階段を降りて、第一体育館までの渡り廊下の途中で左に曲がれば、太陽の心地よい光が身体に降り注いだ。不思議と気が少し楽になり、簡易的な鍵を外して、ごみ袋を入れる。
 手ぶらになった手を伸ばし、深呼吸をする。教室棟の方へ一歩足を進めると同時に、誰かの声が聞こえた気がして、後ろを振り返った。
「ふざけてるの?」
 随分乱暴で、苛立たしげな声。気のせいではないことを知って、声の方へ向かう。
 何となく壁に身体を隠して、数人の声を覗く。色違いのネクタイをした三人組に囲まれて、黒縁眼鏡の少女が怯えたように俯いている。私と同じ色のネクタイだ。
「何か言うことがあるんじゃなくって?」
「元々助けてもらうつもりで、わざと階段で足滑らせたんじゃないのぉ?」
「……そんな、ことは」
「怪我したら、どうするつもりだったの」
「そんなことも分からないで、図々しくお礼のクッキー持ってきたりしちゃって」
「こんなもの、『王子』が食べられるわけないでしょ」
 少女の手から奪ったらしい、丁寧に包装された袋ごと地面に投げつける。同時に、先輩の神々しい呼び名に、あ、と今になって気付いた。
 ふんわりとした巻き髪のショートヘア。前髪を真ん中で分けた黒髪ロング。
 そして、リボンで結んだツインテールと上品な口調。
 顔は今見ても、やっぱり思い出せないけれど、その特徴は確かに覚えてる。
 ゆらが危険視している三人組。先輩を『王子』と呼ぶ人達の中でも、『王子』に近づく女の子を敵視するファンクラブ。現実離れした団体は、けれど本当に存在していたと、今知った。
「ねぇ、何か言いなよ」
 同学年のショートヘアの子が、同じ学年の眼鏡の少女の肩を強く押す。簡単によろめいて、ごめ、と動く唇が震えて。気がついた時には、身体が動いていた。
「人を傷つけて楽しいですか」
 少女を背にやって、三人を睨みつける。近い距離でも思い出せない顔が憎々し気に歪んだ。
「その子に関わりないなら、ひっこんでなよぉ」
 解けそうなくらい緩く着けているネクタイと同じ、緩い口調で笑う黒髪ロングの人。ショートヘアの子が私を押しのけて、少女に伸ばそうとする手を、私は迷わず強く払った。
 私がそんなことをするようには見えないのか、目が見開いて、不快な色に染る。
「何すんだよ」
「そんな強気な子だなんて、知らなかったなぁ。もしかして、あの時仮病だったのぉ?」
「そこまでして、お近づきになりたかったのかしら?」
 あの時、と思い出しながら、森の空気が心地いい外にいるのに、吐き気みたいなどろっとした煙が、臓器を汚していくような感覚があることに気付いた。
「何か言いなって」
 吐きたくなる息さえ喉の奥に押し込んで、私は三人に背を向けて、少女の手を掴んだ。
「行こう」
 え、と開いた口は見えたけれど、少女の手を離さないで歩き出す。
「おい、無視すんな」
 空いた手を強く掴まれる。反射的に振り返った視界の端で、少女の肩がびくりと震え上がるのが見えた。――途端、夏木の姿が重なった。
 ポケットから引っこ抜いたそれを感情に任せてこじ開け、中身をツインテールの先輩にぶつける。多分きっとこの人がリーダーだろうから、と思考の端で冷たく呟く私がいた。
「何するのよ!」
「死んだらどうするんですか」
 思うより冷静で、凍てついた声。反対に、目の奥が熱くて痛い。
「貴方たちにとっては正義のつもりでも、やってることは最低です。いなくなってからじゃ、遅い。何も出来ない。償うことも出来ない」
 伝えるつもりはなかったのに、抑えられなかった。言葉にしたせいか、視界が滲んだ。
 零れないせいで涙の膜が張るぼやけた視界で、ツインテールの先輩を支える二人が、呆然とした表情をしているのが何故か分かって、余計に腹立たしくなる。
「別に殺すつもりなんてないわ」
「……つもり」
 繰り返していた。訳の分からない、初めて聞いた言葉みたいに。
「そうだよ。なのに何してんの」
「私たちは、注意しただけなのに。ひどぉい」
 やっぱり、伝わらない。地面に落とされたクッキーを見ようとして、目の前が真っ暗になる。
 ――夏木は、こんなにも心が伝わらない人に苦しめられて、死にたいと思ったんだろうか。
 真っ暗な世界の中で、澪の姿を思い浮かべた時、「危ないっ」と悲鳴のような声が鼓膜を揺らした。
「――大丈夫?」
 ふっと息を止めた。迷いすら見せずに、純粋で真っ直ぐな目が私を見つめていた。
「……」
 深水宗太先輩。心の中で先輩の名前を呼ぶと、強張りが解けるように身体に力が入らなくなる。それでも私の手は、取り戻したいというように少女に伸びていた。
 優しい先輩は、初めて見せる冷たい顔で三人を睨んで、私達に向き直る。何も言わずに、私と少女をその場から連れ出した。
 土足も気にしないで第一体育館の前を突っ切って、特別教室棟の三階、秘密の場所に入る。
 特別な世界に着いた瞬間、気力まで抜け落ちたみたいに、その場に崩れ落ちた。私の手に引っ張られてか、少女は隣でしゃがみ込む。
 先輩は向かい合うように座って、私と目を合わせた。それからまた、問いかける。
「大丈夫?」
 揺るぎない、透き通った声に、指先に血の巡りが確かにあることを思い出した。
「もう、大丈夫です」
 深く頷くと、先輩はじっと見つめてから、首を縦に振る。 
 私を飲み込んだ暗い感情は、正直まだ、身体のあちこちにしこりみたいに固く残っていて、苦しさは消えない。けれど、先輩の温かな瞳と声が、力をくれた。
 同級生の少女に向き直る。不安と心配を複雑に混ぜた表情で、上目遣いに私を見つめていた。
「友達になろう」
 え、と少女は目を丸くする。私は微笑を浮かべて、夏木には出来なかったため口を意識した。
「私は、C組の御園七瀬。貴方は?」
「えっと、あの」
 私は夏木に、無意識に防御線を張った。必要以上に傷つかなくていいように、すぐ別れるからと、敬語を使った。結局、意味がなかった。
 夏木の心残りのために始めた友達のはずなのに、夏木のことを想うとこんなにも胸が痛い。
「同情とは違う」
 今、見つけた。積極的に人と関わってこなかった理由を。私は、もう傷つきたくなかった。
「ちゃんとお礼が出来る子だから、真面目で誠実だと思った。誠実な子は、信頼できる。図々しいと思わない」
 黒縁眼鏡の奥の目をぱちくりさせて、何故か頬を赤らめて俯く。
「……私なんかで、いいんですか?」
「どうして?」
「だって、その。御園さんは」
 言い淀んで、柔く唇を噛む。追い詰めないように、私は無言で続く言葉を待つことにした。
「…………有名人、ですので」
 今度は私が瞬きをする番だった。いつ、どこで、有名人になったのか、まるで覚えがない。
「『姫様』と地味な私なんかが友達になったら、空から槍も画鋲が降ってきます」
「姫、様?」
「すみません、悪い意味じゃないんです。礼儀正しくて、いつも凜とした姿勢を崩さないで、髪や服にいつも乱れがなくて、ちゃんとしていて。いつも美味しそうなお弁当を持ってきていて。それから、細やかな気遣いで人助けをしていて。あ、すみません、勝手に喋ってしまって。『王子』も、すみません」
 首を横に振りながら、早口で捲し立てられた言葉の数々に、思わず先輩に目を向ける。先輩は苦笑いをして、困ったように肩を竦めた。
「そう、らしいね。『王子』が『姫様』をお姫様抱っこしたって、友達にからかわれて。それで、そんな呼び名があるって初めて知った」
 俺は『王子』なんて柄でもないんだけど。複雑そうな顔で呟く先輩に、何も言えない。『騎士様』と呼ばれる澪よりは、先輩は『王子』の柄をしている。私にとっては、ヒーローだけど。
「あっ、すみません」
 彼女はまた慌てたように、その場で正座して深く頭を下げる。
「お二人とも、助けて下さって、ありがとうございました」
 大変な目に遭ったというのに、彼女は初めてたどたどしさを失くして言う。私なんかより余程礼儀正しいと思う。そもそも、どうしてそんな過大評価されているか分からない。
「どういたしまして」
 先輩の柔らかな声に、彼女はゆっくり頭を上げる。その顔に、もう怯えの色はない。
「私が許せなかった。それだけ、だから」
 先輩みたいには、素直に答えられない。だけど、だからなのか、彼女は目を細めて笑った。
「かっこよかったです。周りに誰もいなくて、頭が真っ白になって、どうやって逃げたらいいのか分からなくて。だから、『姫様』が来てくれて。助けてくれて、本当に助かりました」
 本当にありがとうございます。嬉しそうに笑うから、咄嗟に目を逸らしてしまう。
 助けられてよかった。心から、そう思った。するとまた、思い出したみたいに涙が溢れてくる気配があった。
「でも、びっくりしました。あのジュースをかけるとは思わなくて」
「あれは」
 ゆらがくれて、偶然ポケットに入れたままにしていたから。
 そう、言い訳しようとしたことに気付いて、口を閉じた。彼女はまだ、敬語を解いていない。
「そういうこともする。私も、腹が立つ人間だから」
 ふっと、安心させるためのものではない、口元が綻んで、自然と微笑んでいた。
「お弁当は、夕飯の残りを詰めることも多い。人の名前も顔も覚えることは苦手で、廊下を走る時もある。それなりに悩みは多くて、具合悪いのも気付かないふりして、深水先輩に助けてもらった。その前にも後にも、深水先輩には何度も助けてもらった。だから別に、ちゃんと、してるわけじゃない」
 弱音ではなくて、それは彼女にも伝わっているのかどうか、黙って耳を傾けてくれていた。 
「『姫様』なんて柄じゃ、全然ない。だから、友達になってもらえない、かな」
 迷いながら、繋いでないもう一つの手を差し出す。
 難しかった。夏木の時は勢いで、ゆらは特に友達になろうと言って友達になったわけではない。友達を作る方法を、あと少しで十六年生きたことになるのに、私は知らない。
 まだ名前も知らない彼女は、素直に感情を顔に浮かび上がらせる。自信の無さと不安と、困惑みたいな恥じらいと。ころころ変わる表情を見つめていた。
 やがて、彼女はふわりと笑った。森から流れる風を凝縮したような、純粋な笑顔だった。
「御園さんのことを教えてくれて、ありがとう。やっぱり優しくて、でも私と同じ、普通の女子高生なんだね」
「……」
「北村由菜です。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
 私とあまり変わらない大きさの手で、ぎゅっと握って、告げた。強張りが解けない言葉とは裏腹に、その声は軽やかで、心から嬉しそうで、ふっと胸が温かくなる。
 無意識に視線を移した先で、「よかったね」先輩が声を出さずに言って、微笑んでくれた。