数学のノートを集めて、職員室、正確には職員室の入り口まで持っていった。そこで、準備室に持って行ってほしいと、ついでが増えた段ボールを預けられた。
 それなりの大きさと重たさ。熱を持ったように、ズキズキとした感覚が追いかけてくる。皮膚の下ではまだ、マスターさんの言う通り、傷が残っているらしい。
 ――「これを飲めば、見た目の傷はなくなるし、傷も残らない」
 え、と疑った耳に、声は出てこない。「志倉に言ったら、余計危ないことするだろうから。秘密ね」とマスターさんは苦笑を浮かべてから、真剣な目で説明をした。
「今からここに来る、異界駅で働くドクターに前に押し付けられて。ただ、薬の効果は本物だよ。本来傷が治るまでの期間は皮膚の下は痛むし、副作用もある。でも、傷が残るのが嫌なら、飲んだ方がいい。自然に治したいなら、傷が残ってもいいなら、飲まないで」
「……」
「御園が選んで」
 答えられずにいると、マスターさんはそれ以上は何も言わずに、救急箱と同じ大きさの灰色の箱をどこかに片付けに行った。
 澪には秘密の薬。マスターさんは選ぶことを委ねたけれど。教えてくれたのは、傷が残る可能性があったからだと思った。やっぱり憶測だから、本当のことは分からない。
 私は、不思議な薬を飲むことを選んだ。
 それが良いのかどうか、分からない。傷が見えないから、いつも通り過ごして、痛くなる。
 傷に繋がっているように、胸の痛みは膨らみ続けて、癒えない。ついでに少し、曖昧な吐き気のようなものも詰まって、消化出来ないでいる。それが副作用なのかも、判断出来ない。
 ほとんど毎日会っていた澪と、校内でもすれ違うことすら出来ていないから、だろうか。
 今まで守っていてくれた澪と、あんな終わり方をしたら、絶対に、後に残ってしまう。
 一度足を止めて、おいしょっと段ボールを持ち直す。変わらない重量感が容赦なく腕に圧し掛かる。自己責任、と口の中で呟いて、大股で一歩を踏み出した。
 ちゃんと、進まないと。焦燥感に似た何かに背中を押され、澪に会おうと思った。
 早く終わらせたくて、早足になる。突然、大股で歩み出した足の重力を見失って、視界がぐらりと歪んで揺れた。大きな荷物が降り掛かって来る覚悟を、一瞬で決める。
 ――目を瞑った瞬間、温かくて爽やかな空気に包まれた。
「よかった、間に合った」
 数秒遅れて、定まった視界の中に、先輩がいた。ゆっくりした認識に身体を動かそうとすると、また目の前が暗くなる。
「大丈夫?」
 先輩が片手で段ボールを抱えて、その場にしゃがませてくれる。前を向いた気力と、意識が遠のいていくような感覚が、あまりにも揃わなくて、気持ち悪い。
 近くで、先輩の声が誰かを呼ぶ。その誰かが段ボールを持って、私が来た道を戻っていく。
「七瀬さん、聞こえる? 保健室まで歩けそう?」
 温かい手で背中を撫でながら、先輩は言った。思考の端で、名前を呼んでくれた、さん付けだけど、と思ってしまう。そんな余裕はある癖に、返事に悩んでしまった。
 だから、だろう。先輩は腰に巻いていた体操着の上着を、しゃがんだままの私の膝にかけると、膝の裏に手を入れて持ち上げた。所謂、お姫様抱っこ状態だと、一瞬遅れて気付いた。
「……あの」
「ごめん、勝手に触って。少しだけ我慢して」
「いえ、私、大丈夫です」
「俺は、大丈夫そうには見えない」
 真剣な横顔で言って、出来るだけ揺らさないように運んでくれる先輩に、口を閉じて目を瞑る。薄暗い視界の中で、誤魔化せない不調があることを、ようやく素直に受け入れた。
「先生、いないみたい」
 薄ら目を開くと、時間は流れていないように感じていたのに、保健室についていた。
 先輩は器用に肘で扉を開けて、真っ直ぐベッドに向かうと、最後まで優しく、柔らかな枕に頭をそっと乗せてくれた。
「すみません。迷惑をかけて」
 ベッドに預けたせいか、余計に身体が重く苦しく感じる。ふんわりとした毛布をかけて、先輩はそばの丸椅子に座った。
「迷惑は、かけられてない」
「……」
「ただ、すごく驚いたし、心配もした。あまりにも血の気がない顔してるから」
 先輩の目つきが本当に誠実で、目の奥は心配そうで、爪の隙間まで罪悪感が押し寄せてくる。
「……すみません。自分の身体なのに過信して、自分で何とかしなきゃいけなかったのに。私のせいで」
 零れた弱音のせいで、また惨めな気分になる。ただ情けなくて、痛くない腕で両目を覆った。
 また、助けてもらった。契約も交わしてない先輩を、頼った。恩返しどころじゃない。
「あの段ボールって、誰かに頼まれたの?」
「え?」
 突拍子もないことを言う先輩を、思わず腕をずらして見てしまう。先輩は真面目な顔だった。
「はい。数学の先生に、ついでだからって」
「あんな大きくて、重い物を。……本当は、違う誰かに頼もうとしてたんじゃない?」
「分かりません。代わりに、集めたノートを持っていったら、頼まれたので」
「じゃあ、きっと代わりに頼まれたんだよ。あの段ボールも」
 そういう先生だから。どこかの名探偵みたいに目を細めて、口の端を上げて笑みを浮かべる。
 今日、やっと見せてくれた笑顔が、身体を預けたベッドよりも柔らかくて、いつかみたいに、ふっと緩んだ。
「やっぱり、七瀬さんは優しいんだね」
 何て答えたらいいのか分からなくて、天井を見上げる。シミのような、変な模様があった。
「優しいから、自分のせいにしちゃうのかもしれない。誰かのせいにするよりは、いいことだと思うけど」
「……」
「だけど、自分のせいだって一人で責任感じて、重く苦しむには、世界は広すぎると思う」
 そっと視線を移そうとして、先輩の大きな手が額に触れた。熱があるわけではないのか、先輩の手の温度の方が高い気がして、けれどそれ以上に、先輩の瞳が日の光のように温かくて。
「それに、人の手伝いをするのは、優しいことだと思う。だから、うん」
「……」
「七瀬さんのせいじゃない。俺は、優しい七瀬さんを助けられて、あんな固い床に身体をぶつけるのを防げて、よかったと思ってる。本当に」
「……」
 髪を梳くように前髪を撫でてくれる手が、心地良くて目を閉じてしまう。鼓膜を揺らした先輩の声が、血液のように身体に、髪の毛の先まで染み渡っていくのが分かる。
 弱いと思う。先輩がくれるもので、簡単に解れていく自分が。けれど、だからこそ、思った。
「先輩は、ヒーローみたいですね」
 少し重たくなった瞼を持ち上げる。先輩が、不思議そうに瞬きをするのが、さっきよりも幼く、頼りなく見えて、可愛いと思った。『王子』よりも、やっぱり親しみある呼び名が似合う。
「いつも私がピンチのときに現れて、助けてくれるから。ヒーローみたいだなって」
「えぇ?」
 静かに手が離れていく。先輩は困ったように笑って、その中に安堵のような色が覗いた。
「私も、先輩みたいになりたいです。助けたいです。幼馴染も、深水先輩も……」
 身体の不調は変わらずあるのに、頭はすっきりしていて、そこに思い浮かべる。
 ゆるふわな明るい茶髪。笑うとえくぼが出来て、優等生を演じていて、実は狡賢い。『騎士様』なんて呼び名があるくらい、正義感が強いくせに、あの場所で一人危ないことをしていた。
 誰かに、置いていかれた過去があるかもしれないこと。
 どんな過去を生きてきて、そう思うのか。並行世界の自分を殺そうとしていること。
「助けたいです。友達でも家族でも、相棒、なのかも分からないけど」
「……」
 先輩は何も言わずに、分からないはずなのに、一度だけ深く頷いてくれる。
「助けたい」
 口ばっかり、と言った。座ってる周辺だけが暗い色をしていて、それ以外は全部白い世界の中にいる、もう一人の私が。膝に頭を押しつけて蹲ったまま、言った。
「応援してる」
 ふいに、世界が晴れた。
 先輩のひどく優しい眼差しに、また湿り気を帯びた懐かしさが巻き戻されてやってくる。知らずに、「でも、体調悪いときはちゃんと休んでね」と人差し指を突き立てて、小学生の先生みたいに告げた。