バスの中で控え目に手を振るゆらを見送って、バスの待合室に戻った。
座って、小さめのショルダーバッグからスマホを取り出す。つい最近登録した、気になるお店の一つを眺めていると、あっという間に二人のやりとりが目の前に浮かんできた。
「こっちばかりいないで、女子高生の時間も楽しむんだよ」
マスターさんは甘いココアが入ったカップの横に、厚そうな小さな紙を置いた。素早く澪が一枚を取って、残された一つに目を向けたとき、「うわぁ」うんざりとした声が聞こえた。
「そういうこと言うから、おっさんくさいって言われちゃうんだ」
「僕をおっさんだって言うのは、志倉くらいだよ」
右手で取って、両手で摘んで、目の高さにまで持ち上げる。それは、チケットだった。
「叔父さんが常連さんから貰ったらしくて。僕は行ったことがあるから、二人に譲るよ」
「……写真展」
「若者は、何事も経験すべきだよ」
「ほーっら、おっさんくさい」
突然、澪が腕を絡めて引っ張っる。指の間からチケットが擦り抜けて、落ちていった。
カウンター席の床ではなく、ココアの隣に戻っただけ。だから、簡単に拾える位置にある。
「ねぇー、おっさんくさいっしょ?」
優等生とはかけ離れた悪口。近い距離にいる澪を見ると、悪戯っ子な猫みたいに表情でマスターを見つめていた。澪の手にあったはずのチケットは、私から遠ざけたような場所にある。
だから、分かった。澪は知っているから、気遣って、わざとマスターさんをからかっている。
「志倉でも、僕の年齢は知らないでしょ? なら、簡単におっさんって言わない」
マスターさんは、知らない。だから分からない。だけど、何となく、丸眼鏡の奥の目に、僅かに気遣うような色があるように見える。それは、ただの気のせいかもしれないけれど。
「知らないけどぉ、あたしたちより年上ってのは確実っしょ?」
マスターさんは大人で、見張り役で。澪と私をよく見ている。だから今の澪と私の異変にも、少なからず感じ取っているかもしれない。動揺を、隠せていないことは自覚している。
大人のマスターさんをそっと見上げて、次に澪の横顔を見つめる。何も言わない私を置いて、二人は普段通りに、手遅れらしい関係のやりとりを続けていた。
迷いながら、落ちたチケットに目を落とした。
しばらく発作に似た症状が悪化しないように、だけど少し考えながら眺めて、選んだ。
「行けたら、行ってみます。……日曜、友達と遊ぶので」
少し震える手でチケットを拾うと、丁度、不思議と止んでいた二人の声がまた聞こえた。
「ん、いってらー」
「いってらっしゃい」
それだけは仲良く声を重ねて、澪はさっきまでの会話を忘れたように注文し、マスターさんはそれを呆れた顔をして受け取った。
誰かを送り出す言葉。異質なあの場所には似合わないのに、二人はそれをくれた。
私が写真展に行かなくても、行けなくても。少ない選択肢のどれを選んでも、待っていてくれる場所があると、だから思ってしまった。
「……」
スマホを握り締めて、深く息を吸う。重たい足を動かして、ゆっくり腰を上げた。
場所は、分かる。学校の芸術鑑賞やゆらに誘われて、行ったことがあったから、大体は。
歩いて、多分二十分くらい。鞄にスマホを戻して、数人だけの待合室を出た。
写真展もSNSも、写真を見る行為には変わりない。写真なら、毎日SNSで眺めてる。ずっと、輝きが戻っているかどうか確かめて、輝きを探していた。
それに、と思う。
誰かの写真は、お父さんが見せてくれた写真じゃない。
だから、大丈夫。
思うと、ほんの少し楽になった。変わらず足は重く、けれど前に進む速度は少しずつ早くなっていく。
結局、どのくらい時間が掛かったのだろう。上下する胸に手を当てて、息を整える。そしてまた、ゆっくり顔を上げた。
赤いレンガみたいな質感の壁。二重になったガラス扉。
外側の扉と室内に入る扉の間に、チケットと同じデザインの看板が立て掛けられていた。
ドクドクと心臓の音が嫌に早くなる。緊張している。指先が冷えて、強張っている。
だけど、大丈夫。デジタルじゃない写真は避けてきたけど。
今は、見れる気がした。
扉に近づきながら、小さめのショルダーバッグの中から手探りで財布を抜き取って、胸元に抱える。まだ少し怖くて俯いて、押し引き可能な扉を押し開いた。
「写真展の方ですか? それとも――」
女性の声がした。唇を軽く噛んでから顔を上げると、受付をする人が見えた。
「……」
息が、止まった。瞬きをすることを忘れた。
目の前が真っ暗になると思った。それなのに、視界がぼやけたり歪んだりすることなく、ただそこにある世界を、時間も止めずに映し続ける。
「……七瀬」
ふっと空気を揺らしながら、もう忘れようとしていたその声が、耳に届いた。
二年半前のあの日。クリスマスの前の日だった。
「いってきます」も言わないで、「いってきます」も言えないで、何も言わずに玄関で別れた。
無口であまり話さなくて、紙の写真が好きで。幼い頃、休日にどこか連れて行ってくれる時も、そばには必ずカメラがあった。
お父さんが、そこに立っていた。
座って、小さめのショルダーバッグからスマホを取り出す。つい最近登録した、気になるお店の一つを眺めていると、あっという間に二人のやりとりが目の前に浮かんできた。
「こっちばかりいないで、女子高生の時間も楽しむんだよ」
マスターさんは甘いココアが入ったカップの横に、厚そうな小さな紙を置いた。素早く澪が一枚を取って、残された一つに目を向けたとき、「うわぁ」うんざりとした声が聞こえた。
「そういうこと言うから、おっさんくさいって言われちゃうんだ」
「僕をおっさんだって言うのは、志倉くらいだよ」
右手で取って、両手で摘んで、目の高さにまで持ち上げる。それは、チケットだった。
「叔父さんが常連さんから貰ったらしくて。僕は行ったことがあるから、二人に譲るよ」
「……写真展」
「若者は、何事も経験すべきだよ」
「ほーっら、おっさんくさい」
突然、澪が腕を絡めて引っ張っる。指の間からチケットが擦り抜けて、落ちていった。
カウンター席の床ではなく、ココアの隣に戻っただけ。だから、簡単に拾える位置にある。
「ねぇー、おっさんくさいっしょ?」
優等生とはかけ離れた悪口。近い距離にいる澪を見ると、悪戯っ子な猫みたいに表情でマスターを見つめていた。澪の手にあったはずのチケットは、私から遠ざけたような場所にある。
だから、分かった。澪は知っているから、気遣って、わざとマスターさんをからかっている。
「志倉でも、僕の年齢は知らないでしょ? なら、簡単におっさんって言わない」
マスターさんは、知らない。だから分からない。だけど、何となく、丸眼鏡の奥の目に、僅かに気遣うような色があるように見える。それは、ただの気のせいかもしれないけれど。
「知らないけどぉ、あたしたちより年上ってのは確実っしょ?」
マスターさんは大人で、見張り役で。澪と私をよく見ている。だから今の澪と私の異変にも、少なからず感じ取っているかもしれない。動揺を、隠せていないことは自覚している。
大人のマスターさんをそっと見上げて、次に澪の横顔を見つめる。何も言わない私を置いて、二人は普段通りに、手遅れらしい関係のやりとりを続けていた。
迷いながら、落ちたチケットに目を落とした。
しばらく発作に似た症状が悪化しないように、だけど少し考えながら眺めて、選んだ。
「行けたら、行ってみます。……日曜、友達と遊ぶので」
少し震える手でチケットを拾うと、丁度、不思議と止んでいた二人の声がまた聞こえた。
「ん、いってらー」
「いってらっしゃい」
それだけは仲良く声を重ねて、澪はさっきまでの会話を忘れたように注文し、マスターさんはそれを呆れた顔をして受け取った。
誰かを送り出す言葉。異質なあの場所には似合わないのに、二人はそれをくれた。
私が写真展に行かなくても、行けなくても。少ない選択肢のどれを選んでも、待っていてくれる場所があると、だから思ってしまった。
「……」
スマホを握り締めて、深く息を吸う。重たい足を動かして、ゆっくり腰を上げた。
場所は、分かる。学校の芸術鑑賞やゆらに誘われて、行ったことがあったから、大体は。
歩いて、多分二十分くらい。鞄にスマホを戻して、数人だけの待合室を出た。
写真展もSNSも、写真を見る行為には変わりない。写真なら、毎日SNSで眺めてる。ずっと、輝きが戻っているかどうか確かめて、輝きを探していた。
それに、と思う。
誰かの写真は、お父さんが見せてくれた写真じゃない。
だから、大丈夫。
思うと、ほんの少し楽になった。変わらず足は重く、けれど前に進む速度は少しずつ早くなっていく。
結局、どのくらい時間が掛かったのだろう。上下する胸に手を当てて、息を整える。そしてまた、ゆっくり顔を上げた。
赤いレンガみたいな質感の壁。二重になったガラス扉。
外側の扉と室内に入る扉の間に、チケットと同じデザインの看板が立て掛けられていた。
ドクドクと心臓の音が嫌に早くなる。緊張している。指先が冷えて、強張っている。
だけど、大丈夫。デジタルじゃない写真は避けてきたけど。
今は、見れる気がした。
扉に近づきながら、小さめのショルダーバッグの中から手探りで財布を抜き取って、胸元に抱える。まだ少し怖くて俯いて、押し引き可能な扉を押し開いた。
「写真展の方ですか? それとも――」
女性の声がした。唇を軽く噛んでから顔を上げると、受付をする人が見えた。
「……」
息が、止まった。瞬きをすることを忘れた。
目の前が真っ暗になると思った。それなのに、視界がぼやけたり歪んだりすることなく、ただそこにある世界を、時間も止めずに映し続ける。
「……七瀬」
ふっと空気を揺らしながら、もう忘れようとしていたその声が、耳に届いた。
二年半前のあの日。クリスマスの前の日だった。
「いってきます」も言わないで、「いってきます」も言えないで、何も言わずに玄関で別れた。
無口であまり話さなくて、紙の写真が好きで。幼い頃、休日にどこか連れて行ってくれる時も、そばには必ずカメラがあった。
お父さんが、そこに立っていた。