「***」
 誰かが、呼んでいる気がした。私の名前を、慌てた声で呼び掛けている気がした。
 ふらりと舞い降りてきた意識に、気怠い瞼を持ち上げる。薄暗い世界で、肩を揺すられていることに気付いて、その後、目が合った。
「七瀬、分かる? ケガは? 具合悪い?」
「……」
 目が光の少ない薄暗い世界に慣れて、澪の表情が見える。どうして頬が赤らんで、心配そうな顔をしているのか分からない。それでも答えようとして、枯れた喉が引っ掻かれ、咳が出た。
「ちょっ、大丈夫? 喉、結構渇いてる?」
「……は、い」
 身体を起こそうとすれば、澪が支えて手伝ってくれる。背中を擦りながら、私の手に置いた。
「ゆらちゃん、すっごい心配してたよ。リュックがあるのに、連絡が取れないって。だから早く連絡してあげて」
「ゆらが?」
「七瀬、行方不明だったの。じゃ、皆に見つかった話して、飲み物も買ってくるから」
 すぐに立ち上がって、いつの間にか開いたらしい扉から出て行った。澪のスマホから零れた光が目を射して、残像も落ち着いてから、手に握ったスマホの画面をつけた。
 下校時間を、あと少しで過ぎてしまう。倉庫に入ってから、およそ二時間は経っていた。
「……行方不明」
 リュックだけ残して、連絡も取れずに二時間。確かに、突然消えたことになる。
 澪に言われた通りに、「澪から聞いた。ごめん、第二体育館の倉庫にいる」とゆらにメッセージを送ってから、そういえばと思った。
 あの三人はどうしたのだろう。誰かを、呼びに行くと言っていたけれど。
「御園!」
 咄嗟に声に顔を上げて、同時に目を焼かれる。閉じた瞼に残る光が止まないうちに、熱い体温に身体を強く抱きしめられた。
「御園! 怪我してない? 大丈夫なの?」
「ごめん、ゆら」
 ひどく掠れた声で答えると、ゆらが両肩を掴んで身体を離した。可愛い恐竜が描かれたトートバックからペットボトルを取り出して、私の手に押しつけた。
 一度頭を下げて、キャップを捻る。渇きを潤している間、ゆらはじっと私を見つめていた。
「ありがとう」
 一気に三分の一を飲み終えたペットボトルを掴んだ私の両手を包んで、静かに呟いた。
「何があったの? どうして、こんな場所に」
「卓球台片付けて、手伝ってくれた子達が虫に驚いて、思わず扉閉めたら変になったみたい」
「じゃあ、扉は志倉先輩が開けてくれたの?」
「うん。腕力あるか、それか、器用なんだと思う」
 番人の澪は、あの細腕で力がある。けれど、知らないゆらは難しそうに眉を顰めた。
「手伝ってくれた子達はどうしたの? 御園を閉じ込めて、放っておいて」
「誰かを呼びに行くって言ってた」
 呼びに行って帰ってきた時には、私は眠っていて返事がなかったから、先に帰ったのかもしれない。
 そんな考えが、突然、途絶えた。ゆらの両手が強く掴んで、ペットボトルが軋んだ音を鳴らす。視界の端に、ゆらのスマホが光を放ったまま放置されていた。
「片付けを手伝ってくれたのって三人?」
「うん。三学年揃った三人だった」
「……やっぱり」
 どうして分かったんだろうと思う私を他所に、ゆらは憎々し気にはっきりした声で呟く。
「御園、テスト前に『王子』に助けてもらったでしょ? 『王子』が美人をお姫様抱っこしたって話題になってた。美男美女似合ってるって」
 その美人がどうして私になるのか、ゆらの情報網はよく分からない。そんな話題すら、私は知らない。
「『王子』って、ファンクラブ? があるの。本人は知らないとこでね」
「そんなにすごいんだ」
「そう、すごいの。でもファン達は、すごいより厄介で。『王子』に近づく女の子を敵視するの。嫌がらせとか平気でするって。先生には気付かれないようにしてるみたいだから、狡賢いんだよ」
「……」 
 へぇーと適当な声を洩らしかけて、喉の奥に慌てて戻す。ゆらが不快そうな顔して、また真実味ある声で教えてくれたそれは、不自然な程に現実離れして聞こえた。
「絶対、その子たちが閉じ込めたんだよ」
「そう、かな? けど、卓球台の片付け手伝ってくれた」
「御園を閉じ込めたままにしたのも事実だよ。きっと最初から、そうするつもりで手伝ったんだよ」
 さすがに横暴な推測だと思った。だけど、いつもころころ変わるゆらの表情に、今まで見たことないくらい深い苛立ちが募っていて。
 どう言葉を返そうか悩むと、ゆらは「けど、御園にまで手を出すとは思わなかった」ぶつぶつと不満を零す。初めて見るゆらの背後で、静かな足音が聞こえた。
「よかった、見つかって」
 頑丈な扉に手を掛けて、私達を見つけた先輩が、ホッと安堵の表情を浮かべる。
「深水先輩!」
「森さん、連絡ありがとう。念のために、近くの人達には伝えといたよ」
「ありがとうございます! 助かります」
 先程までの、先輩と関わりがないと言えば嘘になる不満を隠して、ゆらは元気よく言った。「大したことはしてないよ」また謙遜して、先輩は、私達の前にしゃがんだ。
「御園さん、大丈夫?」
 ふいに、声が出てこなくなる。ゆらがくれた桃の水のおかげで、もう喉は潤っているのに。
「またどこかで倒れてるんじゃないかって、心配した。具合はどう?」
「……」
 瞳が、月の静かな光のように純粋な輝きを放っていて。逸らせないまま、首を縦に振る。
 けれど、先輩の中の不安は消えなかったらしい。先輩の手が、ふいに額に触れる。ゆらより体温が高く、少し湿っている。
「うん、熱はないみたいだね」
 懐かしさが香る手が、離れていく。ふっと沈むような寂しさに、胸が詰まって目を伏せる。
 ゆらと先輩が何か話しているのが、耳に流れてくる声で分かる。その声はぼんやりとして、内容ははっきりとは分からない。二人に気付かれる前に、浅く、静かに息を吐き出す。
「じゃあ、帰ろうか」
 ゆらの手が離れて、声に視線を戻すと、大きな手が差し出されていた。思いがけず昔を思い出し、喉に何かが張り付く。視線が彷徨い、瞳を見上げることも出来ず、ただその手を取った。
 三人で倉庫を出て、振り返る。格子の影を差しながらも月光が降り注いで、どこかに取り残された廃墟で。けれど不思議と、綺麗だと思った。
 ゆらと私を背後に残し、先輩はいとも簡単に頑丈な扉を閉める。ガシャンと音が鳴った時、倉庫の扉の近くに置かれた、三本のペットボトルに気付いた。
 スポーツドリンクが二本と、レモン味の炭酸ジュース。
 ゆらがメモを見つけるよりも早く、何故かそれが、澪が持ってきたものだと分かった。