スマホのアラームが鳴ったのを、ひどく苛立たしそうに舌打ちをして止めると、澪は乱暴にソファに投げた。仮眠の時間は、マイペースながらも大体いつも同じせいで、鳴ったらしい。
他人事のように眺めていれば、突然きつく締められ、じくじくと湿った不快感を思い出した。
「……マスター。傷は? 残る?」
「御園が咄嗟に避けたおかげで、ひどくはないよ」
「だから、残るのって聞いてんじゃん」
「そこは、ドクターに聞かないと分かんない」
教科書で指を切ったよりも少しだけひどい痛みの程度と、大袈裟な程に痛々しく腕に巻かれていく白い包帯が、釣り合っていない気がした。澪の反応も、不釣り合いなくらい荒々しい。
「傷が残ったら、生活できないじゃん」
手当てされている腕とは反対の手で、筋を立ててきつく握り締めている澪の手に触れる。
「澪。大丈夫です。どうにかなります」
「どうにかって何だよ」
「夏服に変わったとはいえ、まだ少し寒いので。制服はカーディガンを着ればいいですし、体育もまだ冬用のままでも不自然ではありません。袖を捲る機会なんて、そうそうないです」
澪は、黙り込んだ。眉間に深く皺を刻んだまま、触れた手の力もまだ解けない。
傷を負った私は、何故か、あっさりとした心地でいた。傷の程度が酷くないからなのかもしれない。それなりに血は流れて、それなりに驚いた。けれどそれ以上に、澪が澪らしくないことが気になった。やっちゃったね、くらい困ったような笑顔で済むと思っていた。
「澪が気にする必要はありません」
丁度、マスターさんが金具で包帯を留めて、感謝を伝えるために振り向こうとした。けれど、出来なかった。突如、澪が私の手を強く払った。
「気にするに決まってんじゃん。馬鹿にしてんの?」
「馬鹿になんて――」
「あたしのせいなんだよ? 七瀬を誘ったのはあたしだし、必ず守る契約を結んだのに、守り切れなかった。あたしが、七瀬に怪我を負わせた」
苛立って、荒々しくなっていた原因は、それだったのかと思う。それも他人事のように思う。
「必ずは、ありません」
澪は言葉を飲み込めないように、閉じた唇をもごもごと動かして、じっと睨みつけるように私を見つめる。真剣に考えてくれているのだと、それだけで十分だった。
「未来は、誰にも分りません。少なくとも、未来を見てきた人でなければ分かりません。だから、確約は出来ません」
「……」
「あらゆる危険も承知で、怪我を負うことも想定して、澪と契約を結ぶことを私が選びました。銃を使わない自然な成仏を、私が、選びました。こうなったのは全て、私の責任です。澪のせいではありません」
私は、私の考えを伝えた。だから、澪の答えを待った。見つめ合っている横で、マスターさんはただ静かに救急箱の中に片付けて、何も口を挟まなかった。
私が出した、変わらない答えは、伝わってくれただろうか。聞いてくれたらと願う。
しばらくして、澪はぐいっと視線をそっぽに向けて、噛み砕くような舌打ちを鳴らした。
「――並行世界のあたしを殺すために、あたしは番人をやってるの」
え、と耳を疑った声は、喉の奥で留まって出てこなかった。澪が片目で、そんな私を見る。
「それが、あたしが【切符】を手に入れたい理由だよ」
あっさりとした心地が、あっという間に真っ暗に染まっていく。浅い息を吸って、吐いたのが、意識から切り離した身体の揺れで伝わってくる。「ま」と、ようやく声が聞こえた。
「待って、ください」
「なに?」
澪の声が無視をするよりも冷たくて、胸が鈍く痛んだ。腕の痛みよりも、遥かにひどい。
「秘密にするっていう条件じゃ」
「うん。だから、七瀬は言わなくていいよ」
分からなくて、何も言えなくなる。分からない時こそ、問わなければいけないのに。
話を聞きたい。そう言った先輩の声を、思い出が集う場所から取り出して、勇気をもらった。
「澪と私の関係は、どうなるんですか?」
「……」
勇気に流されて出した言葉に、自己嫌悪に陥る。どうしてこんな時に、自分のことを考えてしまうのか、もっと他に澪に伝えるべきことがあるんじゃないのか、私が私を非難する。
並行世界の自分を殺す。そんな理由は、きっと番人をしている人でも普通じゃないはずだ。
「とりあえず、七瀬の怪我が治るまで。いや、あと三日で中間考査も始まるし、それが終わるまでは休も」
どっちみち、テスト期間は強制的に休み取らされるし。それだけ続けて、澪はソファに投げたスマホを手に取って、二階に上がっていった。
鬱屈と赤い血が滲み出るような感覚が、骨に隠れた胸の中で広がっていく。思わず抑え込もうとした利き手の手首を、マスターさんが優しい力で引き留めた。「安静に」告げた声は柔らかくて、それなのに胸の中で蔓延っていく痛みは一向に癒えてくれそうになかった。
気持ちが悪い。マスターさんが離した腕を呆然と見つめて、自分にぶつける言葉は変わらず冷たい。それでも、先程の澪の声より、風邪で魘されるような熱がある。
しんどいと思った。不安定な、発作みたいな息苦しさに耐えきれなくなって、テーブルの上に頭を預けようとした時だった。
「選んで」
テーブルの上に、コツン、と音を鳴らして、深緑色の小さなガラス瓶を置いた。
他人事のように眺めていれば、突然きつく締められ、じくじくと湿った不快感を思い出した。
「……マスター。傷は? 残る?」
「御園が咄嗟に避けたおかげで、ひどくはないよ」
「だから、残るのって聞いてんじゃん」
「そこは、ドクターに聞かないと分かんない」
教科書で指を切ったよりも少しだけひどい痛みの程度と、大袈裟な程に痛々しく腕に巻かれていく白い包帯が、釣り合っていない気がした。澪の反応も、不釣り合いなくらい荒々しい。
「傷が残ったら、生活できないじゃん」
手当てされている腕とは反対の手で、筋を立ててきつく握り締めている澪の手に触れる。
「澪。大丈夫です。どうにかなります」
「どうにかって何だよ」
「夏服に変わったとはいえ、まだ少し寒いので。制服はカーディガンを着ればいいですし、体育もまだ冬用のままでも不自然ではありません。袖を捲る機会なんて、そうそうないです」
澪は、黙り込んだ。眉間に深く皺を刻んだまま、触れた手の力もまだ解けない。
傷を負った私は、何故か、あっさりとした心地でいた。傷の程度が酷くないからなのかもしれない。それなりに血は流れて、それなりに驚いた。けれどそれ以上に、澪が澪らしくないことが気になった。やっちゃったね、くらい困ったような笑顔で済むと思っていた。
「澪が気にする必要はありません」
丁度、マスターさんが金具で包帯を留めて、感謝を伝えるために振り向こうとした。けれど、出来なかった。突如、澪が私の手を強く払った。
「気にするに決まってんじゃん。馬鹿にしてんの?」
「馬鹿になんて――」
「あたしのせいなんだよ? 七瀬を誘ったのはあたしだし、必ず守る契約を結んだのに、守り切れなかった。あたしが、七瀬に怪我を負わせた」
苛立って、荒々しくなっていた原因は、それだったのかと思う。それも他人事のように思う。
「必ずは、ありません」
澪は言葉を飲み込めないように、閉じた唇をもごもごと動かして、じっと睨みつけるように私を見つめる。真剣に考えてくれているのだと、それだけで十分だった。
「未来は、誰にも分りません。少なくとも、未来を見てきた人でなければ分かりません。だから、確約は出来ません」
「……」
「あらゆる危険も承知で、怪我を負うことも想定して、澪と契約を結ぶことを私が選びました。銃を使わない自然な成仏を、私が、選びました。こうなったのは全て、私の責任です。澪のせいではありません」
私は、私の考えを伝えた。だから、澪の答えを待った。見つめ合っている横で、マスターさんはただ静かに救急箱の中に片付けて、何も口を挟まなかった。
私が出した、変わらない答えは、伝わってくれただろうか。聞いてくれたらと願う。
しばらくして、澪はぐいっと視線をそっぽに向けて、噛み砕くような舌打ちを鳴らした。
「――並行世界のあたしを殺すために、あたしは番人をやってるの」
え、と耳を疑った声は、喉の奥で留まって出てこなかった。澪が片目で、そんな私を見る。
「それが、あたしが【切符】を手に入れたい理由だよ」
あっさりとした心地が、あっという間に真っ暗に染まっていく。浅い息を吸って、吐いたのが、意識から切り離した身体の揺れで伝わってくる。「ま」と、ようやく声が聞こえた。
「待って、ください」
「なに?」
澪の声が無視をするよりも冷たくて、胸が鈍く痛んだ。腕の痛みよりも、遥かにひどい。
「秘密にするっていう条件じゃ」
「うん。だから、七瀬は言わなくていいよ」
分からなくて、何も言えなくなる。分からない時こそ、問わなければいけないのに。
話を聞きたい。そう言った先輩の声を、思い出が集う場所から取り出して、勇気をもらった。
「澪と私の関係は、どうなるんですか?」
「……」
勇気に流されて出した言葉に、自己嫌悪に陥る。どうしてこんな時に、自分のことを考えてしまうのか、もっと他に澪に伝えるべきことがあるんじゃないのか、私が私を非難する。
並行世界の自分を殺す。そんな理由は、きっと番人をしている人でも普通じゃないはずだ。
「とりあえず、七瀬の怪我が治るまで。いや、あと三日で中間考査も始まるし、それが終わるまでは休も」
どっちみち、テスト期間は強制的に休み取らされるし。それだけ続けて、澪はソファに投げたスマホを手に取って、二階に上がっていった。
鬱屈と赤い血が滲み出るような感覚が、骨に隠れた胸の中で広がっていく。思わず抑え込もうとした利き手の手首を、マスターさんが優しい力で引き留めた。「安静に」告げた声は柔らかくて、それなのに胸の中で蔓延っていく痛みは一向に癒えてくれそうになかった。
気持ちが悪い。マスターさんが離した腕を呆然と見つめて、自分にぶつける言葉は変わらず冷たい。それでも、先程の澪の声より、風邪で魘されるような熱がある。
しんどいと思った。不安定な、発作みたいな息苦しさに耐えきれなくなって、テーブルの上に頭を預けようとした時だった。
「選んで」
テーブルの上に、コツン、と音を鳴らして、深緑色の小さなガラス瓶を置いた。