「それ、あたし好き! ね、はんぶんこしない?」 
 遠くの校庭のはしゃぎ声に重ねて、澪が提案する。今は薄いメイクの瞼を大きく開いて、おもちゃを強請る子どもみたいにきらきらさせて。
「駄目です」
 断られるとは思っていなかったのか、素直に何度か瞬いて、両手で持つそれを頬まで上げる。
「こっちのレーズンパンも美味しいよ?」
「では、そちらを味わって食べてください」
「なに、そんなに好きなの? そのたい焼き」
 答えず、大きな一口で齧り付く。背中だからか、すぐにあんこがもっちりとした食感を追い掛けて、舌に転がり込んでくる。深い甘さが色濃く広がる。澪は悔しそうな声を上げながら、「背中派なんだ」と珍しそうに呟く。
「昨日好きになりました」
 一口を終えて、告げる。昨夜、別れ際に先輩がくれた。家で食べてみたら美味しくて、待ちきれない朝になって、コンビニで一つだけ購入し、お昼休みの楽しみにしていた。
「ふーん? よく分かんないけど、好物なら邪魔しなーい」
「そうです。自分の好物は自分で手に入れてください」
「うっわ、マスターみたいなこと言わないで。和の甘いものには目がないんだよぉ」
「知ってます」
 珍しく、澪はレーズンパンをちぎって、大きな一つを口に詰め込んだ。和の甘いものか微妙なそれにも、今にも鼻歌を奏でるように頬を緩める。
 そこで、ふと思った。どうして今まで忘れていたのか、自分でも分からない。
 澪は甘いものが好きで、特に和の甘いものには目がないこと。
 どうして先輩は知っていたのだろうか。澪とは、どんな関係なのだろう。それに。
 どうして、先輩はあの電車の中にいるのだろう。異界駅で会ったことは、まだない。
「おっ、と」
 突然、意識が現実に引き戻される。「好物なんだろー」投げやりな口調と共に、両手にたい焼きを乗せた。
「七瀬?」
 澪が上目遣いで顔の覗き込む。私の異変に戸惑いながらも、心配そうに。私は首を横に振る。
「何でも、ありません」
「そっか」
 私が伝えないことを選んだことを、澪は僅かに悲しそうに答えて、今度はきなこパンを齧る。
 澪には、まだ伝えられない。言っていいのかも、分からない。
 先輩は、あの電車の中で出会う先輩の首には、音のならない鈴がついたチョーカーがない。
 見張り役のマスターさんも、異界駅の関係者を証明するためのチョーカーは必ずつけている。
 考えて唐突に、あの電車の中で、初めて先輩に出会った時のことを思い出した。
『ここは良くない場所だから、戻ってこれなくなる。降りるなら、次の駅がいいよ』
『何度も行ったり来たりを繰り返して、ここはよく知ってるから、安心して』
『銃を持った人は、味方だよ』
 どうしてが溢れていく。それなのに、先輩がくれたおかげで見つけた、昨日好きになったばかりのたい焼きに口をつけていた。