目を覚ますと、家のベッドの上にいた。まるで夜からずっとそこに居たみたいに、温い自分の体温がちゃんとあった。一晩中、起きていたわりは、眠気が薄い。
夢だったのだろうか。考えながら、着替えた覚えのないパジャマを制服にして、緩やかに跳ねた寝癖を直す。お味噌汁とだし巻き卵、梅ひじきのおにぎりを作って写真に収め、一人で食べた。一人で朝を過ごすのはいつものことで、特段変わったことではなかった。
変わらない朝の時間が流れて、お腹を程よく満たしても、昨夜のことが夢だとは思えなかった。変わったことが多いあの場所を、何故か否定しきれなかった。
だから部屋に学校用のリュックを取りに戻って、ようやく、ふっと息を吐けた。
スマホの充電がかなり減っていて、スマホリングも無くなっている。
スマホリングは、昨日電車に乗った時には確かにあった。そしてスマホの充電は、毎晩忘れない。
夢じゃない。
安堵しながら、クローゼットを開けた。雑貨箱の中から持ち運び充電器を取り出して、電池をはめる。念のためにスマホに繋げると、ちゃんと小さな光が灯った。
片手でひとまとめに持って、ゆっくり後ろ足に歩いて、上の棚を見上げる。
黒い蓋に閉ざされた白い箱。
思わず、空いた手で、スマホと充電器を握り締めた手首を掴む。痛いくらいに、理性では止めらない力を込めて。こうすることは、もう何度目になるのだろう。
正しい対処法も分からない。目を逸らして、深く深く息を吐いて、せり上がってきたものを静めることしか出来ない。このやり方も、初めて知った時から変わらない。
ようやく解放出来た手で、逃げるようにクローゼットを閉める。バタンと、いつもより固くて大きな音が響いた。
顔の前で両手を合わせて、もう一度、私が声を出すより早く、彼女は明るい笑顔を見せて首を振る。
「ごめん。約束してたのに」
それでも言うと、「いいの、気にしないで」と今日はポニーテールに結んだ髪を揺り動かす。真似るように、彼女の後ろで白いリボンが揺れる。
火曜日の昼休み。違うクラスになったからと、一緒に食べることを入学式の翌日に約束した。
「でも、珍しいね。ドタキャンって」
「そう、かな」
「御園は誠実に生きてるもん」
誠実。途中から幼馴染の言葉をなぞって呟く。「悪い意味じゃなくてね」弁解するように、私の声を可憐な声で覆った。
「今日の埋め合わせはちゃんとする」
「うん、そういうとこだよ」
何度も深く頷いて、元気に笑う。幼馴染の笑顔は、眩しくて夏っぽい。ＣＭに出てきそうだ。
黙って見つめると、照れくさそうに顔の横に流した髪に指を絡める。そして、前触れなく大股で教室と廊下の境界線を飛び越えた。
「またね、御園」
小さな手を振るゆらに、またと答えた。わざとらしく大股で歩き出したゆらの小さな背中は、不思議と頼もしい。
ゆらとは反対側へ足を進めて、誠実だと思った。
小学三年、ゴールデンウイークが始まる週の月曜日、ゆらは転校してきた。緊張などまるでない自己紹介をして、人懐っこい笑顔で新しいクラスメイト達を惹きこむと、その日のうちに仲良くなっていた。ゴールデンウイークが明けても、仲良しは変わらなかった。
それどころか、ゆらは学年に限らず、友達を多く作った。小学校、中学校、先月始まったばかりの高校生活でも。
だから、分からなかった。これから高校生活を謳歌しようというタイミングで、違うクラスになった私に約束を持ち掛けて、どうしてそれを律儀に守り続けているのか。
一人でいるのも平気で、友達を作らない私を心配しているなら、それは申し訳なかった。
購買部に着いて、思わず、わ、と声が出た。予想より、多くの生徒が集まっていた。やけに男子生徒の姿が多く、何かしら特別な儀式でも行っているようにも見える。
そういえば、と思い出した。火曜日は人気商品と新商品が売られるから購買部はいつも以上に混む、とゆらから聞いたことがある。
スーパーのタイムセール並みの混雑の中を入っていくのは、空腹の身体では面倒だった。
食堂に行こう。数秒、喧騒を眺めて、思った。残り物には福があるというけれど、それならそれで食堂のものが良い。
また今度、挑戦してみようと思った。勿論、火曜日ではない日に。静かに決意をして、来た道に一歩足を踏み出した。
――肩に、そっと何かが触れた。
「屋上に来て。一緒に食べよ」
振り返るより早く、余裕そうな、けれど切実に願うような声が鼓膜を揺らした。
手が離れていって、いつの間にか遠ざかっていた喧騒の音が戻ってくる。身体ごと背後を見ると、廊下の奥を軽やかな足取りで走っていく背中があった。落ち着いた色の茶髪が肩の上で左右に動いて遊んでる。
見つけるより先に、見つけてもらった。おかげで、用事が半分終わった。けれど、と思う。
屋上で食べるなら、賑やかな購買部で買っていくしかない。
ふぅと静かに深く息を吐いて、覚悟を決める。大丈夫、自分を励まして、握り拳を作る。
大きな背中ばかりに潰されないために縮こませた身体を、混雑に割り入れようとして、突然、手首を掴まれ、ぐいっと引っ張られた。
急いだような力とは裏腹に、ぐらりと揺れてゆっくりと回った世界に――
「急にごめんね」
優しく思いやってくれたのに、何故か声が出てこない。声帯だけが、突然目の前に現れた人を、自分の目を疑っているみたいに。
「これ、得意じゃないのに間違って買っちゃって。良かったら、受け取ってくれないかな」
「……」
返事を待たずに、私の手に置いた。見た目より、どっしとした重いパン。自然と落とした視線を持ち上げると、穏やかな形をした目とぶつかった。
「……あの」
「じゃあ、食べて。美味しいから」
ようやく声が戻った時には、彼の視線が、彼を呼んだ生徒に向いて、すぐに走っていった。
きっと青い空がよく似合う、爽やかな空気を纏った青年。
パンと昨夜のお礼を言うことも、昨夜のことを問いかけることも。出来なかった。
けれど、確かに。昨夜のことを話すには、ここは少し騒がしい。改めて、お礼を言おう。
ストライプ柄の紺に似た青色のネクタイ。一つ年上の先輩。二年生。
朝、知ったこと。それから、また知れた。
購買部から離れて、右手で受け取ったものを両手に乗せて、目の高さにまで上げる。
あんぱん。得意じゃないのに間違えて買ったと言った後に、美味しいからと教えてくれた。
多分、本当は、違う。だから、きっと困っていたからくれた。
全部、多分ときっとで、憶測に過ぎない。
それでも、優しい人だと思った。また会って、お礼を言いたいと思った。
ネームプレートを、今度は見れたらいいと思った。
夢だったのだろうか。考えながら、着替えた覚えのないパジャマを制服にして、緩やかに跳ねた寝癖を直す。お味噌汁とだし巻き卵、梅ひじきのおにぎりを作って写真に収め、一人で食べた。一人で朝を過ごすのはいつものことで、特段変わったことではなかった。
変わらない朝の時間が流れて、お腹を程よく満たしても、昨夜のことが夢だとは思えなかった。変わったことが多いあの場所を、何故か否定しきれなかった。
だから部屋に学校用のリュックを取りに戻って、ようやく、ふっと息を吐けた。
スマホの充電がかなり減っていて、スマホリングも無くなっている。
スマホリングは、昨日電車に乗った時には確かにあった。そしてスマホの充電は、毎晩忘れない。
夢じゃない。
安堵しながら、クローゼットを開けた。雑貨箱の中から持ち運び充電器を取り出して、電池をはめる。念のためにスマホに繋げると、ちゃんと小さな光が灯った。
片手でひとまとめに持って、ゆっくり後ろ足に歩いて、上の棚を見上げる。
黒い蓋に閉ざされた白い箱。
思わず、空いた手で、スマホと充電器を握り締めた手首を掴む。痛いくらいに、理性では止めらない力を込めて。こうすることは、もう何度目になるのだろう。
正しい対処法も分からない。目を逸らして、深く深く息を吐いて、せり上がってきたものを静めることしか出来ない。このやり方も、初めて知った時から変わらない。
ようやく解放出来た手で、逃げるようにクローゼットを閉める。バタンと、いつもより固くて大きな音が響いた。
顔の前で両手を合わせて、もう一度、私が声を出すより早く、彼女は明るい笑顔を見せて首を振る。
「ごめん。約束してたのに」
それでも言うと、「いいの、気にしないで」と今日はポニーテールに結んだ髪を揺り動かす。真似るように、彼女の後ろで白いリボンが揺れる。
火曜日の昼休み。違うクラスになったからと、一緒に食べることを入学式の翌日に約束した。
「でも、珍しいね。ドタキャンって」
「そう、かな」
「御園は誠実に生きてるもん」
誠実。途中から幼馴染の言葉をなぞって呟く。「悪い意味じゃなくてね」弁解するように、私の声を可憐な声で覆った。
「今日の埋め合わせはちゃんとする」
「うん、そういうとこだよ」
何度も深く頷いて、元気に笑う。幼馴染の笑顔は、眩しくて夏っぽい。ＣＭに出てきそうだ。
黙って見つめると、照れくさそうに顔の横に流した髪に指を絡める。そして、前触れなく大股で教室と廊下の境界線を飛び越えた。
「またね、御園」
小さな手を振るゆらに、またと答えた。わざとらしく大股で歩き出したゆらの小さな背中は、不思議と頼もしい。
ゆらとは反対側へ足を進めて、誠実だと思った。
小学三年、ゴールデンウイークが始まる週の月曜日、ゆらは転校してきた。緊張などまるでない自己紹介をして、人懐っこい笑顔で新しいクラスメイト達を惹きこむと、その日のうちに仲良くなっていた。ゴールデンウイークが明けても、仲良しは変わらなかった。
それどころか、ゆらは学年に限らず、友達を多く作った。小学校、中学校、先月始まったばかりの高校生活でも。
だから、分からなかった。これから高校生活を謳歌しようというタイミングで、違うクラスになった私に約束を持ち掛けて、どうしてそれを律儀に守り続けているのか。
一人でいるのも平気で、友達を作らない私を心配しているなら、それは申し訳なかった。
購買部に着いて、思わず、わ、と声が出た。予想より、多くの生徒が集まっていた。やけに男子生徒の姿が多く、何かしら特別な儀式でも行っているようにも見える。
そういえば、と思い出した。火曜日は人気商品と新商品が売られるから購買部はいつも以上に混む、とゆらから聞いたことがある。
スーパーのタイムセール並みの混雑の中を入っていくのは、空腹の身体では面倒だった。
食堂に行こう。数秒、喧騒を眺めて、思った。残り物には福があるというけれど、それならそれで食堂のものが良い。
また今度、挑戦してみようと思った。勿論、火曜日ではない日に。静かに決意をして、来た道に一歩足を踏み出した。
――肩に、そっと何かが触れた。
「屋上に来て。一緒に食べよ」
振り返るより早く、余裕そうな、けれど切実に願うような声が鼓膜を揺らした。
手が離れていって、いつの間にか遠ざかっていた喧騒の音が戻ってくる。身体ごと背後を見ると、廊下の奥を軽やかな足取りで走っていく背中があった。落ち着いた色の茶髪が肩の上で左右に動いて遊んでる。
見つけるより先に、見つけてもらった。おかげで、用事が半分終わった。けれど、と思う。
屋上で食べるなら、賑やかな購買部で買っていくしかない。
ふぅと静かに深く息を吐いて、覚悟を決める。大丈夫、自分を励まして、握り拳を作る。
大きな背中ばかりに潰されないために縮こませた身体を、混雑に割り入れようとして、突然、手首を掴まれ、ぐいっと引っ張られた。
急いだような力とは裏腹に、ぐらりと揺れてゆっくりと回った世界に――
「急にごめんね」
優しく思いやってくれたのに、何故か声が出てこない。声帯だけが、突然目の前に現れた人を、自分の目を疑っているみたいに。
「これ、得意じゃないのに間違って買っちゃって。良かったら、受け取ってくれないかな」
「……」
返事を待たずに、私の手に置いた。見た目より、どっしとした重いパン。自然と落とした視線を持ち上げると、穏やかな形をした目とぶつかった。
「……あの」
「じゃあ、食べて。美味しいから」
ようやく声が戻った時には、彼の視線が、彼を呼んだ生徒に向いて、すぐに走っていった。
きっと青い空がよく似合う、爽やかな空気を纏った青年。
パンと昨夜のお礼を言うことも、昨夜のことを問いかけることも。出来なかった。
けれど、確かに。昨夜のことを話すには、ここは少し騒がしい。改めて、お礼を言おう。
ストライプ柄の紺に似た青色のネクタイ。一つ年上の先輩。二年生。
朝、知ったこと。それから、また知れた。
購買部から離れて、右手で受け取ったものを両手に乗せて、目の高さにまで上げる。
あんぱん。得意じゃないのに間違えて買ったと言った後に、美味しいからと教えてくれた。
多分、本当は、違う。だから、きっと困っていたからくれた。
全部、多分ときっとで、憶測に過ぎない。
それでも、優しい人だと思った。また会って、お礼を言いたいと思った。
ネームプレートを、今度は見れたらいいと思った。
