翌朝、一時間早い電車に乗った。学校に着いて、一度自分のクラスに荷物を置いてから、A組の教室の前で、北村さんを待った。
 一時間早いせいか、少しずつ登校してくる生徒たちをしばらく眺めて、ふと気付いた。
 二つ階段を降りて、昇降口に向かう。狙うなら、登校してきたところだと思いついた。
 渡り廊下を通って右に曲がって、職員室が見えた時、突然、チャイムが鳴った。
 思わず足を止めると、澪が静かに職員室から出てきた。すぐに私に気付いて、スキップに近い足取りでやってくる。放送では、多分生徒指導の先生の声が、三人の生徒を呼び出していた。
「ちょーど、いいところに」
 問いかけようとした私の唇の前に人差し指を立てて、それから私の手を引いて歩き出す。一番近い、非常階段の扉をぴったり閉じて、その場にしゃがみ込んで手招いた。
 促されて同じようにしゃがめば、澪はニヤリと笑って、珍しくスマホを取り出す。
「この最っ悪な動画を、生徒指導の先生に見せてきた」
 言って細い指が操作すれば、画面が動き出した。
 動画だった。音は鳴らず、けれどその場に流れた空気と音を、私は覚えていた。ただ見ているだけで、吐き気みたいなどろっとした煙が臓器を汚していくような感覚を思い出す。
 スマホの中で、私が紙パックの中身をツインテールの先輩にぶっかけた。
「あ、だいじょーぶ。七瀬のは省いたよ。あたしもスカッとしたし、見せるわけない」
「……」
「今の世の中、火のない所にも煙は立つけど。前から嫌な噂が止まないからさ。どーにか出来ないかなって、見張ってた時にね。ちょーど、悪さを始めたってわけ」
 うんざりと気持ち悪そうに、吐き気を飲み込まずに、うげぇ、と顔を顰める。その行動力に、さすが『騎士様』と呼ばれるだけのことはある、とどこか他人事のように感心してしまう。
 それにしても、全く見張ってる気配は感じなかった。番人で鍛えているからだろうか。
「匂い取るの難しそーな、いちごみるくをぶっかけたのは最高だった」
 およそ『騎士様』には似合わないことを口にするから、私もつられて頬が緩んだ。
「悪い人ですね」
「それ、七瀬が言うか」
 顔を見合わせて、二人で静かに笑い合う。いい子より、悪いと言われた方が気が楽だった。
 それに、安心した。嫌なもので澪のスマホの容量を減らしたことは申し訳ないけれど、澪が澪の方法で動いてくれたおかげで、しばらくあの三人は身動きが出来ないだろうと思った。
「んで、日曜はどこ行く?」
 どくりと、心臓が嫌に脈を打った。悟られないように、スマホを出して目を落とす。
 適当に、町のおすすめのカフェやスポットを検索する。どこもピンとこなくて、横目で澪を見る。特に興味が注がれた様子はない。そこで、ふいに思い浮かんだ。
「澪の行きたい場所に行きましょう」
「うぇ?」
 予想外だったのか、素っ頓狂な声を上げる。おかしいのに、胸の下がちくりと痛んだ。
「澪の気の向くままに、澪が心から楽しめる場所に行きたいです」
 適当な言葉に聞こえるのかもしれない。澪は大きな目で、じっと私を見つめる。
 澪に聞きたいことがある。けれどそれは、きっと澪が隠したいことで、触れられたくないこと。本当に聞いていいことなのか分からない。聞いたら、拒絶されてしまうかもしれない。
 だから、私はその前に、伝えたいと思った。聞いておいてほしいと思った。
「言ったなぁ」
 返ってきたのは、そんな口悪い、演技とはかけ離れた言葉だった。
「思う存分、付き合ってもらうからね。覚悟しときなさいな」
 イッシシ、といつもの小者の悪役みたいに笑って、私の腕に細い腕をぐいっと絡める。
 優等生を演じる時も、マスターさんの前で自由に振舞う時も、悪戯っ子みたいに笑う今も消えない澪の明るさの中には、どんなに目を凝らしても、深い暗がりは見えない。
 並行世界の自分を殺したいようにも、死にたいと思ったことがあるようにも。そんな風には、どうしても見えなかった。
 無視をするよりも冷たい澪の声と、夏木の言葉だけが、それが真実だと思わせた。