「うちの、見てない?」
 重く淀んだ空気を切り裂くような、力の入った鋭い声がした。
 花が咲いた跡だけが残る花壇を眺めていた、黒色のセーラー服の少女が、突然振り向く。
「落としたの。見てない?」
「何を探しているんですか?」
 長い髪で片目が隠れている。片方の目は、真っ暗な穴のような空洞みたい。じんわりと汗が噴き出るように、胸の中に嫌な感覚が広がる。
 少女が、多分同年代の少女の小さな唇が、答えようと開く。同時に、チョーカーを二回擦る。
 音を塞いだ途端、目の前の少女が背中から倒れていった。アスファルトに吸い込まれる一瞬の間に、空に伸びた少女の手が、黒い爪ごと右手が無くなっているのが見えた。
「爪が凶器だったんだ」
 いつものように、どこからか現れた澪が静かに告げる。番人の訓練で鍛えられた澪の目は、鋭く伸びた爪に気付いたという。小声で紡ぐ話を聞きながら、私は少女をただ見ていた。
「……はっ、最悪」
 しばらく黙っていた少女が、残った左手で固い地面を叩いて、悪態の言葉を吐き出した。
「ごめん、誰か分かんないけど」
 変わらずきりっとした声で言いながら、少女は反動を使って身体を起こし、スッと立ち上がった。一歩近づこうとした足が、すぐに動きを止める。光の灯った目が澪の銃を捉えていた。
「うち、襲おうとしてたからね。大丈夫、いいよ、そのまんまで」
「ご協力ありがとう」
「別に。その方がうちも助かる。これ以上は、近づかないよ」
 目鼻立ちがはっきりした、気の強そうな見た目の少女は、あっさりと応えていた。黒色のセーラー服の襟を払うように叩いて、「背中、いったぁ」と顔を歪める。
「二人は何なの? かっこいいチョーカーつけて、物騒な銃なんか持って。うちの狂気を払ったのは何で?」
 勇敢に現状を知ろうとする姿が、悲しいくらい凜と生きていたことを教えてくれる。
「貴方は、もう既に、亡くなっています」
 躊躇うような間が、入り込む。何度口にしても慣れない言葉に感情を乗せることは、良くないことだと思っていた。だけど、難しかった。
「うん、そう。死んでるよ」
 さっき思い出した。淡々と、まるで他人事のように言う。
 どうして、同年代の彼女はこんなにも冷静に、自分の死を受け入れられるのだろう。
「心残りは、ありますか?」
「うーん、そうだなぁ。え、そういうの聞きたい?」
「何かして欲しいことがあるなら、私達は力になれます」
「ふーん。なるほどね。じゃ、ちょっと待って」
 また他人事みたいに呟いて、彼女は初めて目を逸らして、ずっと眺めていた花壇を見た。左目を隠す長い前髪が表情まで覆って、思考の揺れさえ見えない。
 彼女の力の入った皮膚の下には、何が隠れていて、どんな生きてきた過去があるのだろう。
「あのさ。同情とか、してほしくないんだけど」
 ふいに空気を揺らした声は、どこか絞り出したように聞こえた。
「ま、別に。同情とか、人の自由か。だからいいよ、力になってくれるなら。……なれるなら」
 今度は、ずっと気を張っていた声がひどく弱々しく響いた気がした。遠くに、今もよりももっと手の届かない場所に行ってしまう気がした。
 彼女の言う通り、それは人の受け取り方次第で、私がそう感じただけだけど――
「力になります。出来る範囲で、ですけど必ず」
 彼女は静かに、私達の方を向いた。澪を見て、私を見つめる。そっと伏せた目を、迷いのない速度で上げる。
「うち、自殺してるの」
 真っ直ぐな強い目には、動揺さえない。だけど、無感情でもない感情を抱えていた。
「いじめられてた子を放って置けなくて助けて、その子の代わりみたいにいじめられて。そのいじめから、そんな現実から逃げたいって、毎日思ってた。で、駅の階段から飛び降りた」
「……」
「大怪我して、学校に行かなくてもいい理由が欲しかった気もするし、本気で死にたかった気もする。本当に死んだ今は、理由はよく分かんない」
 苦く笑うみたいに口の端を上げて、長い前髪の上から左目に手を当てる。右目で澪の顔色を窺うような視線を向ける。
 澪の、銃を持つ手が、小刻みに震えていた。
「澪」
 澪の手に手を重ねる。澪の目が、躊躇うように私を見た。小さな震えはまだ止まず、目を合わせたままゆっくり下ろす。澪は抗わなかった。
 自分の銃をウエストのホルダーから抜き取って、初めて、【怪物】に銃を向ける。
「ごめん。やっぱ暗い話だった」
「……いや、君のせいじゃない。あたしの問題だから、大丈夫。続けて」
 精一杯のような声で告げて、澪は私達から離れた。私達からも見える範囲の場所に立って、銃を持ち直し、警戒を解かなかった。彼女の目が労わるように、遠くに行った澪を見つめる。
「君は、大丈夫?」
「平気と言ったら、多分嘘になります。でも、聞かせてください。力になりたいです」
 何がきっかけとなったのか、分からない。けれどきっと、澪も同じだった。同年代の彼女の死は、今まで出会った、生きてきた過去を持つ人達よりも、ずっと近い場所で心が揺らされる。
 私よりも、並行世界の自分を殺そうとしている澪の方が、余程影響を受けるのだと思う。
「……そ。分かった。じゃあ、最後まで聞いてほしい」
「はい」
 堂々と言い放って、彼女は花壇の横に足を伸ばして座り、相変わらず不思議な夜空を仰ぐ。
「心残りは、死んだことだよ。母さんを残して、死んだこと」
「……」
 彼女が、力になれるならと言った理由が、今になって分かった。分かって、胸が痛くなる。
「助けた子を、恨んでないとは言えない。でも別に、だからって苦しんでほしいわけじゃない。死んだことは受け入れてる。どんなに願ったって、死んだことは変わらない。違う?」
「……はい」
 もしもを、私は言わなかった。どこかで、彼女が死ななかった未来もあったかもしれないと。
 伝えたところで、彼女が死んだ世界で、彼女が死んだ事実は変わらない。変えられない。
「うん。だからそうだな。死んだことが心残りは、少し違うか」
 苦笑いで、ざっぱり言う。私は黙って、左手で膝を撫でる彼女の言葉を待った。
「母さん、だな。何の親孝行も出来なかった。それどころか、親不孝だよ。母さんより先に死んで、それも自分で起こしたことで。償いようがないよな。心配かけっぱなしだし――」
「お父さんは」
 自分が出した声に、ようやく気付いて、急いで口を手で塞ぐ。
「いないよ」
 誤魔化そうとした私を見つめていた彼女は、さっぱりした声で答えた。黙っていると、そっと細めた目で私の目を覗くような顔をする。
「うちと同じでしょ?」
「え?」
「片親」
 確信した目つきにどう答えたらいいのか迷って、一度頷いてから、改めて口を開く。
「死んでいるわけではありません。ただ、離婚をしていて」
 すんなりとはいかず、彼女の死の理由よりもよっぽど楽に伝えられる言葉を、躊躇うような速さで繋いだ。彼女はその間も、しっかり耳を傾けてくれて、うんと頷いた。
「同じだ。うちのとこも、離婚。浮気責められた父親が出てった。って言っても、うちがまだ一歳になるかどうかのことらしいし、いないもんだと思ってる」
「……」
「揃ってる人はごめんって言うのに、言わなかったから。どっちと住んでんの?」
「母親です」
「母親。そ、母親ね。仲良いの?」
 また、迷った。彼女は迷いを私の中から読み取ったみたいに、「ま、色々あるわな」呟く。
 彼女は一貫して、達観していた。自分のことも、自分の死も、澪や私の動揺さえ悟って、それでいいと何でも飲み込んで、全て受け入れているようだった。
 それは、何だか、と思うだけで、ただ言いようのない感覚が銃を持つ指先に流れ続ける。
「ほんっと、今更思ったってどうしようもないことは分かってんだけどさ。せめて親不孝する前に、何か一つでも、母さんに何かしてやれれば良かった。言うこと一つでも聞いてればよかった」
 私は、私に引きずられる前に考えた。死んだ今からでも出来る孝行を。けれど見つからない。
「大切な友達を、一人でいいから作りなさいって言われてたんだ。だけど、一人で平気だったし。でも、確かに。友達の一人でも作っとけば、少しは安心させられたのかな」
 水面に枯れ葉が落ちて波紋が広がっていくように、彼女の言葉で思いついた唯一の選択肢が、あっという間に具体的な方法を見つけ出していく。
 一度、澪を見る。澪は銃を彼女にも向け直していた。澪はふいに、こちらを向いて、一度だけ頷く。だから私は銃を下ろして、仕舞った。