「私は、御園七瀬です。貴方の名前を教えて下さい」
「は? なに急に」
「友達になりましょう、私達」
隠した左目を手で覆って、右目を信じられないものを見るような、明らかな疑惑で埋める。
「今からでも私と友達になれば、友達がいたことになります」
目を丸くして、聡い彼女は言葉を受け取った後、ため息を吐きかけて飲み込んだ顔になる。
彼女の答えはもう待たずに、リュックからビニール袋を取り出して、中からあるものを引き寄せながら彼女に近づいた。ぎょっとした顔をして、後退る彼女に差し出す。
「友達の私が、一年後にお互いの母親に渡す約束をしていた、という手紙を渡したら、叶いませんか? 友達がいると、少しは安心させられませんか?」
「……」
彼女の目がぱちくりと動き、私の顔と上品な装いの便箋を彷徨う。ぐっと唇を噛んだ。
「なんて言いましたが、私が友達になりたいんです。貴方と、今からでも」
私が伝えたいことはそれだけだったから、後はもう彼女次第で、私は口を閉じた。
彷徨っていた彼女の目は一度、長い間アスファルトに落ちて。やがて立ち尽くした私を見上げる。何かを言おうとして唇が開き、頬がひくついて、またきつく閉じてから、彼女は答えた。
「……生きてる体で、書けばいいんだよね。死んでごめん、とかじゃなくて」
便箋の端を摘まんで、彼女は初めて弱気な小さな声量で問う。
「貴方が、それで少しでも後悔が減るなら」
彼女の震える指先に、思った。納得のいく答えも、後悔を残さない終わりも、きっとない。
私は、思い上がっていた。おじいさんもおばあさんも、歩夢くんも、心残りが晴れて、だから眩い光にの中に溶けて消えていったと思っていた。けれど、違ったんだ。
言葉にしない小さな後悔が、本当はもっと沢山あった。それでも最後に選んだのが、私達に伝えてくれた心残りだった。
彼女の声を聞いて、迷い続ける彼女を見ていたら、そう思わずにはいられなかった。
「うん」
彼女の手が、彼女の意思で便箋を抜き取った。袋を剥ぎ取った、まだ白紙のそれを見つめる。
「夏木水樹」
便箋を膝に置いて、彼女は顔を上げて告げた。私に向けて、真っ直ぐ手を伸ばす。
「夏木水樹」
書くものちょうだい。私の迷いを溶かすように、彼女は明るく笑う。純粋にきらめく瞳に、私はどうしようもなく泣きたい心地になりながら、それでも我慢して、黒色のペンを渡した。
彼女は、――夏木は、アスファルトに直に便箋を置いて、変化の力を塞がれ失った右手の先の腕で押さえて、ペンを走らせた。邪魔にならないように、便箋の端に筆箱を置いて重しにして、私は少し離れた位置で夏木を見守ることにした。
時折、迷うように手を止めて、落ち着かないように空中に文字を書き、夏木は言葉を綴った。
その姿は、クラスメイトやゆらと変わらなくて、同年代の少女らしいと実感と共に思った。
静かに、視線を移す。澪は私達の様子を、存在感を消してただ見つめていた。遠くにいるから分からない。私達の話が聞こえていたのかどうか。何を感じて、どんな表情をしているのか。
澪と向き合いたい。向き合わなければ、ではなく、そう思った。
少しずつでいいから、もっと私のことを知ってもらって、もっと澪のことを知っていきたい。
「ごめん。封筒開けてちょうだい」
やがて深い息を吐いて、私を見上げると、夏木は言った。数分前よりも、随分と柔らかな顔つきをしている。ずっと気を張っていたのかもしれないと思った。
「はい」
セットの封筒を開いて、夏木の手元に近付ける。時間をかけて、誠実に丁寧に書き上げた手紙を、残った腕と片手で苦労して入れる。一つシールを選んで、貼り付けた。
「ありがと、御園」
「どういたしまして、夏木」
言って、笑い合う。もうずっと前から友達だったみたいに。思って、胸が沁みた。次の瞬間には、夏木の身体が光が纏い始めた。
咄嗟に、私は夏木の残った手を掴んだ。繋いで、体温に触れた。生きた人の熱が残っていた。
「御園」
全てを悟ったような夏木の優しい声に、一瞬で目の前がぼやけて溶けた。
「あの子のそばにいてあげて」
夏木は、静かな笑みを凛とした顔に浮かべる。澪を見る瞳に、悲し気な色を映して。
「いじめられて、初めて死にたいって思って。自分の中に、選択肢が増えた」
思わず瞬きそうになる瞼を開いて、夏木の真っ直ぐで強い目を見つめる。
「それからのうちと、同じ気がする」
光が、どんどん強くなる。眩しい光を少しでも引き留めたくて、掴んだ手に力を込める。
「あの子、死にたいって思ったことがあるかもしれない」
――だからお願い。
夏木らしい、はっきりとした声が聞こえて、突然、手の中のぬくもりが消えた。
ぎゅっと握り締める。線香の甘い香りを、強い光の中に消えた熱を、忘れないように。
「疲労には、甘いものが一番」
音もなく戻ってきた澪が、言った。その声からは、澪らしくない動揺がなくなっていた。
銃のない手で頬を撫でて、柔らかな指先で、私の目から溢れた涙を掬う。私が泣いていることについて、特に何も言わない。触れられない空気を帯びた笑顔を見せて、私の手を引いた。
「マスターをこき使お」
日頃の小言の仕返しだぁー、と小さな子どもみたいにケラケラと笑う。前を行く背中からは何も見えてこない。何も見えない。
「澪」
足を止めて、私の手を掴んだ手を引っ張った。「うおっ」驚いたような声を上げながらも、澪は私に引っ張られたせいではなく、自分の意思で、選んで、振り向いたのだと分かった。
「今度の日曜日、空いてますか?」
澪は話そうと開いた唇を半開きさせて、目をぱちくりさせる。んん、とゆっくり首を傾げた。「遊びたいんです」
異界駅で貯まったお金をどうにかしたくて。続けようと考えていた言葉が出てこない。
流れて、止まない涙が唇を濡らす。喉の奥が、胸が、張り裂けるように痛くて痛くて。
ぼやけた世界で、澪の手が伸びてくるのが見える。何も言わずに涙を拭う澪がどんな表情をしているのかも分からない。
「遊んで、ください」
ひどく熱い喉から、どうにか引っ張り出す。私より少し小さな手を掴んで。
「うん。分かった。日曜、遊ぼ」
両手で私の手を包んで、澪は柔らかな声で答える。
夏木は、最後の最後まで、死んだことを後悔していた。
だから自分と同じかもしれない澪のことを、最後まで気にかけて。
単なる憶測で、数分だけしか会ってない夏木のことなのに、根拠のない確信があった。
夏木は、いじめられてた子を放っておけなくて、けれど助けた子に苦しんでほしいわけじゃないと言えて。残した母親のことが心残りで。最後に、自分と重ねた澪のことを想って。
どうして夏木が、死にたいと思わなきゃいけなかったんだろう。
優しくて強い夏木と、どうしてもっと早く出会えなかったんだろう。こんな、死の空気に溢れた場所じゃなくて、学校で会えていたら。もっと普通の出会い方をしていたら。
夏木が受け入れた夏木の死を、私はいつまでも受け入れたくなくて。変えられないもしもを、何度も何度も考えた。
けれど突き付けられる現実に、縋りつくみたいに澪の手を精一杯握り返した。
この手を離しちゃいけないと、夏木の声が聞こえた気がした。
「は? なに急に」
「友達になりましょう、私達」
隠した左目を手で覆って、右目を信じられないものを見るような、明らかな疑惑で埋める。
「今からでも私と友達になれば、友達がいたことになります」
目を丸くして、聡い彼女は言葉を受け取った後、ため息を吐きかけて飲み込んだ顔になる。
彼女の答えはもう待たずに、リュックからビニール袋を取り出して、中からあるものを引き寄せながら彼女に近づいた。ぎょっとした顔をして、後退る彼女に差し出す。
「友達の私が、一年後にお互いの母親に渡す約束をしていた、という手紙を渡したら、叶いませんか? 友達がいると、少しは安心させられませんか?」
「……」
彼女の目がぱちくりと動き、私の顔と上品な装いの便箋を彷徨う。ぐっと唇を噛んだ。
「なんて言いましたが、私が友達になりたいんです。貴方と、今からでも」
私が伝えたいことはそれだけだったから、後はもう彼女次第で、私は口を閉じた。
彷徨っていた彼女の目は一度、長い間アスファルトに落ちて。やがて立ち尽くした私を見上げる。何かを言おうとして唇が開き、頬がひくついて、またきつく閉じてから、彼女は答えた。
「……生きてる体で、書けばいいんだよね。死んでごめん、とかじゃなくて」
便箋の端を摘まんで、彼女は初めて弱気な小さな声量で問う。
「貴方が、それで少しでも後悔が減るなら」
彼女の震える指先に、思った。納得のいく答えも、後悔を残さない終わりも、きっとない。
私は、思い上がっていた。おじいさんもおばあさんも、歩夢くんも、心残りが晴れて、だから眩い光にの中に溶けて消えていったと思っていた。けれど、違ったんだ。
言葉にしない小さな後悔が、本当はもっと沢山あった。それでも最後に選んだのが、私達に伝えてくれた心残りだった。
彼女の声を聞いて、迷い続ける彼女を見ていたら、そう思わずにはいられなかった。
「うん」
彼女の手が、彼女の意思で便箋を抜き取った。袋を剥ぎ取った、まだ白紙のそれを見つめる。
「夏木水樹」
便箋を膝に置いて、彼女は顔を上げて告げた。私に向けて、真っ直ぐ手を伸ばす。
「夏木水樹」
書くものちょうだい。私の迷いを溶かすように、彼女は明るく笑う。純粋にきらめく瞳に、私はどうしようもなく泣きたい心地になりながら、それでも我慢して、黒色のペンを渡した。
彼女は、――夏木は、アスファルトに直に便箋を置いて、変化の力を塞がれ失った右手の先の腕で押さえて、ペンを走らせた。邪魔にならないように、便箋の端に筆箱を置いて重しにして、私は少し離れた位置で夏木を見守ることにした。
時折、迷うように手を止めて、落ち着かないように空中に文字を書き、夏木は言葉を綴った。
その姿は、クラスメイトやゆらと変わらなくて、同年代の少女らしいと実感と共に思った。
静かに、視線を移す。澪は私達の様子を、存在感を消してただ見つめていた。遠くにいるから分からない。私達の話が聞こえていたのかどうか。何を感じて、どんな表情をしているのか。
澪と向き合いたい。向き合わなければ、ではなく、そう思った。
少しずつでいいから、もっと私のことを知ってもらって、もっと澪のことを知っていきたい。
「ごめん。封筒開けてちょうだい」
やがて深い息を吐いて、私を見上げると、夏木は言った。数分前よりも、随分と柔らかな顔つきをしている。ずっと気を張っていたのかもしれないと思った。
「はい」
セットの封筒を開いて、夏木の手元に近付ける。時間をかけて、誠実に丁寧に書き上げた手紙を、残った腕と片手で苦労して入れる。一つシールを選んで、貼り付けた。
「ありがと、御園」
「どういたしまして、夏木」
言って、笑い合う。もうずっと前から友達だったみたいに。思って、胸が沁みた。次の瞬間には、夏木の身体が光が纏い始めた。
咄嗟に、私は夏木の残った手を掴んだ。繋いで、体温に触れた。生きた人の熱が残っていた。
「御園」
全てを悟ったような夏木の優しい声に、一瞬で目の前がぼやけて溶けた。
「あの子のそばにいてあげて」
夏木は、静かな笑みを凛とした顔に浮かべる。澪を見る瞳に、悲し気な色を映して。
「いじめられて、初めて死にたいって思って。自分の中に、選択肢が増えた」
思わず瞬きそうになる瞼を開いて、夏木の真っ直ぐで強い目を見つめる。
「それからのうちと、同じ気がする」
光が、どんどん強くなる。眩しい光を少しでも引き留めたくて、掴んだ手に力を込める。
「あの子、死にたいって思ったことがあるかもしれない」
――だからお願い。
夏木らしい、はっきりとした声が聞こえて、突然、手の中のぬくもりが消えた。
ぎゅっと握り締める。線香の甘い香りを、強い光の中に消えた熱を、忘れないように。
「疲労には、甘いものが一番」
音もなく戻ってきた澪が、言った。その声からは、澪らしくない動揺がなくなっていた。
銃のない手で頬を撫でて、柔らかな指先で、私の目から溢れた涙を掬う。私が泣いていることについて、特に何も言わない。触れられない空気を帯びた笑顔を見せて、私の手を引いた。
「マスターをこき使お」
日頃の小言の仕返しだぁー、と小さな子どもみたいにケラケラと笑う。前を行く背中からは何も見えてこない。何も見えない。
「澪」
足を止めて、私の手を掴んだ手を引っ張った。「うおっ」驚いたような声を上げながらも、澪は私に引っ張られたせいではなく、自分の意思で、選んで、振り向いたのだと分かった。
「今度の日曜日、空いてますか?」
澪は話そうと開いた唇を半開きさせて、目をぱちくりさせる。んん、とゆっくり首を傾げた。「遊びたいんです」
異界駅で貯まったお金をどうにかしたくて。続けようと考えていた言葉が出てこない。
流れて、止まない涙が唇を濡らす。喉の奥が、胸が、張り裂けるように痛くて痛くて。
ぼやけた世界で、澪の手が伸びてくるのが見える。何も言わずに涙を拭う澪がどんな表情をしているのかも分からない。
「遊んで、ください」
ひどく熱い喉から、どうにか引っ張り出す。私より少し小さな手を掴んで。
「うん。分かった。日曜、遊ぼ」
両手で私の手を包んで、澪は柔らかな声で答える。
夏木は、最後の最後まで、死んだことを後悔していた。
だから自分と同じかもしれない澪のことを、最後まで気にかけて。
単なる憶測で、数分だけしか会ってない夏木のことなのに、根拠のない確信があった。
夏木は、いじめられてた子を放っておけなくて、けれど助けた子に苦しんでほしいわけじゃないと言えて。残した母親のことが心残りで。最後に、自分と重ねた澪のことを想って。
どうして夏木が、死にたいと思わなきゃいけなかったんだろう。
優しくて強い夏木と、どうしてもっと早く出会えなかったんだろう。こんな、死の空気に溢れた場所じゃなくて、学校で会えていたら。もっと普通の出会い方をしていたら。
夏木が受け入れた夏木の死を、私はいつまでも受け入れたくなくて。変えられないもしもを、何度も何度も考えた。
けれど突き付けられる現実に、縋りつくみたいに澪の手を精一杯握り返した。
この手を離しちゃいけないと、夏木の声が聞こえた気がした。