二時間と四十六分も電車に揺られた後、待ち合わせた駅で澪と別れた。丁度よく来たバスに乗って、家のそばのバス停で降りた。
鍵を開けて、玄関で紙袋の底を払う。思っていたより土がついていたらしく、汚れた指を靴の踵に滑り入れる。同時に、背後でドアノブが動く音がした。
「出掛けてたのね」
「……うん」
真っ赤な紅色のピンヒールを靴べらで脱いで、肌色のタイツが玄関マットに乗った。スリッパに手を伸ばして、片足を引っ掛けながら、ふいに横目を私に向ける。
「このお店、街にあったの?」
「ない。隣町、行ってきた」
「そういえば、あのショッピングモールにはあったわね」
それだけ。それ以上は何も言わない。きりっとした印象を抱くスーツの上からも分かる、細い背中が洗面所の方へ向かう。
紙袋を玄関マットの上に置き去りにして、母親に背を向けて家を出た。
五分くらい歩いてから気付いて、コンビニ行く、とメッセージを母親に送る。
適当な言い訳に従って、反対に進んだ足を来た道に戻して、すぐそばで車が行き交う狭い歩道を歩く。少しして左に曲がって、薄暗い広い道に出た。
母親とどう話したらいいのか分からない。二人が離婚する前、どうやって接していたのか覚えてない。
元々、両親は二人とも放任主義だったと思う。仕事が忙しく、それでも幼い頃は、休日に父親が外に連れて行ってくれる時もあった。けれど、あぁしなさいやそれは駄目だと、小言を言われた記憶はなく、一人で過ごすことが普通で、私はそれが平気な子どもだった。
だから中学一年のクリスマスの日。母親から離婚したことを告げられても、何も変わらなかった。朝起きて、自分で作った朝食を食べて、学校に行く。帰ってきたら夕飯を作り、自由に過ごす。
日常は、何も変わらなかった。なのに、ずっと、胸の奥に穴が空いたような感覚が消えない。
「いらっしゃいまーせ」
店員さんの大き目な声に、少し動揺する。平静を装って、店の奥に進んだ。
SNSで見た、新発売の紙パックのジュースをかごに入れる。
近場のスイーツ売り場に向かってから、反対側のパンの棚からあんぱんを選び取る。スイーツ売り場に戻って、手を伸ばした。
「あ」
落ちた声を見上げる。冷たい蛍光灯に照らされても、爽やかな空気は曇らず澄んでいた。
「……先輩」
「こんばんは、七瀬さん」
「こんばんは」
先輩は宇治抹茶の隣の白いスイーツを手に取った。先輩の視線が私のかごに移るのが見えて、咄嗟に背中に隠す。ものはともかく、多分平均より量が多いから。
ふわりと笑みを浮かべて、「はい」宇治抹茶の商品を手渡してくれる。
「家は近い?」
「はい。歩いて十五分くらいです」
「良かったら、近くまで送ってくよ」
私の返事を待たずに、先輩は歩き出す。レジで四回だけ音を鳴らして、コンビニを出て行った。聞き間違いだと思いつつ、早く会計を終わらせて外に出ると、扉のそばで待っていた。
「行こう」
「悪いです。先輩の家は遠くないですか?」
「今は従兄の家に泊まってて、近いから大丈夫だよ。どのあたり?」
「え、っと」
有無を言わせない柔らかな圧を感じて、家の近くのローカルスーパーの名前を呟く。「同じ方向だ」明るく笑って、灰色のスニーカーが動く。大股で四歩進んでから、振り返った。
何だろうと考えるより早く、先輩がぐいっと真剣な顔を近づける。心臓が、びくりと震えた。
「家出とかじゃ、ないよね?」
思わず後退ったせいで、太ももにぶつかったレジ袋がガサっと音を鳴らす。けれど先輩の純粋な視線はどこにも離れないで、私の目と見つめ合っていた。
「ちが、違います」
「本当に? 家出しようとしてるから、俺が送ってくの嫌なんじゃ」
「嫌じゃない!」
気付いたら上擦る声に、恥ずかしくなる。左手で異変のない喉を押さえて、咳ばらいをする。
「リュックは遊んでいたからで、家出ではありません。先輩に送ってもらうのは、申し訳ない、からで」
先輩の目がぱちくりする。何か間違えているのでは、と不安になる。何のために買ったのか忘れたレジ袋を握り締めた時、先輩の端正な顔に微笑みが浮かんだ。
「それなら、やっぱり送ってく」
言って、私のレジ袋まで持って歩き出す。さすがに少し重いから、けれど伸ばした手は簡単に躱される。
「遠慮しないで」
「すみません。ありがとうございます」
「ううん。暗いし、お父さんも心配するだろうから」
何気なく言う。それが一般的な考えだろうと知っていた。だから、右手の人差し指に親指の爪を突き立てて、少し強めに擦る。
「父は、いません。二年半前に、離婚しました」
「じゃあ、お母さんが心配しちゃうから」
「……」
「七瀬さん?」
ふいに足を止めた私に、先輩は不思議そうに首を傾げる。夏木の凜とした声が耳を掠める。
「父がいないと、ごめんって言われることがあったので」
「俺が謝ったら、七瀬さんはもっとモヤモヤしない?」
今度は私が目をぱちくりさせる番だった。思いもよらない、迷いのない堂々とした言葉は、確かにその通りだった。どうして先輩が知っているのか考えたところで、先輩は教えてくれた。
「離婚して片親だって言った友達に、思わずごめんって伝えたことがあったんだ。その友達は、十分幸せだけどって答えて。なんて傲慢だったんだろうって思った」
「……」
人によると思うんだけど。先輩はそう続けて、突然、私の手首を掴んで引き寄せる。「こっち」先輩もまた、狭い歩道より広い道を選んだ。
「七瀬さんは、お母さんと二人で幸せ?」
先輩は私の目を真っ直ぐ捉えて、問いかける。胸の奥がじくりと痛んで、けれど手首に触れる先輩の体温に、不思議と安らかな心地になる。
「よく、分かりません」
「……」
「不幸せではないのは、確かです。不幸せだと思ったら、罰が当たります。ただ、お母さんとどうやって接したらいいのか、分からなくなっていて」
安心、していると気付く。すらすら話している。澪に打ち明けた時とも違う、よく分からない甘い感覚が、指先を痺れさせる。そしてまた、私は息を吸った。
「きっと、戻れない時間を思っているからなんです」
失くしたモノは分かっている。澪の言うように、お父さんの写真を見たら、時間は戻らなくても、欠けたものを埋めることは出来るかもしれない。
温かくて美しい世界に、失くした輝きが戻ってくるかもしれない。
だけど、もしお父さんの写真でも戻らなかったら。そう考えると、怖かった。
それに、いなくなったお父さんの写真を見ることは、私を引き取ってくれた母親への裏切り行為のように思えた。
輝きを取り戻せない事実を確実にすることも、母親への罪悪感も。同じ深い暗がりの中に存在していて、ずっと出口が見つからない。
「傲慢かもしれないこと、言ってもいいかな?」
先輩の手が優しく、私の手を取って繋いだ。
鼓動が、早くなる。だけど、何故か手を離したくなくて、私は首を縦に振る。
「七瀬さんにとって、その時間はとても大切なんだね」
迷いなく向けられた微笑みに、じんわりと胸が沁みて熱くなる。思わず顔を俯けて、空っぽの手を握り締める。浅くなりかけた息を吐いて、ぐっと喉の震えを抑えて、また顔を上げる。
先輩の柔らかな優しい眼差しと見つめ合って、深く頷く。
「とても大切なんです」
「うん」
先輩が手を引く。多分もっと大きな歩幅で歩くはずなのに小さく、ゆったりとした速度で。
だからまた、浮かび上がる。ふわふわとした心地良さと、煙草の残り香が交ざり合う。
優しい先輩に言えなかったことがある。それは、さっき、ようやく分かったこと。
先輩は、お父さんに似ている。
ただ何となく、雰囲気とか香りとか、少し掠れた低い声とか。花を育てる、日の光のようにぬくぬくとした温かな瞳とか。目を見つめて寄り添ってくれるようなところ、とか。
多分それらが合わさって、懐かしさを引き起こす。懐かしさは苦しくなるのに、夢みたいに消えないでそばにいてくれるから、ふっと身体が軽くなる。苦しいくらい、ふわふわと甘いもので満たされて、心が落ち着く。
だからなのか、と急に思った。
「先輩は」
先輩の目がまた、私の瞳を覗くように向いた。
「お父さんに似てます」
言うべきか悩んだ。先輩の睫毛が瞬いて、そして、ふふっ、と上品に微笑んだ。
「こんなに可愛い娘がいたら、毎日送り迎えしたくなるなぁ」
いつかみたいに意地悪な声で言うと、先輩はぎゅっと手の力を強めた。指に針を刺した時みたいに胸が痛んで、けれど私は少し甘えたい気分だったから微笑み返す。
繋いだ手を離したくない理由。
先輩の隣にいる時間が大切だから。
先輩と一緒にいたいから。
――この時間がずっと続けばいいのに。
まるで、恋の歌みたいなセリフが浮かんだ。
鍵を開けて、玄関で紙袋の底を払う。思っていたより土がついていたらしく、汚れた指を靴の踵に滑り入れる。同時に、背後でドアノブが動く音がした。
「出掛けてたのね」
「……うん」
真っ赤な紅色のピンヒールを靴べらで脱いで、肌色のタイツが玄関マットに乗った。スリッパに手を伸ばして、片足を引っ掛けながら、ふいに横目を私に向ける。
「このお店、街にあったの?」
「ない。隣町、行ってきた」
「そういえば、あのショッピングモールにはあったわね」
それだけ。それ以上は何も言わない。きりっとした印象を抱くスーツの上からも分かる、細い背中が洗面所の方へ向かう。
紙袋を玄関マットの上に置き去りにして、母親に背を向けて家を出た。
五分くらい歩いてから気付いて、コンビニ行く、とメッセージを母親に送る。
適当な言い訳に従って、反対に進んだ足を来た道に戻して、すぐそばで車が行き交う狭い歩道を歩く。少しして左に曲がって、薄暗い広い道に出た。
母親とどう話したらいいのか分からない。二人が離婚する前、どうやって接していたのか覚えてない。
元々、両親は二人とも放任主義だったと思う。仕事が忙しく、それでも幼い頃は、休日に父親が外に連れて行ってくれる時もあった。けれど、あぁしなさいやそれは駄目だと、小言を言われた記憶はなく、一人で過ごすことが普通で、私はそれが平気な子どもだった。
だから中学一年のクリスマスの日。母親から離婚したことを告げられても、何も変わらなかった。朝起きて、自分で作った朝食を食べて、学校に行く。帰ってきたら夕飯を作り、自由に過ごす。
日常は、何も変わらなかった。なのに、ずっと、胸の奥に穴が空いたような感覚が消えない。
「いらっしゃいまーせ」
店員さんの大き目な声に、少し動揺する。平静を装って、店の奥に進んだ。
SNSで見た、新発売の紙パックのジュースをかごに入れる。
近場のスイーツ売り場に向かってから、反対側のパンの棚からあんぱんを選び取る。スイーツ売り場に戻って、手を伸ばした。
「あ」
落ちた声を見上げる。冷たい蛍光灯に照らされても、爽やかな空気は曇らず澄んでいた。
「……先輩」
「こんばんは、七瀬さん」
「こんばんは」
先輩は宇治抹茶の隣の白いスイーツを手に取った。先輩の視線が私のかごに移るのが見えて、咄嗟に背中に隠す。ものはともかく、多分平均より量が多いから。
ふわりと笑みを浮かべて、「はい」宇治抹茶の商品を手渡してくれる。
「家は近い?」
「はい。歩いて十五分くらいです」
「良かったら、近くまで送ってくよ」
私の返事を待たずに、先輩は歩き出す。レジで四回だけ音を鳴らして、コンビニを出て行った。聞き間違いだと思いつつ、早く会計を終わらせて外に出ると、扉のそばで待っていた。
「行こう」
「悪いです。先輩の家は遠くないですか?」
「今は従兄の家に泊まってて、近いから大丈夫だよ。どのあたり?」
「え、っと」
有無を言わせない柔らかな圧を感じて、家の近くのローカルスーパーの名前を呟く。「同じ方向だ」明るく笑って、灰色のスニーカーが動く。大股で四歩進んでから、振り返った。
何だろうと考えるより早く、先輩がぐいっと真剣な顔を近づける。心臓が、びくりと震えた。
「家出とかじゃ、ないよね?」
思わず後退ったせいで、太ももにぶつかったレジ袋がガサっと音を鳴らす。けれど先輩の純粋な視線はどこにも離れないで、私の目と見つめ合っていた。
「ちが、違います」
「本当に? 家出しようとしてるから、俺が送ってくの嫌なんじゃ」
「嫌じゃない!」
気付いたら上擦る声に、恥ずかしくなる。左手で異変のない喉を押さえて、咳ばらいをする。
「リュックは遊んでいたからで、家出ではありません。先輩に送ってもらうのは、申し訳ない、からで」
先輩の目がぱちくりする。何か間違えているのでは、と不安になる。何のために買ったのか忘れたレジ袋を握り締めた時、先輩の端正な顔に微笑みが浮かんだ。
「それなら、やっぱり送ってく」
言って、私のレジ袋まで持って歩き出す。さすがに少し重いから、けれど伸ばした手は簡単に躱される。
「遠慮しないで」
「すみません。ありがとうございます」
「ううん。暗いし、お父さんも心配するだろうから」
何気なく言う。それが一般的な考えだろうと知っていた。だから、右手の人差し指に親指の爪を突き立てて、少し強めに擦る。
「父は、いません。二年半前に、離婚しました」
「じゃあ、お母さんが心配しちゃうから」
「……」
「七瀬さん?」
ふいに足を止めた私に、先輩は不思議そうに首を傾げる。夏木の凜とした声が耳を掠める。
「父がいないと、ごめんって言われることがあったので」
「俺が謝ったら、七瀬さんはもっとモヤモヤしない?」
今度は私が目をぱちくりさせる番だった。思いもよらない、迷いのない堂々とした言葉は、確かにその通りだった。どうして先輩が知っているのか考えたところで、先輩は教えてくれた。
「離婚して片親だって言った友達に、思わずごめんって伝えたことがあったんだ。その友達は、十分幸せだけどって答えて。なんて傲慢だったんだろうって思った」
「……」
人によると思うんだけど。先輩はそう続けて、突然、私の手首を掴んで引き寄せる。「こっち」先輩もまた、狭い歩道より広い道を選んだ。
「七瀬さんは、お母さんと二人で幸せ?」
先輩は私の目を真っ直ぐ捉えて、問いかける。胸の奥がじくりと痛んで、けれど手首に触れる先輩の体温に、不思議と安らかな心地になる。
「よく、分かりません」
「……」
「不幸せではないのは、確かです。不幸せだと思ったら、罰が当たります。ただ、お母さんとどうやって接したらいいのか、分からなくなっていて」
安心、していると気付く。すらすら話している。澪に打ち明けた時とも違う、よく分からない甘い感覚が、指先を痺れさせる。そしてまた、私は息を吸った。
「きっと、戻れない時間を思っているからなんです」
失くしたモノは分かっている。澪の言うように、お父さんの写真を見たら、時間は戻らなくても、欠けたものを埋めることは出来るかもしれない。
温かくて美しい世界に、失くした輝きが戻ってくるかもしれない。
だけど、もしお父さんの写真でも戻らなかったら。そう考えると、怖かった。
それに、いなくなったお父さんの写真を見ることは、私を引き取ってくれた母親への裏切り行為のように思えた。
輝きを取り戻せない事実を確実にすることも、母親への罪悪感も。同じ深い暗がりの中に存在していて、ずっと出口が見つからない。
「傲慢かもしれないこと、言ってもいいかな?」
先輩の手が優しく、私の手を取って繋いだ。
鼓動が、早くなる。だけど、何故か手を離したくなくて、私は首を縦に振る。
「七瀬さんにとって、その時間はとても大切なんだね」
迷いなく向けられた微笑みに、じんわりと胸が沁みて熱くなる。思わず顔を俯けて、空っぽの手を握り締める。浅くなりかけた息を吐いて、ぐっと喉の震えを抑えて、また顔を上げる。
先輩の柔らかな優しい眼差しと見つめ合って、深く頷く。
「とても大切なんです」
「うん」
先輩が手を引く。多分もっと大きな歩幅で歩くはずなのに小さく、ゆったりとした速度で。
だからまた、浮かび上がる。ふわふわとした心地良さと、煙草の残り香が交ざり合う。
優しい先輩に言えなかったことがある。それは、さっき、ようやく分かったこと。
先輩は、お父さんに似ている。
ただ何となく、雰囲気とか香りとか、少し掠れた低い声とか。花を育てる、日の光のようにぬくぬくとした温かな瞳とか。目を見つめて寄り添ってくれるようなところ、とか。
多分それらが合わさって、懐かしさを引き起こす。懐かしさは苦しくなるのに、夢みたいに消えないでそばにいてくれるから、ふっと身体が軽くなる。苦しいくらい、ふわふわと甘いもので満たされて、心が落ち着く。
だからなのか、と急に思った。
「先輩は」
先輩の目がまた、私の瞳を覗くように向いた。
「お父さんに似てます」
言うべきか悩んだ。先輩の睫毛が瞬いて、そして、ふふっ、と上品に微笑んだ。
「こんなに可愛い娘がいたら、毎日送り迎えしたくなるなぁ」
いつかみたいに意地悪な声で言うと、先輩はぎゅっと手の力を強めた。指に針を刺した時みたいに胸が痛んで、けれど私は少し甘えたい気分だったから微笑み返す。
繋いだ手を離したくない理由。
先輩の隣にいる時間が大切だから。
先輩と一緒にいたいから。
――この時間がずっと続けばいいのに。
まるで、恋の歌みたいなセリフが浮かんだ。