が洩れていく。
 白い泡が、記憶を封じ込めるように世界を覆っていった。
「……はぁっ」
 がたんごとん。固い振動に揺られる。一気に力が入らなくなる身体を倒しそうになった。
 それを何とか、鞄の冷たいチャックを掴んで、我慢する。今、座席に身体を預けてしまったら、もう二度と起き上がれなくなる予感があった。
 もう、慣れていたはずなのに。一瞬でも会って、声を聞いてしまったからだろうか。
「はい、どうぞ」
 ふいに降り落ちた声に、肩が少し飛び上がるようになる。いつの間にか、足元に白いスニーカーがあった。
 チャックを握り締めたまま、ゆっくり顔を上げる。先輩が、手を差し伸べていた。
「僕の手、子どもみたいに温かいんだ。少しは、落ち着くかも」
 先輩の曖昧な正体に気付いて以来、廊下ですれ違うこともなかった。当然、この電車でも会わなかった。だから本当に久しぶりに、先輩の温かな瞳に触れた。
 何も答えられず黙って見つめる私に、先輩は微笑みを向けて、私の手を掴んで隣に座った。
「また、幸せな夢を見た?」 
 優しく問いかける先輩の方を見ることもままならない。一度だけ、こくりと頷く。「そっか」夢の中で幼い私が持っていた花の、その花びらみたいに柔らかな声。
 繋いだ手は、丁度一週間前のあの夜の体温より熱く、確かに子どもみたいぬくもり。それなのに、夢みたいに消えてしまうような、儚い気配がある。
 また、残されていく。置いていかれる。先輩の隣で初めて、言いようのない不安を覚えた。
「先輩は」
 一度でも目を瞑ることが怖くて、瞬きをする前に、窓に映る先輩を見つめる。少し屈んだような姿勢で、先輩は私の横顔を見ていた。
「先輩は、――深水先輩なんですか?」
 薄暗い窓に確かに映る先輩は、私の姿と同じようにぼやけていて、その横顔がどんな表情をしているのか分からない。だけど横を向いて確かめるのは、まだ、怖かった。
 先輩は、何も言わない。一度唇を開いたようにも見えたけど、見間違いかもしれない。
「深水先輩は、自分のことを俺って言います。私のことを、七瀬さんって呼んでくれます。学校で会った時も、一度だけコンビニで会った時も。深水先輩は」
「……」
 本当を知ることが怖かった。変わることが怖かった。だから、私から先輩に会いには行かなかった。登下校もバスにして、秘密の場所にも足を踏み入れなかった。私が、先輩を避けた。
 だけど、出会った場所でまた会ったから。偶然のご縁を大切にすると決めたから。
 先輩のことを大切にしたいから。
 私はこれ以上、先輩の本当に目を背けてはいけなかった。
「この電車で会う先輩だけが、僕って言います。私の名前も呼んではくれません」
「……」
「澪や私がつけてる、チョーカーも首に着けてません」
「……」
 チョーカーがないなら、迷い込んだ人か【怪物】。だけど先輩は、この場所を知ってる。
 俺と僕。七瀬さんと君。チョーカーがなくても、簡単に見分けられるのに気付かなかったのは、私の中の私が見ないふりをしていただけなのか、事実を見たくなかっただけなのか。
 それとも、――終わらせたくなかっただけなのか。
「貴方は、誰なんですか?」
 どこかに消えて、いなくなってしまいそうな手を握り返す。それから、誰かの方を向いた。
「……」
 先輩と同じ顔から、柔らかな笑みが消えていた。一瞬だけ目が合って、誰かはその透明な目を伏せて、ぎゅっと手に力を込める。そして子どもみたいに温かい手を、さっと離した。
「僕は、君が知ってる、深水宗太先輩じゃない」
 思うより、冷静な声で言う。私の瞳を覗き込むように、そっと視線を上げて、苦く笑った。
「あの駅で降りようとした君を引き留めたのは、僕だよ。宗太は、何も知らない。中庭にいたのも、僕」
「……」
「僕のことは、でも。まだ、先輩って呼んでほしいな。宗太を、宗太先輩って呼んであげて」
 きっと大丈夫、宗太は優しいから。優しくて温かな親しみが、その声には響いていた。
「今はまだ。これ以上は教えてあげられない」
「……どうして、ですか?」
 そうするつもりはなかったのに、声が震えて、小さくなる。
 彼は口元だけで優しい笑みを作って、その瞳に悲しくて、寂しくて、愛おしそうな影を落とした。まるでパレットの上に絞り出された黒い絵具みたいに、深くて、離れられない、濃い色。
「君はまだ、僕を知らないから」
 電車が、音もなく止まった。
 瞬きを忘れた世界で、簡単に触れられる距離にいた彼が消えた。