途中、百円に消費税だけのものを扱うお店に寄って、レジャーシートを購入し、澪が案内したのは、緑の芝生が広がる広場だった。犬の散歩をする人や、親と遊ぶ幼児の姿がある。
 思わず、子どもと微笑む父親の姿に目を奪われると、ふいに、「おいで」と指先を掴まれた。
「どーぞ、『姫様』」
「……その呼び名、やっぱり嫌ですね」
 木の影に敷いたレジャーシート寝転がる澪が、大きく口を開けて笑う。澪の軽口のおかげで、いつもの発作に似た症状がすぐに止んだ。今日だけでも、澪は何度も拭ってくれた。
 それを知らずにいる澪は、隣をバシバシ叩く。無言の指示に、私は荷物を置いて、ワンピースの裾を押さえながら寝転がった。綺麗な木漏れ日が眩しくて、もったいないけど瞼を閉じる。
 優しい光が、見えない皮膚の下の、その奥まで撫でてくれているようで。
「ま、本当の姫様なら、誘われてもあたしと一緒にはいないよね」
 それはどこか、自分を蔑ろにする音が含まれているような気がした。温かな陽の熱に瞼を持ち上げることは億劫で、だから手探りで澪の手を掴んだ。見えないせいか、いつもより小さく心細そく感じた。
「確かに。本当のお姫様なら、澪に怒ってばかりいそうですね。行儀悪いとか、馴れ馴れしい、とか。スカート短いとか、スカートで脚広げないとか、言うんですかね?」
「ちょっと、それって悪口じゃん?」
「前も言いましたけど。私は、好きです。澪の、本当は優等生じゃないところ。ギャルっぽいメイクも、結構好きです」
「お、ほんとにー? マスターには不人気だからさぁ」
 さてはマスター、見た目よりおっさんだなぁ。隠しようのない、明らかな悪口を吐く。
 マスターさんのいないところで、そういうことを言うから、危険人物とか言われるのだろうと思った。思ったことを、けれど澪には言わない。二人は、複雑な信頼関係を築いている。
「それで、話しておきたいことって?」
 前触れなく、唐突に、澪は問いかけた。私が掴んだ手を、澪の方から繋ぎ直す。
「本当に、あたしが聞いておいていいこと?」
 澪がどんな表情で、どんな気持ちで、確かめているのか分からない。
 本当は自信がないからなのか。他人の秘密に、踏み込んで触れたくはないからなのか。
「澪には、話しておきたいんです」
 考えた。けれど、答えは決まっていたから。例え澪が深く関わることを面倒だと思っていても、番人とその助手の関係は、変わらなくても。私は少しでもいいから、対等に近づきたい。
「そっか、分かった。じゃあ、聞いておく」
 澪の手が、力を込める。私に最後の勇気を与えるようにも、自分の覚悟を絞り出すようにも、どちらにも思えた。
 私は、離しちゃいけない澪の手を握り返した。そして、透明な空気を吸った。
「今はもう会えない。離婚して二度と帰ってこない。そんな父親の、……お父さんの撮る写真が私は大好きでした」
 最後に見た姿はぼんやりして、それでも黒いスーツについた煙草の残り香が、肺を圧迫しようとする。息が苦しくなりかけて、手の中にある澪の体温に意識を向ける。
「こんなにも温かくて、美しい景色がこの世界には存在するんだって。お父さんの写真を見ると、苦しいくらい、甘くて温かくて、ふわふわしたものが胸に広がって。世界が輝いて見えました」
 異界駅へ向かう途中で、いつも夢を見る。それは幸せな夢で、幸せだった思い出。
「でも、ある時気付いてしまったんです。写真から、世界から輝きが失われていること。輝いて、見えないこと」
「……」
「輝きのない世界は、味がなくて。だから、考えました。SNSを眺めて、探しました。この写真は、流行ってるから、青春ぽいから、可愛いから。それだけで撮ってる。そう思う自分に気付きました」
「……うん」
「実際、私自身がそう思って撮っているのかもしれません。エモいも映えるも、あんなに素敵に見えていたのに」
 大切なものは失ってから気付く。よく言われる言葉。それは何億人も体験したことだからよく言われるのだと知ったのは、どうやっても埋められない喪失感に気付いてすぐだった。
「私は、最悪なんです。人が素敵だと思うものを、心を動かされるものを、嘘っぽく見えて」
 空っぽな手の甲で片目を覆う。残った瞼越しにまだ、光の気配がある。切り離されたように遠い場所で、子どもが泣いている。転んだのか、「痛いね」と父親らしき声が寄り添っていた。
「どうすれば昔のままでいられたのか。……どうすれば、両親が離婚しなかったのか。それを知るために、並行世界の自分に会いたい」
 目を開ければ、眩い光に優しく焼かれる。顔を逸らして、澪を見る。澪も、私の方を向いた。
 澪と私は、静かに見つめ合った。
「それが、私が【切符】を手に入れたい理由です」
 そっと風が吹いて、柔らかな木漏れ日が澪の前髪の辺りで揺れる。特に気にならない様子で、澪は私をじっと見つめる。やがて目を伏せて、深い息を吐いた。
「……言わなくていいって、言ったのに。なかなか律儀だね」
 やっぱり、澪には隠せない。隠すつもりもなかったけれど。そう思った。
 秘密を、澪に言わせてしまった。私は、聞いてしまった。だから、私の秘密も話しておきたかった。
「小さく震えてるの、気付いてた?」
 繋いだ手を持ち上げられる。私達の間に視線を向けると、指先が少し、震えていた。煙草の残り香も、内臓のあちこちに蔓延って淀みを作っている。胸には鈍く、鋭い痛みが共存する。
 全然、平気ではなかった。思わず苦く笑うと、澪は繋いだ手ともう一歩の手で温かく包んだ。
「今の七瀬に言うのは、ごめん。一つだけ、聞くけど」
「はい」
「お父さんの写真があれば、いい?」
 咄嗟に、脳裏に浮かんだ。クローゼットの上の棚に隠すように仕舞い込んだ、黒い蓋の箱。
「七瀬が会えないなら、あたしが会ってもらってくる」 
 思いがけない申し出に、首を横に振っていた。それはきっと、私の中の私のせいだった。
 人格が二つあるわけではない。いつの間にか、居たのだ。あの日の姿のままで。
「お父さんの写真は、あります。でも」
 言葉が続かない。それ以上は、口にしてはいけないような気がした。それがただの気のせいで、言い訳だと分かっていた。だけど、続ける言葉を一瞬で見失ったのも本当だった。
 じっと私を見つめる澪の目が、ふいに空を見上げる。その視線を追いかけて、夕日の気配さえない青い色があった。
「そっか」
 一言だけ、澪は言った。だから、澪で良かったと思った。
 多分、私は分かっていた。澪が下手に励ますことも罵ることも、分かっていることをわざわざ言うこともないと。多分、私は知っていた。
 いくじなし。もう一人の私が呟く。そう言われることも、分かっていた。
 けれど、今は気にならなかった。全く、というと嘘になるけれど、聞かないふりを出来た。
 ただ繋いだ手にぎゅっと力を込めて、白い雲が浮かぶ青い空を眺める。
 澪と一緒なら、何でも出来る気がした。
 バンジージャンプでもスカイダイビングでも。無人島での生活でも。本当に、何でも。
 たとえ、この世界に輝きを取り戻せなくても。
 澪が、そばにいてくれたら。